三原順さんの「はみだしっ子」を、しばらくぶりで読んで驚いたことは、ここ二十年ほど手元になかったにもかかわらず、全編にわたるシーンとセリフを、わたしが一つ残らず完全に記憶していたことでした。なるほど、中高生時代には、よっぽどどっぷりと、この漫画に浸かっていたのだなあ、と今更ながら自覚させられます。
もう一つ、強く感じたことは、「今のわたしの体力・精神力では、この漫画を一気に読破するのは、並大抵のことではない」ということです。一話一話の話の内容が、あまりに重たいので、読んでいて、ともかくきつくて、気力がひたすら消耗させられるのです。特に、少年たちの雪山遭難と殺人事件を描いた「山の上に吹く風は」あたりから、これでもか、これでもかと、どんどん話が深刻になっていきます。短編・中編の一つ一つが、ズシンッと胸にこたえるのです。
昔は、この物語をスラスラと、それも繰り返し読めたことから考えて、ずいぶんと体力・集中力があったものだと、かつての自分に感心してしまいます。それに、よほど暗い性格で、孤独な状況だったのかなあ、とも。
あるいは、当時、若かったわたしには、当然のことながら、たいした人生経験もないので、話の中身の〝重さ〟〝深刻さ〟を実感できず、主人公たちの苦悩の深さを、本当の意味では理解していなかったのかもしれません。それにしても、こんな強烈な漫画を、一生懸命に精魂込めて書いていたことを思うと、「順さま、これを書いてたんじゃ、間違いなく命縮めるよ」と、天国の著者に向かって、ため息混じりで語りかけたくもなります。
読み終わっての感想としては、「順さまは、やっぱり北海道の人なのですね」という感慨があります。というのも、この漫画は、絶対に沖縄では書かれることのない物語だからです。まず、沖縄のような小さな島の社会では、人間同士の関わり方がとても濃密なので、関係性が綺麗さっぱり断たれていく寒々とした感覚があまりありません。良きにつけ悪しきにつけ、人と人がどこかしら〝繋がっている感覚〟が、まだ根強いのです。その逆に、親子の絆ですら、簡単に断たれていくこの物語の凍える情景は、いかにも「広い北海道のどこかしらで、ありがちな話なのでは?」という気もします。
この連作漫画「はみだしっ子」は、我が子を愛せない親の元から逃げ出した子どもたちの物語です。〝実の親〟という肩書きを持ってはいても、自分たちの真摯な愛情の対象とはなり得ない血縁の大人たちを見限って、彼らはさすらいの旅を続けるのです。本当に自分たち4人のことを心から愛してくれる〝恋人〟を求めて。
支配的で温かみのかけらもない夫に耐えられず、母親が姿を消した後で、苛烈で傲慢な父親の支配から逃れて家を出たグレアム。スター女優になる野心と引き換えに母親に捨てられた私生児アンジー。冷酷な夫と身勝手な実父との板挟みで精神を病んだ母親が死んだ後で、心を閉ざした息子を疎んじた父親によって、閉じ込められていた冷たい地下室から、アンジーに救い出されたサーニン。我儘な夫を見限って、母親が他の男と出て行ってしまった後で、アルコールに溺れた父親の虐待に殺されかけ、家を出てさまよっているところを、グレアムに拾われたマックス。
この〝実の親〟と決別した少年たち、グレアム、アンジー、サーニン、マックスの四人組が、リアルな現代社会の深い闇の中を、本当の幸せを求めて彷徨いながら、様々な経験をくぐり抜けていきます。そして、自らの歩みを通して、「人は人のために何ができるのか?」という切実な問いかけを、とことん追求していくのです。
今、振り返って考えてみると、不思議にも思えますが、この強烈で奥深い作品が、当時は日本中の小学生・中学生・高校生に熱狂的に読まれていたのです。幼児化した昨今の世代では考えられないことです。同時に、この連作短編が、雑誌発表当時(1975~81)、毎回異常に人気が高かったことは、この国の一般家庭において、その頃(1970年代半ば)から親子の絆が非常に危うい時代に入りつつあったことを示しているのかもしれません。
そういえば、同じ北海道の作家佐々木丸美さんの処女作「雪の断章(1975)」も、主人公の孤児の少女が、預けられていた家を飛び出し、雪の中を彷徨い、運命の相手に出会うというストーリーでした。愛するものの守りがないままに、この世に放り出された孤独な子どもが、真実の愛を求めて彷徨う物語を描こうとするのは、北海道人に特有の性(サガ)なのでしょうか。
それからもう一つ、以前から思っていたことですが、この漫画は、イギリスを舞台にした物語なのですが、その描き方が通り一遍の薄っぺらなものには感じないのです。少女漫画特有の御都合主義ではなく、付け焼き刃の知識でもないという気がします。むしろ、作者の欧米文化に対する見識や教養の深さが随所に散りばめられていて、それが作品の魅力の一つとなっているのではないでしょうか。特に、作中でグレアムなど登場人物たちが聴いたり読んだりする音楽や小説は、作者の趣味を反映しているのではないかと思われ、ファンとしてはとても興味をそそられます。
例えば、わたしはこの漫画を読んで初めて、英国プログレッシブ・ロックの雄ELP(エマーソン、レイク&パーマー)の演奏するナット・ロッカーを知りました。作中でグレアムが楽しそうに弾いているピアノの曲が知りたくて、ELPのライブ・アルバム「展覧会の絵」を買って、熱心に聴いた覚えがあります。キース・エマーソンの奏でる激しい情熱的なキーボードの音を聴きながら、「グレアムが、この曲をどんな風に弾いたんだろう?」とイメージを膨らませたものです。
また、これもグレアムが読んでいたので、カート・ヴォネガットの小説「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」にも興味を持ちました。当時、この本を買って読んでみて、自分なりに深く考えさせられ、とても感動した記憶があります。世界中の孤児を救うために全財産を投じようとした気のいい億万長者が、周囲から「気が狂った!」と思われて、精神病院に入れられてしまうお話です。
それに、ジャック・ニコルソン主演の映画「カッコーの巣の上で」も観ました。でも、あの残酷な映画は、一度観れば十分で、二度見たいとは思いません。快活だった主人公が、病院側の〝治療〟によって、完全に廃人にされてしまうラストがとても辛かった記憶があります。
その点、「はみだしっ子」シリーズ中の短編「カッコーの鳴く森」のサーニンとクークーの物語は、どこかまだ救いが残されているような気がします。クークーの一途な微笑みと、ひたむきで挫けないサーニンの強い瞳が印象に残ります。
「はみだしっ子」四人組は、信じられないほど語彙が豊富で、独自の煌めくような感性を持った、考え深い思想家たちです。その上、大人たちを出し抜けるくらい知能が高く狡猾で、実務的な面でも恐ろしく有能です。この物語は、そんな非現実的なまでに有能で、精神の自立した小中学生たちが、縦横無尽に大活躍する夢物語の「おとぎ話」ではあります。
しかし、その反面、彼らが彷徨う作中世界における〝世間〟の方は、まぎれもなく、冷徹極まりない現実の世界の一部であると、はっきり感じられるのです。ファンタジーとリアルの激突というか、お伽の国の主人公たち四人組と周囲の凍てつくまでに冷たい現実世界との果てしないギャップが、この特異な物語の核心であるという気がします。
こちら側(四人組の少年たち)と向こう側(世間・実社会)の隔たりをどう橋渡ししたらよいのか、両者の溝をどうやって埋めることができるのか、それがこの漫画の重要なテーマとなっています。それは、わたしたちが、自らの内面世界のファンタジーと、外の世界の現実との隔たりをどう埋めたらよいのか、日頃苦心していることにも通じる気がします。
物語の中で、少年たちは、ファンタジックで人並外れた能力と個性を発揮します。酒を飲み、タバコを吸い、手の込んだ料理ができて、金銭的な援助者はいるとはいっても、彼らだけの力で自立して生きている、夢のように自由な子どもたちです。問答においては、親や大人たちと対等以上に渡り合い、行動においては、悪賢く用意周到な計画を立てて大人を出し抜きます。現実にはあり得ない、スーパー小学生四人組なのです。あろうことか、自分たちの望みを叶えるためには犯罪(馬泥棒!)にまで手を染める、恐るべき無敵の少年たち!
けれども、その四人組の力を持ってしても、現実は途轍もなく厳しいのです。雪山での遭難と殺人事件を契機に、キャプテン・グレアムは精神を病み、彼方へと引きこもってしまい、一時は四人が散りじりバラバラになってしまいます。アンジーはマックスの放った銃弾によって死んでしまった逃亡中の銀行強盗の男の死体を抱えたまま銃で自殺を図り、サーニンは自閉症に逆戻りし、マックスは独りはぐれて孤児院へ入れられてしまうのです。
それでも彼らが、その絶望的状況から立ち直れたのは、彼らがどこまでも〝四人〟であり続けたからです。互いが互いの存在を心底必要とし、最後まで裏切ることなく信頼し続けていられたからこそ、一時的にそれぞれがバラバラに孤立してしまっても、ダメにならずにすんだのです。遠く離れていても、心の中に、互いの魂が住んでいたからです。
何年もの間、孤児院で独りぼっちで成長するマックスの心の中にも、アンジーやサーニンやグレアムが住んでいました。そして、アンジーやサーニンやグレアムの魂は、独りぼっちのマックスを慰め、励まし、支え続けたのです。どんなスーパーマンだって、独りきりでは生きていけないのですから。
四人組がジャックとパムの養子になる直前の短編「もうなにも…」のワンシーンで、アンジーが自分を捨てた母親に向かって、黙示録の中に出てくる赤児の話を、心の中で語りかける場面があります。「誰にも触れられず、話しかけられることもなかったその子どもは、生きていけなかったんだってさ。でも、僕は、僕らは生きてきた。だから、いいよね。」
誰からも、人として重んじられなかった黙示録の子どもは、たとえ衣食住を満たされ、必要最小限の世話を受けたとしても、生きていくことはできなかったのです。そして、親に裏切られた子供にとって、人を信じることは、とてつもなく難しいことでした。それでも、少年たちの柔らかい心は、互いを信じ合うことを学び、互いに慈しみ合うことを覚えました。そして、もう一度、大人を信じてみようと、前へ踏み出すのです。
ちなみに、わたしが一番好きなシーンは「奴らが消えた夜」のラストシーン、マックスが入っていた孤児院の、しっかり者の少女ミッジの部屋の窓辺に、グレアム、マックス、アンジーが再び現れる場面です。ミッジが暗い窓の向こうを見ている後姿、あそこは何度読んでも泣けてしまいます。
〝親の愛〟という守りを失った現代の子どもたちが、この巨大で恐ろしい現実の世の中に一人で対峙することは、とてつもなく苛酷なことです。それを可能にする橋渡し役として、一人ぽっちの子どもの心を支えるために、この四人のファンタジックな子どもたちは、順さまの想像力を介して、この世に誕生したのかもしれません。わたしにはそんな風に思えるのです。
そして、今でも、人生の暗闇に、心が閉ざされ押し潰されそうになった時には、短編「カッコーの鳴く森」で、後天的な自閉症の少女クークーに献身的に寄り添うサーニンや、そのサーニンを案じて、クークーの後見人の牧師に食ってかかるアンジーの姿が目に浮かびます。
「あの子を、サーニンに、時々は会わせてあげて欲しいというのが、そんなに無理な要求なのか。どうせ、あんたは、あの子が落ち込んでいる暗闇にまで、一緒に落ち込んでやる気もないくせに!」
サーニンをクークーに、もう二度と会わせないようにしようとする牧師に向かって、アンジーが言い放った言葉です。結局、サーニンは、その後、二度とクークーに会うことはできません。サーニンが、クークーの信頼を勝ち得ようとして貫いた、その努力のすべては無駄だったのかもしれません。それでも、この時のアンジーのセリフは、わたしにとって、ある意味では、その後の人生の一つの指針となるものでした。
「『あなたの落ち込んでいるところまで、落ち込んでいってあげるよ』と、少しもためらわずに思える人間になりたい」と、わたしは密かに願うようになったのです。やがて、その秘めた願望が、自分にとって、人間を判断する上での、一つの大切な価値観になりました。
短編「窓の向こう」のラストで、運の悪い勘違いから、アンジーに平手打ちされて、「アンジーは冷たいんだ。もし、僕が人殺しなんかしたら、きっと」といじけるマックスにむかって、優しく謝るアンジーの姿も、同じ価値観を体現しています。
「もし、お前が人を殺したら、オレは死体があろうと、その死体の家族がとりすがって、泣きわめいていようと、そんなことは気にもせず、聞きもせず、そうさ、オレは冷たいからね!お前が気に入りそうな、おやすみの歌でも歌ってやるよ。」
このセリフは、道徳的には、非常に問題をはらんだ言葉です。実際、かつてアンジーは、幼いマックスの無意識の殺人をかばい、雪山で独り死体の隠滅処理に奮闘したことさえあるのです。完全に犯罪行為です。ですが、それだからこそ、アンジーにしか言えない生々しい重みのあるセリフとも感じられます。
そして、倫理的な善悪の問題を抜きにして、理屈じゃなく情念として、わたしは勝手に思ってしまったのです。「いつか人を愛したとき、こんな風に言えないなら、それはたいして深い愛ではない」「何があっても、決して見捨てない、そんなボニー&クライドの精神こそが、至高の愛なのだ」と。ともかく、いつの頃からか、わたしはそう考えるようになりました。
そして、今も、わたしは、気負いもてらいもなく、こう言える自分の姿を探しています。(震えるな、わたしの声!)「わたしは決してあなたをひとりにしない。あなたがどんな暗闇に落ち込んでいても、わたしはあなたのいる暗闇に一緒にいるよ。心配しないで。光の見える場所まで、あなたと一緒に泳いでいくから。」
平成の子どもたちは、はたしてこの作品を、どのように読むのでしょうか。わたしの心の深いところに、四人組が永遠に住みついているように、彼らの心の中にも、グレアムやアンジーやサーニンやマックスが、住むことができるでしょうか。それとも、愛情や庇護を、お金やモノで測ることに慣れ切っていて、空想も、内なるファンタジーも、大切にすることを知らない、教えられてきていない世代の子どもたちの心には、もう四人組の声は届かないのでしょうか。
はみだしっ子 漫画文庫 全6巻 完結セット (白泉社文庫)/三原 順

¥5,430
Amazon.co.jp
もう一つ、強く感じたことは、「今のわたしの体力・精神力では、この漫画を一気に読破するのは、並大抵のことではない」ということです。一話一話の話の内容が、あまりに重たいので、読んでいて、ともかくきつくて、気力がひたすら消耗させられるのです。特に、少年たちの雪山遭難と殺人事件を描いた「山の上に吹く風は」あたりから、これでもか、これでもかと、どんどん話が深刻になっていきます。短編・中編の一つ一つが、ズシンッと胸にこたえるのです。
昔は、この物語をスラスラと、それも繰り返し読めたことから考えて、ずいぶんと体力・集中力があったものだと、かつての自分に感心してしまいます。それに、よほど暗い性格で、孤独な状況だったのかなあ、とも。
あるいは、当時、若かったわたしには、当然のことながら、たいした人生経験もないので、話の中身の〝重さ〟〝深刻さ〟を実感できず、主人公たちの苦悩の深さを、本当の意味では理解していなかったのかもしれません。それにしても、こんな強烈な漫画を、一生懸命に精魂込めて書いていたことを思うと、「順さま、これを書いてたんじゃ、間違いなく命縮めるよ」と、天国の著者に向かって、ため息混じりで語りかけたくもなります。
読み終わっての感想としては、「順さまは、やっぱり北海道の人なのですね」という感慨があります。というのも、この漫画は、絶対に沖縄では書かれることのない物語だからです。まず、沖縄のような小さな島の社会では、人間同士の関わり方がとても濃密なので、関係性が綺麗さっぱり断たれていく寒々とした感覚があまりありません。良きにつけ悪しきにつけ、人と人がどこかしら〝繋がっている感覚〟が、まだ根強いのです。その逆に、親子の絆ですら、簡単に断たれていくこの物語の凍える情景は、いかにも「広い北海道のどこかしらで、ありがちな話なのでは?」という気もします。
この連作漫画「はみだしっ子」は、我が子を愛せない親の元から逃げ出した子どもたちの物語です。〝実の親〟という肩書きを持ってはいても、自分たちの真摯な愛情の対象とはなり得ない血縁の大人たちを見限って、彼らはさすらいの旅を続けるのです。本当に自分たち4人のことを心から愛してくれる〝恋人〟を求めて。
支配的で温かみのかけらもない夫に耐えられず、母親が姿を消した後で、苛烈で傲慢な父親の支配から逃れて家を出たグレアム。スター女優になる野心と引き換えに母親に捨てられた私生児アンジー。冷酷な夫と身勝手な実父との板挟みで精神を病んだ母親が死んだ後で、心を閉ざした息子を疎んじた父親によって、閉じ込められていた冷たい地下室から、アンジーに救い出されたサーニン。我儘な夫を見限って、母親が他の男と出て行ってしまった後で、アルコールに溺れた父親の虐待に殺されかけ、家を出てさまよっているところを、グレアムに拾われたマックス。
この〝実の親〟と決別した少年たち、グレアム、アンジー、サーニン、マックスの四人組が、リアルな現代社会の深い闇の中を、本当の幸せを求めて彷徨いながら、様々な経験をくぐり抜けていきます。そして、自らの歩みを通して、「人は人のために何ができるのか?」という切実な問いかけを、とことん追求していくのです。
今、振り返って考えてみると、不思議にも思えますが、この強烈で奥深い作品が、当時は日本中の小学生・中学生・高校生に熱狂的に読まれていたのです。幼児化した昨今の世代では考えられないことです。同時に、この連作短編が、雑誌発表当時(1975~81)、毎回異常に人気が高かったことは、この国の一般家庭において、その頃(1970年代半ば)から親子の絆が非常に危うい時代に入りつつあったことを示しているのかもしれません。
そういえば、同じ北海道の作家佐々木丸美さんの処女作「雪の断章(1975)」も、主人公の孤児の少女が、預けられていた家を飛び出し、雪の中を彷徨い、運命の相手に出会うというストーリーでした。愛するものの守りがないままに、この世に放り出された孤独な子どもが、真実の愛を求めて彷徨う物語を描こうとするのは、北海道人に特有の性(サガ)なのでしょうか。
それからもう一つ、以前から思っていたことですが、この漫画は、イギリスを舞台にした物語なのですが、その描き方が通り一遍の薄っぺらなものには感じないのです。少女漫画特有の御都合主義ではなく、付け焼き刃の知識でもないという気がします。むしろ、作者の欧米文化に対する見識や教養の深さが随所に散りばめられていて、それが作品の魅力の一つとなっているのではないでしょうか。特に、作中でグレアムなど登場人物たちが聴いたり読んだりする音楽や小説は、作者の趣味を反映しているのではないかと思われ、ファンとしてはとても興味をそそられます。
例えば、わたしはこの漫画を読んで初めて、英国プログレッシブ・ロックの雄ELP(エマーソン、レイク&パーマー)の演奏するナット・ロッカーを知りました。作中でグレアムが楽しそうに弾いているピアノの曲が知りたくて、ELPのライブ・アルバム「展覧会の絵」を買って、熱心に聴いた覚えがあります。キース・エマーソンの奏でる激しい情熱的なキーボードの音を聴きながら、「グレアムが、この曲をどんな風に弾いたんだろう?」とイメージを膨らませたものです。
また、これもグレアムが読んでいたので、カート・ヴォネガットの小説「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」にも興味を持ちました。当時、この本を買って読んでみて、自分なりに深く考えさせられ、とても感動した記憶があります。世界中の孤児を救うために全財産を投じようとした気のいい億万長者が、周囲から「気が狂った!」と思われて、精神病院に入れられてしまうお話です。
それに、ジャック・ニコルソン主演の映画「カッコーの巣の上で」も観ました。でも、あの残酷な映画は、一度観れば十分で、二度見たいとは思いません。快活だった主人公が、病院側の〝治療〟によって、完全に廃人にされてしまうラストがとても辛かった記憶があります。
その点、「はみだしっ子」シリーズ中の短編「カッコーの鳴く森」のサーニンとクークーの物語は、どこかまだ救いが残されているような気がします。クークーの一途な微笑みと、ひたむきで挫けないサーニンの強い瞳が印象に残ります。
「はみだしっ子」四人組は、信じられないほど語彙が豊富で、独自の煌めくような感性を持った、考え深い思想家たちです。その上、大人たちを出し抜けるくらい知能が高く狡猾で、実務的な面でも恐ろしく有能です。この物語は、そんな非現実的なまでに有能で、精神の自立した小中学生たちが、縦横無尽に大活躍する夢物語の「おとぎ話」ではあります。
しかし、その反面、彼らが彷徨う作中世界における〝世間〟の方は、まぎれもなく、冷徹極まりない現実の世界の一部であると、はっきり感じられるのです。ファンタジーとリアルの激突というか、お伽の国の主人公たち四人組と周囲の凍てつくまでに冷たい現実世界との果てしないギャップが、この特異な物語の核心であるという気がします。
こちら側(四人組の少年たち)と向こう側(世間・実社会)の隔たりをどう橋渡ししたらよいのか、両者の溝をどうやって埋めることができるのか、それがこの漫画の重要なテーマとなっています。それは、わたしたちが、自らの内面世界のファンタジーと、外の世界の現実との隔たりをどう埋めたらよいのか、日頃苦心していることにも通じる気がします。
物語の中で、少年たちは、ファンタジックで人並外れた能力と個性を発揮します。酒を飲み、タバコを吸い、手の込んだ料理ができて、金銭的な援助者はいるとはいっても、彼らだけの力で自立して生きている、夢のように自由な子どもたちです。問答においては、親や大人たちと対等以上に渡り合い、行動においては、悪賢く用意周到な計画を立てて大人を出し抜きます。現実にはあり得ない、スーパー小学生四人組なのです。あろうことか、自分たちの望みを叶えるためには犯罪(馬泥棒!)にまで手を染める、恐るべき無敵の少年たち!
けれども、その四人組の力を持ってしても、現実は途轍もなく厳しいのです。雪山での遭難と殺人事件を契機に、キャプテン・グレアムは精神を病み、彼方へと引きこもってしまい、一時は四人が散りじりバラバラになってしまいます。アンジーはマックスの放った銃弾によって死んでしまった逃亡中の銀行強盗の男の死体を抱えたまま銃で自殺を図り、サーニンは自閉症に逆戻りし、マックスは独りはぐれて孤児院へ入れられてしまうのです。
それでも彼らが、その絶望的状況から立ち直れたのは、彼らがどこまでも〝四人〟であり続けたからです。互いが互いの存在を心底必要とし、最後まで裏切ることなく信頼し続けていられたからこそ、一時的にそれぞれがバラバラに孤立してしまっても、ダメにならずにすんだのです。遠く離れていても、心の中に、互いの魂が住んでいたからです。
何年もの間、孤児院で独りぼっちで成長するマックスの心の中にも、アンジーやサーニンやグレアムが住んでいました。そして、アンジーやサーニンやグレアムの魂は、独りぼっちのマックスを慰め、励まし、支え続けたのです。どんなスーパーマンだって、独りきりでは生きていけないのですから。
四人組がジャックとパムの養子になる直前の短編「もうなにも…」のワンシーンで、アンジーが自分を捨てた母親に向かって、黙示録の中に出てくる赤児の話を、心の中で語りかける場面があります。「誰にも触れられず、話しかけられることもなかったその子どもは、生きていけなかったんだってさ。でも、僕は、僕らは生きてきた。だから、いいよね。」
誰からも、人として重んじられなかった黙示録の子どもは、たとえ衣食住を満たされ、必要最小限の世話を受けたとしても、生きていくことはできなかったのです。そして、親に裏切られた子供にとって、人を信じることは、とてつもなく難しいことでした。それでも、少年たちの柔らかい心は、互いを信じ合うことを学び、互いに慈しみ合うことを覚えました。そして、もう一度、大人を信じてみようと、前へ踏み出すのです。
ちなみに、わたしが一番好きなシーンは「奴らが消えた夜」のラストシーン、マックスが入っていた孤児院の、しっかり者の少女ミッジの部屋の窓辺に、グレアム、マックス、アンジーが再び現れる場面です。ミッジが暗い窓の向こうを見ている後姿、あそこは何度読んでも泣けてしまいます。
〝親の愛〟という守りを失った現代の子どもたちが、この巨大で恐ろしい現実の世の中に一人で対峙することは、とてつもなく苛酷なことです。それを可能にする橋渡し役として、一人ぽっちの子どもの心を支えるために、この四人のファンタジックな子どもたちは、順さまの想像力を介して、この世に誕生したのかもしれません。わたしにはそんな風に思えるのです。
そして、今でも、人生の暗闇に、心が閉ざされ押し潰されそうになった時には、短編「カッコーの鳴く森」で、後天的な自閉症の少女クークーに献身的に寄り添うサーニンや、そのサーニンを案じて、クークーの後見人の牧師に食ってかかるアンジーの姿が目に浮かびます。
「あの子を、サーニンに、時々は会わせてあげて欲しいというのが、そんなに無理な要求なのか。どうせ、あんたは、あの子が落ち込んでいる暗闇にまで、一緒に落ち込んでやる気もないくせに!」
サーニンをクークーに、もう二度と会わせないようにしようとする牧師に向かって、アンジーが言い放った言葉です。結局、サーニンは、その後、二度とクークーに会うことはできません。サーニンが、クークーの信頼を勝ち得ようとして貫いた、その努力のすべては無駄だったのかもしれません。それでも、この時のアンジーのセリフは、わたしにとって、ある意味では、その後の人生の一つの指針となるものでした。
「『あなたの落ち込んでいるところまで、落ち込んでいってあげるよ』と、少しもためらわずに思える人間になりたい」と、わたしは密かに願うようになったのです。やがて、その秘めた願望が、自分にとって、人間を判断する上での、一つの大切な価値観になりました。
短編「窓の向こう」のラストで、運の悪い勘違いから、アンジーに平手打ちされて、「アンジーは冷たいんだ。もし、僕が人殺しなんかしたら、きっと」といじけるマックスにむかって、優しく謝るアンジーの姿も、同じ価値観を体現しています。
「もし、お前が人を殺したら、オレは死体があろうと、その死体の家族がとりすがって、泣きわめいていようと、そんなことは気にもせず、聞きもせず、そうさ、オレは冷たいからね!お前が気に入りそうな、おやすみの歌でも歌ってやるよ。」
このセリフは、道徳的には、非常に問題をはらんだ言葉です。実際、かつてアンジーは、幼いマックスの無意識の殺人をかばい、雪山で独り死体の隠滅処理に奮闘したことさえあるのです。完全に犯罪行為です。ですが、それだからこそ、アンジーにしか言えない生々しい重みのあるセリフとも感じられます。
そして、倫理的な善悪の問題を抜きにして、理屈じゃなく情念として、わたしは勝手に思ってしまったのです。「いつか人を愛したとき、こんな風に言えないなら、それはたいして深い愛ではない」「何があっても、決して見捨てない、そんなボニー&クライドの精神こそが、至高の愛なのだ」と。ともかく、いつの頃からか、わたしはそう考えるようになりました。
そして、今も、わたしは、気負いもてらいもなく、こう言える自分の姿を探しています。(震えるな、わたしの声!)「わたしは決してあなたをひとりにしない。あなたがどんな暗闇に落ち込んでいても、わたしはあなたのいる暗闇に一緒にいるよ。心配しないで。光の見える場所まで、あなたと一緒に泳いでいくから。」
平成の子どもたちは、はたしてこの作品を、どのように読むのでしょうか。わたしの心の深いところに、四人組が永遠に住みついているように、彼らの心の中にも、グレアムやアンジーやサーニンやマックスが、住むことができるでしょうか。それとも、愛情や庇護を、お金やモノで測ることに慣れ切っていて、空想も、内なるファンタジーも、大切にすることを知らない、教えられてきていない世代の子どもたちの心には、もう四人組の声は届かないのでしょうか。
はみだしっ子 漫画文庫 全6巻 完結セット (白泉社文庫)/三原 順

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