最近、街を歩いていてすごく気になることが一つあります。それは街をゆく30~40代の女性の、一見普通なのですが、でもよく見ると実はかなり異様な姿についてです。例えばウィークデイの日中、レストランのテーブルに四人掛けで座っている高校生っぽい女の子たちを見かけた時のことです。わたしは最初「やれやれ最近の大学生は仕草も服装も子供っぽいなあ、幼稚化しているなあ」なんて考えていたのです。しかし、やがて会計を終えて彼女たちが出て行く時、わたしはギョッとさせられることになったのです。
「あれれ、何だ何だ?この子たち、高校生でも大学生でもないぞ」とわたしは目をみはりました。実は彼女たちの正体は、歴とした40代ぐらいの大人の女性たちだったのです。顔を間近で見たら、どう考えても肌年齢は40代ぐらいなのです。高校生・大学生というより、むしろそのお母さん世代の人たちではありませんか。それがまるで自分の娘世代の私服姿のような格好をしています。そればかりか、かもし出すオーラも仕草も髪型も、妙に少女っぽいのです。つまり彼女たちは、何というか、肉体だけ年齢を重ねて、本人自身の中身は幼いままという不思議な存在に見えたのです。その正体を確認した瞬間は、ちょっとホラーな感覚を覚えました。
と言っても、無理に若作りしているという感じには見えません。雰囲気は極めて自然なのです。歩いたり佇んだりしている姿も、おしゃべりをしている様子も、まったく10代そのものです。しかしその自然さが、逆に非日常的なまでに不自然なのです。妖精のような、といえば聞こえはいいですが、むしろトロール(小鬼)のような、奇妙に現実離れした姿に見えます。幼い子供の魂が無理やり大人の肉体に詰め込まれている感じで、実にアンバランスで不可解です。
「この人たちは、なぜ大人のはずなのに、まるで子どものように見える服装をして、しかもそれが当たり前に自然に見えるのだろう?」という疑問が湧いてきます。何というか、子どものコスプレにはまりきって、いつもそのままの格好で平気で日常生活をおくっている、かなりマニアックな人たちという感じです。若さを保とうという努力が高じて、外見ばかりでなく中身まで幼稚化して演じるのが、一種の流行りなのでしょうか。
とは言え、彼女たちのその姿は、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』の主人公のような「わたしは成長したくない」というメッセージを、全身で強烈に発信しているようには見えません。むしろ「成長する気が微塵もない」という日常の意識から、いつのまにか自然にそうなったというように感じられます。
この「内面の成長」をまったく志向せずに、むしろ幼く可愛く生きるという姿勢が、わたしにはとても不可思議に思えるのです。ここで言う自分の内実を気にしないというのは、不真面目というのとはどこか違う気がします。不真面目な人というのは、逆に自分のダメさ加減にほとほと嫌気がさしていたりします。でも、彼女たちは無理せず自然に自分の内面的真実を気にしないでいられるのかな、と。
内面を直視せずに、容易にスルーできてしまうというのは、この世のあらゆることを、すべて自分に都合良く解釈できてしまうということを意味します。これは平成以降1990年代から目立つようになった新しい価値観と言えるかもしれません。何でもお金で解決してしまえる経済的豊かさが、こうした価値観を生み出したのでしょうか。
1970年代前半の若者には、『二十歳の原点』的に「成長を志向しないのなら、そんな人には生きる資格がない」という力みがあった気がします。それは、下手をすると、どこまでも自分を追い詰めていってしまう、危うい生真面目さに通じる性質でもありました。そういう力みが、70年代後半には徐々に薄れてきて、『赤頭巾ちゃん気をつけて』的に「あんまり難しいことは考えないようにしよう」という風になってきました。まるで空気の抜けた風船や、風の凪いだ時の凧みたいに、生きる力そのものが抜けていくような感じでもありました。
当時はその現象を〝しらけ〟と言いました。しかしそのしらけの背後には、今考えると、まだまだ尾崎豊やブルーハーツが80年代に入って表現したような、強烈な若者の鬱屈があった気がします。ところがその内面的鬱屈も、内部でパンパンに膨れていた感情が徐々にガス抜きされていくように、90年代に入るとみるみる薄れていきました。
当時〝たま〟の歌った『サヨナラ人類』のように、枯れたようなペーソス・哀愁に満たされて、程よく肩の力が抜けたということなのでしょうか。でもわたしは、そうした諦めからくる鬱屈の薄れは、とても歓迎できないと感じていました。何か人と人の絆が薄れ果ててしまい、人間存在そのものも、ひどく〝軽い〟ものとして扱われているという嫌な感じがしたのです。
2000年代に入り、平成生まれの子どもたちが育ってくると、その嫌な感じや違和感は、ますます強烈に感じられるようになりました。平成生まれの子の特徴は、みんな昭和の子たちに比べて罪悪感なく普通に「大人になりたくない」と公言できることです。そして彼らは皆、お父さんお母さんのいる〝お家〟が好きです。もしもそれが経済的に可能であるなら、一生ニートでいたいと思っている節もあります。
そこの部分の考え方が、昔とはあまりにも違うのです。昭和30年代の子どもたちは、早く働いて一人前になって、親を楽させたいと考えるのが普通だったのですから。今と違って貧しい時代でした。自分のことだけ考えては生きられないところもありました。
そして時は移り、今は2012年。今では上述のトロールのような女性たちが、街にあふれるようになりました。
わたしには、自然に〝子ども〟として振る舞う彼女たちの姿から、どこか自分にだけ都合の良い状態への志向が感じられるのです。そうした個々人の在り方は、誰もが自己本位の責任回避に走る、今の時代の身勝手な〝空気〟を生み出す底流となっている気もします。
何かというとすぐ「聞きたくない」「自分には関係がない」「関わり合いになりたくない」と言う人たち。大津のいじめ問題でもそうですが、そんな風にあらゆる問題に対して可能な限り傍観者であり続けようとする人たちが増えています。そうした傾向が高じると、まったく精神が成長せず、人間離れした〝妖精〟のような存在へと、自然となっていくのかもしれません。
この昭和40年代以降生まれの大人たちの肉体的老化と精神的未成熟のギャップは、平成生まれの子供たちのさらなる精神の幼稚化とあいまって、この国全体を、巨大な未熟児の保育園のように感じさせる、いびつな空間へと変貌させています。最近は街を歩いているだけで、何だか頭がおかしくなりそうです。
皆さんはそうは感じませんか?