お金がない時は、人は誰しも惨めな気分になります。世の中の人みんなに、お金がないことで見下げられているような気がしたり、いつも人に足元を見透かされているような気もします。
美味しいものも食べずに我慢しないといけないし、欲しいものも買えずに欲求不満がつのります。必要最低限のモノを買うのにも、怖くなって胸がドキドキしたり、気分が悪くなったりします。
人との付き合いも、結局はお金がかかりますから、世間からなるべく遠ざかりたいのですが、そうすると仕事がまわってこなくなって食べていけなくなるので、まったく付き合わないわけにもいきません。でも友だちや知人にもいつも奢られてばかりだと、申し訳なくて、肩身が狭くなり、小さくなってしまいます。無理して人と付き合って、楽しくもないのに笑顔を作ったりもします。恥もいっぱいかき、人にバカにされながら、それでも世間の人の情けを頼って生きていくのです。
でも、それは見方を変えると、惨めでも何でもなくて、ごく当たり前の〝生きる〟ということに過ぎません。昔から「情けは人のためならず」と言いますが、およそこの世に生を受けて、人の情けのおかげを蒙らずに生きてこれた人はいないのです。
また、どんなに努力しても、志を高く持って、清く誠実に生きていても、全然お金が入ってこないということもあります。時に〝利〟がないということもあるのです。それにすっかり運に見放され、世の中に見棄てられている人もいます。その人が見捨てられたのは、その人の努力が足りなかったからではありません。単に運が悪かったのです。
それなのに、裕福な人が、貧しい見棄てられた人を〝負け犬〟と見下げたり、自分の運の良さを誇るのは、まったく下品で感心しないことで、実に理不尽なことでもあります。そのような道理の通らない他人の態度に、傷つくことはないのです。
とは言っても、人は常日頃からあまりに蔑まれ貶められ軽んじられ続けていると、悔しい思いがたまりに溜まって、時として言い知れぬ憤りに襲われることがあります。突発的・衝動的な怒りや憎しみに駆られた人が、ちょっとしたはずみから見ず知らずの人を襲う「通り魔殺人」なども、そうして起こるのです。心の深いところに鬱屈したやり場のない憤りが爆発するのですね。
さらに、多少とも世間的な知恵が発達している人が、窮地に陥ったならば「どんな手段を使っても、人を蹴落としてでも、何としてもお金を掴んでやる!なりふり構ってはいられない!」と考えるのも無理はありません。芥川の「蜘蛛の糸」やドストエフスキーの「ネギの話」みたいなものです。
逆に、お金がまるっきりない時にこそ、目に見えない恩寵を深く感じられるという面もあります。様々な助けによって、今日を無事に生き延びられたことにも、自然と感謝の気持ちが湧いてきます。「明日のことを思い煩うな。明日は炉にくべられる野の花でさえ、神はあのように装ってくださるのだから」という聖書の言葉が、深く心に染みることがあります。マザー・テレサが「貧しいものは幸いである」と言ったのは、そういう意味かもしれません。
とは言え、どんなに助けてもらっても、その恩を返せない申し訳なさや辛さは、本当は人として一番苦しいかもしれません。そんな時は「ああ、お金があったらなあ」と嘆息しないではいられません。
ではお金がある場合はどうでしょう。
お金があるときにも、表面的には余裕がありそうに見えて、実はお金がない時と変わらず、人は不安に責め苛まれるものです。お金が入っても、いつまでも不安は去らないので「なぜだろう?」と考えてみたりもするのですが、結局「これはお金が足りないからだ」と思い込みます。そして更なる財を、これでもか、これでもかと積み上げるのです。
事業を展開し、ブランドものに身を固め、豪邸を建てます。定期預金の口座をいくつも持ち、不動産を買い漁り、アパートやマンションを建てます。資産運用を多角化して、投資リスクを分散します。
ところが、もう盤石だと思えるくらい、資産が増え続けているのに、それでも不安は去らないのです。誰もが自分の財産を狙っているような気がして、疑心暗鬼に陥ります。人を見たら泥棒に思えます。
人のことがまるっきり信用できないので、自分が財産をなくしたら、すべておしまいだと思い込みます。金の切れ目が縁の切れ目で、財産のない自分になど誰も見向きもしないだろうと考えるのです。自分にお金がなくなったら、途端にみんな手のひらを返すだろうと信じています。そして、いざとなれば家族も子どもたちも、他人同様に自分を見捨てるだろうと恐れています。
しかし一方では、子どもには何不自由ない生活を送らせてやりたいと願っています。習い事でも服装でも食べ物でも、ともかくたっぷりお金を掛けることが愛情だと思っています。お金やモノを与えること以上に、より愛情を表現できる有効な手段を知らないのです。
最初は、相手を繋ぎとめるために、お金やモノを与え続けているのですが、それが高じると、そのうち、お金やモノで人を支配する快感に目覚めていきます。
金やダイヤで身を固め、地位や資格や名誉を手にして、優越感と特権意識の虜になり、そうして思うのです。「ああ、お金があるってなんて幸せなんだろう!」
モノやお金で人を思うままに操ることに、たまらない快感を感じているうちに、やがて人を支配することでしか安心感を得られなくなります。そういう人は、我が子に対してすらも、そのように支配的にしか接する術を知りません。子どもが反抗すると、モノを買い与えたり、旅行や留学を勧めたり、ともかくお金を出そうとするのです。
お金・モノ=安心・愛情と信じているので、お金のないその日暮らしの人間が、自分よりも不安が少なく、自分よりも人を信じられて、自分よりも穏やかに生きている様子を想像することなど、とてもできません。そんなことは、宇宙の果てぐらいに想像外の、まったく別世界の出来事なのです。
また、本当に「お金だけあればいい」と割り切ってしまう人もいます。億万長者のくせに、友達づきあいも親戚づきあいもしないのです。何故って付き合いにはお金がかかりますから。人と付き合えば付き合うほどお金が減るのがいやなのです。
「煩わしくないから友だちも親戚も少なければ少ないほどいい」というのが口癖のお金持ちがいますよね。子どもや孫にも「友だちはなるべくつくるなよ」というのが家訓です。
そうして「自分の棺桶は札束でぎっしり満たしてくれ」とか「自分の持っている金製品や宝石はすべて棺桶に入れて欲しい」と遺言するのです。あの世まで持っていけると思っているのでしょうか。死を前にしても「お金さえあれば安心」「お金はあればあるほどいい」と考えるのですね。途轍もないイリュージョンです。
実際には、お金のあるなしは、その人の〝安心〟とはまったく関係がありません。極端な話、一銭もなくても心穏やかに安心していられる人はいますし、逆に億万長者でもいつもビクビクして不安に苛まれ続けている人はいるのです。
お金があっても怯える大金持ちの人は、人生の真実を見通す洞察力に、まったく欠けているのです。洞察力を持ち得ないのは、彼らに真の意味での信仰心がないからです。
世間体を気にかけて、先祖を大切にするフリをし、豪勢なお墓は建てるかもしれません。盛大な法事も行うかもしれません。しかし、それらの行為は、結局ただお金を出しただけです。単なる気休めに過ぎません。彼らには、心底祈るということができないのです。
人間には一寸先の未来を知ることもできません。明日のしあわせを願って人にできることは、信じて祈ることだけです。
クセノフォーンはその著書『ソクラテスの思い出』の中で、ソクラテスの言葉として「人間の知恵で知りうることについて、神に尋ねるのはキチガイのすることである。しかし、人間には知り得ない事柄について、神を頼らないのもキチガイのすることである」という言葉を紹介しています。ソクラテスの言及している〝神〟は、ギリシャ神話の神々だと思われますが、そんなことはどうでもいいのです。大切なことは、ソクラテスが深い信仰心を持っていたということです。
トルストイも、その自作の民話『人は何で生きるか』の中で、人間に関する三つの真実を、天使に語らせています。その一つは「どんな人の中にも天使と悪魔がいる」ということです。もう一つは「人には、自分に何が本当は必要なのかを知ることができない」ということです。そして最後の一つは「人は自分のことを思い煩うことによって生きられているのではなく、愛によって生かされているのだ」ということです。
フラワーレメディーの創始者エドワード・バッチ博士は、治療にあたる時に決して費用を患者さんに請求しませんでした。レメディーを業者に委託して売り出した時も、一切の利益を受け取りませんでした。その代わりに、貧しい人でも買えるように、できるだけ安く売るようにと条件をつけました。
まったく収入がありませんから、バッチ博士はいつもほとんど無一文でした。それなのに、必要なお金は、いつも必ず必要な時に用意されたと言います。急に誰かが寄付をしてくれたり、請求していないのに、誰かが治療費を払ってくれたりしたというのです。なので博士は生涯お金に困るということがありませんでした。
お金があっても無くても、悠々としていられるのは、人の真実を知り、明日に向き合う真の勇気を持っているからです。未来など誰にもわかりません。一寸先は闇とも言います。その見えない明日に裸で向きあって、真剣に思いめぐらせながら、結果はすべて〝大いなるもの〟に委ねて、魂に悔いなく行動していくのが〝生きる〟ということです。
そのことがちゃんとわかっている人は、迫り来る恐怖や不安と戦う術を知っています。ですから彼らは、日々の幸せに感謝しながら過ごすことができ、いざという時には人を支え、安心させることもできるのです。
でも、今の世の中そんな人はなかなかいません。経験の中で魂を磨ける環境が壊れてきており、そういう希少な人たちは、ますます減っていく一方なのではないでしょうか。みな、心よりもお金に執着し、我執に淀んで行くのです。
ですからヒルティが「他人の魂に気遣わなかったからと言って不幸になる者はほとんどいない。しかし、自分の魂に気遣わなかった者は必ず不幸になる」と言ったのは、まったく本当だと思うのです。みんな、自分の魂に気を遣いましょう。
美味しいものも食べずに我慢しないといけないし、欲しいものも買えずに欲求不満がつのります。必要最低限のモノを買うのにも、怖くなって胸がドキドキしたり、気分が悪くなったりします。
人との付き合いも、結局はお金がかかりますから、世間からなるべく遠ざかりたいのですが、そうすると仕事がまわってこなくなって食べていけなくなるので、まったく付き合わないわけにもいきません。でも友だちや知人にもいつも奢られてばかりだと、申し訳なくて、肩身が狭くなり、小さくなってしまいます。無理して人と付き合って、楽しくもないのに笑顔を作ったりもします。恥もいっぱいかき、人にバカにされながら、それでも世間の人の情けを頼って生きていくのです。
でも、それは見方を変えると、惨めでも何でもなくて、ごく当たり前の〝生きる〟ということに過ぎません。昔から「情けは人のためならず」と言いますが、およそこの世に生を受けて、人の情けのおかげを蒙らずに生きてこれた人はいないのです。
また、どんなに努力しても、志を高く持って、清く誠実に生きていても、全然お金が入ってこないということもあります。時に〝利〟がないということもあるのです。それにすっかり運に見放され、世の中に見棄てられている人もいます。その人が見捨てられたのは、その人の努力が足りなかったからではありません。単に運が悪かったのです。
それなのに、裕福な人が、貧しい見棄てられた人を〝負け犬〟と見下げたり、自分の運の良さを誇るのは、まったく下品で感心しないことで、実に理不尽なことでもあります。そのような道理の通らない他人の態度に、傷つくことはないのです。
とは言っても、人は常日頃からあまりに蔑まれ貶められ軽んじられ続けていると、悔しい思いがたまりに溜まって、時として言い知れぬ憤りに襲われることがあります。突発的・衝動的な怒りや憎しみに駆られた人が、ちょっとしたはずみから見ず知らずの人を襲う「通り魔殺人」なども、そうして起こるのです。心の深いところに鬱屈したやり場のない憤りが爆発するのですね。
さらに、多少とも世間的な知恵が発達している人が、窮地に陥ったならば「どんな手段を使っても、人を蹴落としてでも、何としてもお金を掴んでやる!なりふり構ってはいられない!」と考えるのも無理はありません。芥川の「蜘蛛の糸」やドストエフスキーの「ネギの話」みたいなものです。
逆に、お金がまるっきりない時にこそ、目に見えない恩寵を深く感じられるという面もあります。様々な助けによって、今日を無事に生き延びられたことにも、自然と感謝の気持ちが湧いてきます。「明日のことを思い煩うな。明日は炉にくべられる野の花でさえ、神はあのように装ってくださるのだから」という聖書の言葉が、深く心に染みることがあります。マザー・テレサが「貧しいものは幸いである」と言ったのは、そういう意味かもしれません。
とは言え、どんなに助けてもらっても、その恩を返せない申し訳なさや辛さは、本当は人として一番苦しいかもしれません。そんな時は「ああ、お金があったらなあ」と嘆息しないではいられません。
ではお金がある場合はどうでしょう。
お金があるときにも、表面的には余裕がありそうに見えて、実はお金がない時と変わらず、人は不安に責め苛まれるものです。お金が入っても、いつまでも不安は去らないので「なぜだろう?」と考えてみたりもするのですが、結局「これはお金が足りないからだ」と思い込みます。そして更なる財を、これでもか、これでもかと積み上げるのです。
事業を展開し、ブランドものに身を固め、豪邸を建てます。定期預金の口座をいくつも持ち、不動産を買い漁り、アパートやマンションを建てます。資産運用を多角化して、投資リスクを分散します。
ところが、もう盤石だと思えるくらい、資産が増え続けているのに、それでも不安は去らないのです。誰もが自分の財産を狙っているような気がして、疑心暗鬼に陥ります。人を見たら泥棒に思えます。
人のことがまるっきり信用できないので、自分が財産をなくしたら、すべておしまいだと思い込みます。金の切れ目が縁の切れ目で、財産のない自分になど誰も見向きもしないだろうと考えるのです。自分にお金がなくなったら、途端にみんな手のひらを返すだろうと信じています。そして、いざとなれば家族も子どもたちも、他人同様に自分を見捨てるだろうと恐れています。
しかし一方では、子どもには何不自由ない生活を送らせてやりたいと願っています。習い事でも服装でも食べ物でも、ともかくたっぷりお金を掛けることが愛情だと思っています。お金やモノを与えること以上に、より愛情を表現できる有効な手段を知らないのです。
最初は、相手を繋ぎとめるために、お金やモノを与え続けているのですが、それが高じると、そのうち、お金やモノで人を支配する快感に目覚めていきます。
金やダイヤで身を固め、地位や資格や名誉を手にして、優越感と特権意識の虜になり、そうして思うのです。「ああ、お金があるってなんて幸せなんだろう!」
モノやお金で人を思うままに操ることに、たまらない快感を感じているうちに、やがて人を支配することでしか安心感を得られなくなります。そういう人は、我が子に対してすらも、そのように支配的にしか接する術を知りません。子どもが反抗すると、モノを買い与えたり、旅行や留学を勧めたり、ともかくお金を出そうとするのです。
お金・モノ=安心・愛情と信じているので、お金のないその日暮らしの人間が、自分よりも不安が少なく、自分よりも人を信じられて、自分よりも穏やかに生きている様子を想像することなど、とてもできません。そんなことは、宇宙の果てぐらいに想像外の、まったく別世界の出来事なのです。
また、本当に「お金だけあればいい」と割り切ってしまう人もいます。億万長者のくせに、友達づきあいも親戚づきあいもしないのです。何故って付き合いにはお金がかかりますから。人と付き合えば付き合うほどお金が減るのがいやなのです。
「煩わしくないから友だちも親戚も少なければ少ないほどいい」というのが口癖のお金持ちがいますよね。子どもや孫にも「友だちはなるべくつくるなよ」というのが家訓です。
そうして「自分の棺桶は札束でぎっしり満たしてくれ」とか「自分の持っている金製品や宝石はすべて棺桶に入れて欲しい」と遺言するのです。あの世まで持っていけると思っているのでしょうか。死を前にしても「お金さえあれば安心」「お金はあればあるほどいい」と考えるのですね。途轍もないイリュージョンです。
実際には、お金のあるなしは、その人の〝安心〟とはまったく関係がありません。極端な話、一銭もなくても心穏やかに安心していられる人はいますし、逆に億万長者でもいつもビクビクして不安に苛まれ続けている人はいるのです。
お金があっても怯える大金持ちの人は、人生の真実を見通す洞察力に、まったく欠けているのです。洞察力を持ち得ないのは、彼らに真の意味での信仰心がないからです。
世間体を気にかけて、先祖を大切にするフリをし、豪勢なお墓は建てるかもしれません。盛大な法事も行うかもしれません。しかし、それらの行為は、結局ただお金を出しただけです。単なる気休めに過ぎません。彼らには、心底祈るということができないのです。
人間には一寸先の未来を知ることもできません。明日のしあわせを願って人にできることは、信じて祈ることだけです。
クセノフォーンはその著書『ソクラテスの思い出』の中で、ソクラテスの言葉として「人間の知恵で知りうることについて、神に尋ねるのはキチガイのすることである。しかし、人間には知り得ない事柄について、神を頼らないのもキチガイのすることである」という言葉を紹介しています。ソクラテスの言及している〝神〟は、ギリシャ神話の神々だと思われますが、そんなことはどうでもいいのです。大切なことは、ソクラテスが深い信仰心を持っていたということです。
トルストイも、その自作の民話『人は何で生きるか』の中で、人間に関する三つの真実を、天使に語らせています。その一つは「どんな人の中にも天使と悪魔がいる」ということです。もう一つは「人には、自分に何が本当は必要なのかを知ることができない」ということです。そして最後の一つは「人は自分のことを思い煩うことによって生きられているのではなく、愛によって生かされているのだ」ということです。
フラワーレメディーの創始者エドワード・バッチ博士は、治療にあたる時に決して費用を患者さんに請求しませんでした。レメディーを業者に委託して売り出した時も、一切の利益を受け取りませんでした。その代わりに、貧しい人でも買えるように、できるだけ安く売るようにと条件をつけました。
まったく収入がありませんから、バッチ博士はいつもほとんど無一文でした。それなのに、必要なお金は、いつも必ず必要な時に用意されたと言います。急に誰かが寄付をしてくれたり、請求していないのに、誰かが治療費を払ってくれたりしたというのです。なので博士は生涯お金に困るということがありませんでした。
お金があっても無くても、悠々としていられるのは、人の真実を知り、明日に向き合う真の勇気を持っているからです。未来など誰にもわかりません。一寸先は闇とも言います。その見えない明日に裸で向きあって、真剣に思いめぐらせながら、結果はすべて〝大いなるもの〟に委ねて、魂に悔いなく行動していくのが〝生きる〟ということです。
そのことがちゃんとわかっている人は、迫り来る恐怖や不安と戦う術を知っています。ですから彼らは、日々の幸せに感謝しながら過ごすことができ、いざという時には人を支え、安心させることもできるのです。
でも、今の世の中そんな人はなかなかいません。経験の中で魂を磨ける環境が壊れてきており、そういう希少な人たちは、ますます減っていく一方なのではないでしょうか。みな、心よりもお金に執着し、我執に淀んで行くのです。
ですからヒルティが「他人の魂に気遣わなかったからと言って不幸になる者はほとんどいない。しかし、自分の魂に気遣わなかった者は必ず不幸になる」と言ったのは、まったく本当だと思うのです。みんな、自分の魂に気を遣いましょう。