昨年(2011)10月の大津市の中学校での中2生徒の自殺と、それに先立つ陰惨ないじめの事実、さらにいじめと自殺の因果関係の調査資料を組織的に徹底的に隠蔽した中学校と市教委の犯罪的欺瞞行為については、多くを語るつもりはありません。
また、自殺した少年の父親の被害届を三回にわたって受理しなかった滋賀県警の無視ぶりについても、自身弁護士でもある大津市の史上最年少女性市長が、件の中学校で今年三月の卒業式に出席し、いじめの問題について生徒たちに直接涙ながらに語りかけながら、実は市教委にも学校側にもアンケート内容の再調査を要請していなかったことについても、多くを語りたくはありません。
それから被害者の父親が「いじめと自殺の因果関係」について明らかにするために大津市と市教委に対してこの春おこした民事訴訟に対して、市側がほんのつい数日前まで「いじめと自殺に因果関係はない」として、徹底的に争う姿勢を見せていたことについても、多くを語る気はありません。
同様に、当事者である市立中学校の校長が、アンケートが外部に漏れた後に及んでも、事件に関して明らかにしようとするどころか、校内放送で生徒たちに「外部の人たちに余計なことはしゃべらないように」と口止めしようとし、あまつさえ、あくまで「酷いいじめなどなかった」「自殺の練習など嘘」と涙ながらに生徒たちを丸め込もうとしたことについても、そしてアンケートに生徒たちが書いた内容について、今まで何の調査もせずにきたことが、一般に知れ渡っているのにも関わらず、11日の保護者会では父兄の追及に対して「わたしたちは迅速に可能な限りの対応をしてきた」と述べたことについても、これ以上語りたくはありません。
例の昨年10月と11月の全校生徒への二度にわたるアンケートから垣間見られる「死んだ蜂を食べさせる」「思いっきり腹を蹴る」から「銀行口座からお金を引き出させる」「葬式ごっこ」に至るまでの陰惨ないじめの実態についても、担任の先生のセリフとされる「そのくらいにしておけよ」「ほっとけ」に見られる学校側の〝見て見ぬ振り〟の事なかれ主義に貫かれた対応についても、語りたいわけではありません。
少年が自殺した次の日、そのことを話していた生徒に対して、校長が「そんな話を広めるな!」と怒鳴ったことも、加害者とされる三人の生徒が、教室の少年の机の上でトランプ遊びに興じ、少年の顔写真に画鋲を刺して、楽しそうにしているのを、クラスメイトたちがついに止めることができなかったことについても、耐えきれなくて「なんでそんなことするの?」と泣き出した女の子がいたことも、それを見ていた担任の教師が何一つ注意しなかったことも、もうもうこれ以上語りたくはありません。(学び舎ってなんですか?生徒が死んでいくのを黙って見ている教師たちが、なぜ国家によって生活の保障・保護を受けているのですか?)
それというのも、わたしが上に述べたこと全てのより詳しい情報が、すでにありとあらゆるメディアに氾濫しているからです。例のフジテレビの放送に端を発して、ネット上では、本人の電話での涙のSOSを無視した疑いがもたれている担任教師の氏名から、いじめの当事者とされる三人の同級生の名前と転校先の学校名、保護者の氏名から経営している会社名、さらにはそれぞれの顔写真や自宅の写真までが特定され、晒されています。
事態の推移に関する情報は、ここ数日の間に、国内ではおそらく知らない人はいないほどの注目ニュースとなっており、すでに海外にまで紹介されています。滋賀県知事が事態の収集に乗り出し、文部大臣が問題解決へ向けての国の関与の意向をほのめかし、昨日はついに県警が、中学校と市教委への異例の強制家宅捜索に乗り出しました。おそらく、事件としては9カ月遅れで徹底解明への道筋が多少は見えてきたと言って良いでしょう。
その一方でネット上では、晒された担任の先生の写真が同姓同名の他人であったとか、いじめていたとされる加害者側の子どもの母親のひとりがPTA会長だとか、はたまた父親が京大卒の病院関係者だとか、祖父が警察OBだという周辺情報が全く真実ではない(とか、いやほぼ確定情報だ、とか)という報告もあり、ネット上ではその他にも様々な未確認情報が飛び交っています。
それによって、とある救急病院に確認の電話が相次ぎ、緊急の業務にさし触ったという深刻な話も聞かれます。学校側に謝罪を求めて皇子山中学校に爆弾を仕掛けたという電話があり、学校が休校になるという事態も起こりました。
また未確認情報による誤爆でなかったとしても「個人情報を流布するのは間違っている。加害者側の人権にも配慮すべき」という意見もきかれます。例えば左派系で人権意識の強いテレビ朝日などでは、ネット上でのいじめた側とされる容疑者及び関係者への非難や脅しや晒し行為を、強く批判しています。
特に最大の問題は誤報であり、実際、加害者の母親という誤った情報をネット上で流された女性には、脅迫状が届いたりしているという報道もあります。未確定情報によって抗議などの被害が関係のない第三者に向かうのは確かに問題です。
そうした人権擁護の動きとは次元が異なるかもしれませんが、学校側も市教委も「加害者とされる少年たちの人権に配慮して、アンケートも極秘として公開しなかったし、その内容についても生徒たちに確認を取らなかった」と述べています。同時に被害者の保護者にアンケート結果を渡す時も、外部に決して漏らさないという誓約書に署名させています。
情報の流出を防ぐ試みとしては、夏休みに入るにあたって、マスコミの取材に応じた生徒は、その氏名を特定して部活動停止の措置をとるという学校側の方針も伝えられています。神奈川でのいじめ自殺者の保護者で、民事で学校と争った女性の談によると、「学校側もいじめ自殺者が出ると、必死に調査します。でもそれは目撃者を特定して口封じするためです」とおっしゃっています。学校は、どこまでも〝人権〟という言葉を隠れ蓑として、臭いものに蓋ができると思い込んでいるようです。
【同じことは一部マスコミにも言えます。例えば、この期に及んで「評価システムが悪いためにこうなっただけで、現場にいただけで責められる教師はかわいそうだ」などと学校擁護の報道をするテレビ朝日の姿勢は意味がわかりません。そんな暇があるなら、自己中心節操なしの校長の下に未だに支配されている子どもたちを救うことを考えなさい!】
繰り返しますが、皇子山中学や加害者や親族の実名の晒しについて、強く非難するマスコミ記事も多く見受けられます。確かに誤報や未確認情報が飛び交い、関係のない他人が被害を受けるのは気の毒ですし、事実ではない憶測で加害者や関係者を非難するのはフェアではありません。しかし、情報を晒したり、抗議や非難のメッセージを発している人たちの大部分が「面白半分に騒いでいる」と考えるのは誤りです。今回に限って言えば、そのような記事は、ピントの外れた〝きれいごと〟であり、見当違いの義憤に思えます。
ですから、わたしはそうした一連の〝人権(?)問題〟についても特に論じたいわけではありません。
少年の死から半年以上も、全く動こうとしなかった県警や市が、ここ数日で急激な反応を見せたのは、ネット住民たちによる激しい抗議のメール、ファックス、電話の反響の大きさに慌てふためいたためであることは一目瞭然です。大手マスコミも、ネット上の情報の広まりの早さに刺激された結果、後追いの形で大きく取り上げるようになった面もあると思います。
結局、ことの発端となった今月はじめの例のアンケート情報の流出がなければ、事態はおそらくまったく動いていなかったでしょう。いじめと自殺の因果関係に関する市による再調査も行なわれず、県警による暴行事件の捜査も始まっていなかったに違いありません。そして市教委の「アンケートの中にある葬式ごっこなどの生徒の記述を見落としていた」「学校からは適切に対処したと聞いている」という苦しい(全く信じられない)言い訳を聞くこともなかったでしょう。【それにしても、ここまで仕事をしない市教委沢村教育長(年収1200万円)や藤本学校長は、生活保護不正受給者どころではない完全な税金泥棒です。さらに藤本校長のテレビの映像にモザイクがかかっているのも意味がわかりません。校長たるもの、堂々と自分から顔を晒して欲しいものです。公僕の長たる者は、最低限そのぐらいの責任は、こそこそ逃げ回らずに潔くとって頂きたい。】
今回の事件の最も特筆すべき特徴がそこにあります。それは、学校もPTAも教育委員会も警察も自治体もマスコミも、わたしたちのために進んでは動いてくれないどころか、どれほど必死に訴えても完全に無視されるという事実を、国民すべてが再確認したということです。そしてひたすら保身のみを考える彼らを動かすためには、もはや重要〝機密(?)〟情報を公けに〝晒す〟しかないということを、全国民が再確認してしまったのです。
今回の事件の関係者全員にとって、一人の少年の失われた命の重みは、何ら意味を持たず、彼らの自己中心的な保身意識を突き崩して利他的な行動を促すものではあり得ませんでした。彼らの行動はどこまでも、今(2012.7.12)に至るまで、身勝手で傲慢で犯罪的なまでに無責任なものであり続けています。
彼らの傲岸不遜さの一例を挙げれば、市教委の委員長も教育長も、市立中学校の校長も、亡くなった男の子に対して、今に至るも一度たりとも、真摯に自らの誤りを認めて謝罪するという態度を示した者はおりません。
彼らの〝良心〟の働きに何らかの期待をかけるのは、全く無駄なことです。テレビでご覧になって皆さんもご承知のように、校長も教育長も委員長も〝良心〟などという可愛らしいものは、欠片も持ち合わせていません。繰り返しますが、彼らに行動を促すには、ひたすら情報をリークし続け、加害者と隠蔽者の行為を〝晒し〟て〝晒し〟て〝晒し〟続けるしかないのです。残念ながら唯一その圧力だけが、彼らを正しい行動へと矯正できます。
【実際、いじめ加害者主犯格の一人とされるA君は、もとPTA会長の母親が、このままでは受験に差し障ると、4月に京都市内の中学に転校させたのですが、意外にもその転校先の学校で人気者だったそうです。背が高くスポーツマンで成績優秀なA君は、話し方も丁寧で誰にでも優しいと評判だったとのことです。とても頭のいい子です。順応性もあり世渡りも上手なのですね。先月初めにネット上で正体が暴露されなければ、クラスでも抜きん出て優秀な〝いい子〟で、女子にも人気のある生徒で通っていたはずです。】
今回の一連の騒動を通して、ある意味、わたしたちの生きるこの社会では、雪崩式の情報流出に伴い、増え続ける無名の抗議の電話の嵐によってでしか、人の命に関わる問題についてさえ、社会そのものが動くことは決してないということを自らに証明したのです。これは悲しくも恐ろしいことです。
人が人を信じるための最低条件は、相手が自分の命を気にかけてくれると信じられることです。それすらも信じられないなら、もはや相手について何も信じることはできないでしょう。わたしたちの社会を崩壊させるのは、この相互の不信感です。
今回、大津市の市教委、市立中学校、市当局、警察は、近い将来この日本社会を根底から崩壊させるに足る強力な楔を、わたしたちの意識の底流に叩き込んでくれたと言っていいでしょう。決していじめと自殺の関係を認めず、自らの隠蔽行為も認めず、〝謝罪〟をしない学校と市教委が、その『不信感』という楔を、ますます強力なものに育てているのです。
そうした社会的責任を自覚しない彼らの存在(大津市の皇子山市立中学校及び市教委の関係者)は、早急に(そして徹底的に)その責任ある地位から排除されるべきです。教育者としての彼らの存在は、子供たちが世の中と大人を信じられなくなるのに十分な存在であり、放っておけば、やがてはこの社会そのものを死に至らしめる〝癌細胞〟であると言っても過言ではありません。
2012.7.13現在、市教委沢村教育長は市長の和解の意向に対立して、訴えた被害者との訴訟を続行し、徹底して争う構えであることを表明しています。「自殺した少年の家庭環境に問題がなかったかどうかを明らかにしたい」というのが、市教委が訴訟を続行する理由です。彼らに罪の意識が欠片もないことははっきりしています。
また、虐めたとされる三人の子供たちも「虐めてはいない」「遊びだった」と、あくまでも被害者の親と裁判で争う構えです。市教委も「虐めた側の子供にも人権がある」と、一貫して加害者側に立ってきました。学校の対応にしても、いじめた側の子供の一人が、今年五月に担任の女の先生に暴行して指の骨を折る重傷を負わせても、数日後には「ワザとじゃなかったから」とお咎めなしで、仲良く(?)修学旅行へ行く程の事なかれ主義です。
警察のやり方も信じられないほどの酷さです。自殺者の親が三度も訪れ、もはや民事に訴えるしかないと思い詰めるまで、親身になった警官が一人でもいたのかということです。事実は、一人としていなかったのです。さらにそのことを国民に指摘されて、真摯に受け取っている誠実な警官が今いるのか?ということもあります。YouTubeかニコ動で、大津市警察署の実際の電話対応を聴いてみると良いです。
つまりは、これ程の全国的な非難と抗議の大合唱によってさえも、彼らを目覚めさせることは叶わないということです。この彼らの恥を知らない態度こそが、大津市教委及び地元の有力者とされる父母たち、学校及び警察が、この国を死に至らしめる病理の元凶の一つであるということを明白に証明しています。
こうした中学校や教育委員会や父母のもとで、青少年の教育が行われていることを、わたしたち大人が看過しているのは、日本国民全員の恥ではないでしょうか。
わたしは思うのですが、沢村教育長がここまで良心の欠如した普通でない人格を形成するに至った背景を検証する上で、彼の家庭環境に問題がなかったのかどうか、詳細にその生い立ち及び家族についても裁判によって検証し、事実を浮き彫りにする必要があります。少なくとも「被害者の家庭に問題がなかったかどうか」を調べるよりもずっと優先度の高い問題です。
2001年の青木悠くんリンチ殺人事件に関与したとされる近隣中学の生徒三人が無罪になったとき、皇子山中学校長は、現在市教委教育長である沢村憲次氏当人でした。
当時の報道や裁判の状況を横目で見ていた沢村校長は、今回もかつての赴任校で起こったいじめと自殺に因果関係はないとして、あらゆる情報を闇に葬れるものと、たかをくくっていた可能性は多いにあります。
そもそも皇子山中学は文部科学省指定の道徳教育推進研究校であり、平成21・22年には国からの予算がおりています。今回のいじめ事件の渦中、去年の夏には学校側から二年間の道徳教育の成果が報告されていました。市立皇子山中学は、大津市の教育の拠点校であり、この学校の校長から市教委教育長になるというのが、大津市の教員にとって最大の出世コースなのです。
そのコースを辿った沢村教育長は大津市の教師のエースであり、この程度の事件で自分の経歴に傷が付くとは思ってもいなかったことでしょう。以前はるかに陰惨な事件を闇に葬ったことがあるのですから。
ただ彼の計算外だったのは、2006年当時と比べても、ネットの社会への影響力がはるかに巨大になっているということです。そのことは、おそらくまだまだ気づいていないかもしれません。「マスコミが騒がなきゃいいんだよ」「こっちも被害者だ」と彼がボヤいているという情報も漏れてきています。
皇子山中学の生徒たちも保護者たちも大津市民も、ネット上で流通する情報から、マスコミの流さない多くの情報を得ているのです。もはや、世論の情報操作も隠しだてもできません。権力の上に胡座をかいてきた者たちは、いずれ思い知ることになるでしょう。
【いち早くこの個性的な教育長に罪をなすりつけて、自分は安全圏への逃げ切りを図っている越市長は、実際なかなかの策士だと思います。アンケート結果は自分も見ていたにもかかわらず、そこで再調査に踏み切らず、「いじめと自殺の因果関係はなかったということでお願いします」という市教委の方針に一度は同意したのですから、実は市長も同罪です。形勢を見ての変わり身の鮮やかさは、さすがハーバード仕込みの弁護士さんといったところでしょうか。ともかく今回、市長と警察は変わり身が早かったですね。】
【越市長は「被害者は父親にDVを受けていた」と記者会見で述べています。沢村教育長も「自殺には家庭問題もあると聞いている」と述べています。では一体その情報はどこから入ったのでしょう。皇子山のあの無責任校長でしょうか。そして校長はどこから聞いたのでしょう。無気力担任の森山先生?それとも加害者の親であるPTA会長さんでしょうか。そしてそのDVの内容は、まさか親戚から大金を盗んだことを問いただしたら「自分で使った」と言った息子を殴った件ではないでしょうね。だとしたら、まったく懲りない面々としか言いようがありません。】
【暴行・恐喝・殺人教唆の主犯格とされる少年は、今年4月に京都府宇治市に転校しましたが、6月には再び暴行事件をおこしています。5人の少年と1人の少女が、少年一人を市内の神社境内で20分に渡って、気絶するまで殴り続け、カバンに火をつけて、中に入っていた勉強道具や弁当箱を池に撒き散らしました。少年はその暴行の主犯格でした。警察に補導され、厳重注意された上、被害者の父親に一週間の川さらいを命じられましたが、3日目に教育委員会がその作業を中止させました。今度は宇治市教育委員会がその見識を問われるでしょう。】
あと一つだけ、言っておかなければならないことがあります。それは、上の例からもわかるように「大津だけじゃない」ってことです。わたしの知っている範囲だけから推測しても、こういうレベルの学校や教育委員会やPTAは、少なからず全国に存在していると感じています。
例えば支持基盤が日教組であり、自身元教師で、市教委教育長という系歴を持つ民主党の輿石幹事長は、この事件に関して「学校が悪い、教師が悪い、市教委が悪いと言っている場合じゃない」と、この期に及んで市教委や教師たちをかばう発言をしています(7.19の記者会見)。国家の長たる者ですら、その責任を自覚せずに、こんな風に手前勝手な組織防衛に走るのですから、もはや学校には何の期待もできないことは明らかです。
また加害者側の保護者のように、自分の子供さえ良ければ、他人の子供はどうでもいいという親たちも今はごく普通です。同様の事件が我が子の通う学校で起こったら、何よりも〝うちの子の受験〟にどう影響するかを気にする親が多いでしょう。人様の子の命よりも、我が子の受験が大切なのです。
見かけはご立派な財力ある親たちが、自殺した子供の親の目の前で、「家庭の問題で勝手に死んだ子よりも、生きているうちの子の方を大事に考えて!うちの子が自殺したら、根も葉もない嘘で息子を責め立てたあんたたちのせいよ!(皇子山中学校、被害者の保護者も同席した第一回父母説明会より、加害者の母親であるPTA会長のセリフ)」と熱弁をふるうのです。
そういう親の育てた子供たちに、他者の痛みが分かるわけがないのです。いじめていた相手が自殺した時に「もっと虐めたかったのに、つまんない(皇子山中学校、生徒へのアンケート調査より、加害者の少年のセリフ)」と言える子供たちが、そこで育つのは当たり前です。大げさではなく、むしろ、これが今の日本の現実です。
教師たちの方も、有力者の子供には格別の配慮を行い、面倒なことは全て極力隠蔽します。たとえ事実が明るみに出たとしても、保身のために可能な限り言い逃れを続けるのです。子どもの心を育てることなど、おそらく欠片も考えてはいません。皇子山中学では、件の担任の先生に生徒たちが「事件の調査はどうなっているの?」と何度聞いても「何の話?」としらばっくれ続けてきたと言います。
一方で社会的弱者の訴えには、露骨に侮蔑と侮りの態度を示します。例えば、教師が子供たちを見る時、持ち家がなくアパートに住んでいる家庭の子供は、無意識のうちに軽んずるようになります。件の先生以外の先生も、いじめの相談をしても「君が我慢すればすべて丸く収まる」と言う先生がいたと卒業生は証言しています。
親も教師も、自分の内面の醜さを省みもせず、地位と名誉とお金を持つ自分は敬われて当然だと無意識に考えています。およそ世間に恐いものなど何もないので、他人の諌めなどまず絶対に聞きません。総じて下品で高圧的で教養のない者たち。もはやそれがこの国の高学歴者(特に団塊の世代の!)の平均的な姿なのかもしれません。
そして加害者側は、たかをくくっているのです。いじめと自殺の因果関係など絶対に証明できないと。というのも事実、この国では毎年数百人の子供たちが自殺していますが、そのうち自殺が主な原因と認定された子供は、毎年数人しかいないのです。2000~2004年まではいじめ自殺認定は0で、去年は4人です。遺書へのはっきりした記載が証拠としてなければ、今までいじめ自殺認定されたケースは皆無です。おそらく今回も民事でも刑事でも、被害者側は勝てないでしょう。いじめの加害者に罪を償わせる方法など、今のところこの国には残念ながらないのです。虐められて自殺した側の一方的な泣き寝入りです。法も行政も、弱い者の味方ではありません。
今回の執拗なネット上での暴露発言と情報流出は、今まで彼らの傲岸不遜さに苦しめられ、傷つけられてきた人々による、ある種の復讐なのかもしれません。大津市役所も市教委も皇子山中学も、24時間全国からの抗議の電話・FAXに悩まされていて、業務に差し支えていると言います。沢村教育長は警察に訴えることを考えているとも聞きます。しかし、わたしは彼らに言いたいのです。一体今まで何を仕事してきたのですか?
「死人に口なし」と言います。しかし被害者の父親は「死人に口があるということを証明したい」と述べています。でも口のない死人には言葉はしゃべれません。証拠として採用できる言葉は何一つ。
また一方で「死人の声は聞きたくない」と言う人たちがいます。皇子山中学の生徒たちにも「もうほっといてくれ、自分には関係ない、これ以上聞きたくない」という反応を示す子供たちが、たくさんいるようです。人の痛みより、自分の煩わしさが先に立つ子どもたちです。父母や学校近隣の住民もそうです。「怖いから関わりあいになりたくない」「通わせたくないのにどうしよう」と、彼らが考えるのは自分と我が子の都合だけです。
しかし、群がる大人たち(マスコミ)、右往左往する大人たち(教師たち・父母たち)の様子を冷静に見つめながら、密かに失われた命に思いをはせる子どもたちもいます。「なぜ生きているうちに、彼の悲鳴が自分には聞こえなかったのだろう?あの悲鳴に応えられなかったのだろう?」と。
いずれにしても、子供たちの振る舞いは、親の思いを反映しているのです。この期に及んでも他人の命などどうでもいい大人たちが大勢を占める一方で、少数ながらも命と向き合おうとし始めている人たちもいます。相変わらず「マスコミには何もしゃべるな」ときつく学校から申し渡されている中で「自分の知っていることを話したい」と語り始める生徒たちや父母がそうです。
そのことの方が、今現在日本中の教育委員会や学校や警察や政府が、大津事件で噴き出した庶民の怨念に満ちた声に慌てふためいて、にわかに一過性の熱病のように、いじめ対策や取り締まりに乗り出すふりをしていることより、はるかに大切です。どうせ彼ら公務員にできることは、本質的には何の役にも立たない「いじめ対策」マニュアル作りとその徹底化ぐらいのものです。
1960年代に活躍したアメリカのSF作家の一人に、ハーラン・エリスンという作家がいます。彼の代表作に「俺には口がない、それでも俺は叫ぶ」という表題の短編があります。今この国で見殺しにされていく無数の魂の声、軽んじられ、傷つき、追い詰められ、声なき叫び声をあげて死んでいく、名もなき子供たちや大人たちの心を代弁しているようなタイトルです。
そして、あなたの内にも、封じられた叫びがあります。その奥底の魂の声は言っているのです。「俺には口がない、それでも俺は叫ぶ」と。どうか耳を傾けてみてください。
深い深いあなた自身の意識の底から、封印されてきた声なき声が聞こえませんか?
「悔しい、悔しい、俺には口がない、声も出せない、きっと誰にも聞こえないだろう、だって俺には口がないんだから、それでも俺は叫ぶ、誰かこの声を解放してくれ」と。その叫び声が聞こえませんか?
まずはあなた自身の魂に触れてください。内なる真実の衝動を感じてください。その深層の意識は「もっと深く、本当は愛されたかった」「強く抱きしめてほしかった」と囁いているかもしれません。そのわたしたちの内なる衝動は、外の世界の哀しみと無念に共鳴し、世界を新たな局面へと動かす力となるのです。その力の源は、あなたの内からあふれ、他者へと開かれる真実のハートの「愛」です。
また、自殺した少年の父親の被害届を三回にわたって受理しなかった滋賀県警の無視ぶりについても、自身弁護士でもある大津市の史上最年少女性市長が、件の中学校で今年三月の卒業式に出席し、いじめの問題について生徒たちに直接涙ながらに語りかけながら、実は市教委にも学校側にもアンケート内容の再調査を要請していなかったことについても、多くを語りたくはありません。
それから被害者の父親が「いじめと自殺の因果関係」について明らかにするために大津市と市教委に対してこの春おこした民事訴訟に対して、市側がほんのつい数日前まで「いじめと自殺に因果関係はない」として、徹底的に争う姿勢を見せていたことについても、多くを語る気はありません。
同様に、当事者である市立中学校の校長が、アンケートが外部に漏れた後に及んでも、事件に関して明らかにしようとするどころか、校内放送で生徒たちに「外部の人たちに余計なことはしゃべらないように」と口止めしようとし、あまつさえ、あくまで「酷いいじめなどなかった」「自殺の練習など嘘」と涙ながらに生徒たちを丸め込もうとしたことについても、そしてアンケートに生徒たちが書いた内容について、今まで何の調査もせずにきたことが、一般に知れ渡っているのにも関わらず、11日の保護者会では父兄の追及に対して「わたしたちは迅速に可能な限りの対応をしてきた」と述べたことについても、これ以上語りたくはありません。
例の昨年10月と11月の全校生徒への二度にわたるアンケートから垣間見られる「死んだ蜂を食べさせる」「思いっきり腹を蹴る」から「銀行口座からお金を引き出させる」「葬式ごっこ」に至るまでの陰惨ないじめの実態についても、担任の先生のセリフとされる「そのくらいにしておけよ」「ほっとけ」に見られる学校側の〝見て見ぬ振り〟の事なかれ主義に貫かれた対応についても、語りたいわけではありません。
少年が自殺した次の日、そのことを話していた生徒に対して、校長が「そんな話を広めるな!」と怒鳴ったことも、加害者とされる三人の生徒が、教室の少年の机の上でトランプ遊びに興じ、少年の顔写真に画鋲を刺して、楽しそうにしているのを、クラスメイトたちがついに止めることができなかったことについても、耐えきれなくて「なんでそんなことするの?」と泣き出した女の子がいたことも、それを見ていた担任の教師が何一つ注意しなかったことも、もうもうこれ以上語りたくはありません。(学び舎ってなんですか?生徒が死んでいくのを黙って見ている教師たちが、なぜ国家によって生活の保障・保護を受けているのですか?)
それというのも、わたしが上に述べたこと全てのより詳しい情報が、すでにありとあらゆるメディアに氾濫しているからです。例のフジテレビの放送に端を発して、ネット上では、本人の電話での涙のSOSを無視した疑いがもたれている担任教師の氏名から、いじめの当事者とされる三人の同級生の名前と転校先の学校名、保護者の氏名から経営している会社名、さらにはそれぞれの顔写真や自宅の写真までが特定され、晒されています。
事態の推移に関する情報は、ここ数日の間に、国内ではおそらく知らない人はいないほどの注目ニュースとなっており、すでに海外にまで紹介されています。滋賀県知事が事態の収集に乗り出し、文部大臣が問題解決へ向けての国の関与の意向をほのめかし、昨日はついに県警が、中学校と市教委への異例の強制家宅捜索に乗り出しました。おそらく、事件としては9カ月遅れで徹底解明への道筋が多少は見えてきたと言って良いでしょう。
その一方でネット上では、晒された担任の先生の写真が同姓同名の他人であったとか、いじめていたとされる加害者側の子どもの母親のひとりがPTA会長だとか、はたまた父親が京大卒の病院関係者だとか、祖父が警察OBだという周辺情報が全く真実ではない(とか、いやほぼ確定情報だ、とか)という報告もあり、ネット上ではその他にも様々な未確認情報が飛び交っています。
それによって、とある救急病院に確認の電話が相次ぎ、緊急の業務にさし触ったという深刻な話も聞かれます。学校側に謝罪を求めて皇子山中学校に爆弾を仕掛けたという電話があり、学校が休校になるという事態も起こりました。
また未確認情報による誤爆でなかったとしても「個人情報を流布するのは間違っている。加害者側の人権にも配慮すべき」という意見もきかれます。例えば左派系で人権意識の強いテレビ朝日などでは、ネット上でのいじめた側とされる容疑者及び関係者への非難や脅しや晒し行為を、強く批判しています。
特に最大の問題は誤報であり、実際、加害者の母親という誤った情報をネット上で流された女性には、脅迫状が届いたりしているという報道もあります。未確定情報によって抗議などの被害が関係のない第三者に向かうのは確かに問題です。
そうした人権擁護の動きとは次元が異なるかもしれませんが、学校側も市教委も「加害者とされる少年たちの人権に配慮して、アンケートも極秘として公開しなかったし、その内容についても生徒たちに確認を取らなかった」と述べています。同時に被害者の保護者にアンケート結果を渡す時も、外部に決して漏らさないという誓約書に署名させています。
情報の流出を防ぐ試みとしては、夏休みに入るにあたって、マスコミの取材に応じた生徒は、その氏名を特定して部活動停止の措置をとるという学校側の方針も伝えられています。神奈川でのいじめ自殺者の保護者で、民事で学校と争った女性の談によると、「学校側もいじめ自殺者が出ると、必死に調査します。でもそれは目撃者を特定して口封じするためです」とおっしゃっています。学校は、どこまでも〝人権〟という言葉を隠れ蓑として、臭いものに蓋ができると思い込んでいるようです。
【同じことは一部マスコミにも言えます。例えば、この期に及んで「評価システムが悪いためにこうなっただけで、現場にいただけで責められる教師はかわいそうだ」などと学校擁護の報道をするテレビ朝日の姿勢は意味がわかりません。そんな暇があるなら、自己中心節操なしの校長の下に未だに支配されている子どもたちを救うことを考えなさい!】
繰り返しますが、皇子山中学や加害者や親族の実名の晒しについて、強く非難するマスコミ記事も多く見受けられます。確かに誤報や未確認情報が飛び交い、関係のない他人が被害を受けるのは気の毒ですし、事実ではない憶測で加害者や関係者を非難するのはフェアではありません。しかし、情報を晒したり、抗議や非難のメッセージを発している人たちの大部分が「面白半分に騒いでいる」と考えるのは誤りです。今回に限って言えば、そのような記事は、ピントの外れた〝きれいごと〟であり、見当違いの義憤に思えます。
ですから、わたしはそうした一連の〝人権(?)問題〟についても特に論じたいわけではありません。
少年の死から半年以上も、全く動こうとしなかった県警や市が、ここ数日で急激な反応を見せたのは、ネット住民たちによる激しい抗議のメール、ファックス、電話の反響の大きさに慌てふためいたためであることは一目瞭然です。大手マスコミも、ネット上の情報の広まりの早さに刺激された結果、後追いの形で大きく取り上げるようになった面もあると思います。
結局、ことの発端となった今月はじめの例のアンケート情報の流出がなければ、事態はおそらくまったく動いていなかったでしょう。いじめと自殺の因果関係に関する市による再調査も行なわれず、県警による暴行事件の捜査も始まっていなかったに違いありません。そして市教委の「アンケートの中にある葬式ごっこなどの生徒の記述を見落としていた」「学校からは適切に対処したと聞いている」という苦しい(全く信じられない)言い訳を聞くこともなかったでしょう。【それにしても、ここまで仕事をしない市教委沢村教育長(年収1200万円)や藤本学校長は、生活保護不正受給者どころではない完全な税金泥棒です。さらに藤本校長のテレビの映像にモザイクがかかっているのも意味がわかりません。校長たるもの、堂々と自分から顔を晒して欲しいものです。公僕の長たる者は、最低限そのぐらいの責任は、こそこそ逃げ回らずに潔くとって頂きたい。】
今回の事件の最も特筆すべき特徴がそこにあります。それは、学校もPTAも教育委員会も警察も自治体もマスコミも、わたしたちのために進んでは動いてくれないどころか、どれほど必死に訴えても完全に無視されるという事実を、国民すべてが再確認したということです。そしてひたすら保身のみを考える彼らを動かすためには、もはや重要〝機密(?)〟情報を公けに〝晒す〟しかないということを、全国民が再確認してしまったのです。
今回の事件の関係者全員にとって、一人の少年の失われた命の重みは、何ら意味を持たず、彼らの自己中心的な保身意識を突き崩して利他的な行動を促すものではあり得ませんでした。彼らの行動はどこまでも、今(2012.7.12)に至るまで、身勝手で傲慢で犯罪的なまでに無責任なものであり続けています。
彼らの傲岸不遜さの一例を挙げれば、市教委の委員長も教育長も、市立中学校の校長も、亡くなった男の子に対して、今に至るも一度たりとも、真摯に自らの誤りを認めて謝罪するという態度を示した者はおりません。
彼らの〝良心〟の働きに何らかの期待をかけるのは、全く無駄なことです。テレビでご覧になって皆さんもご承知のように、校長も教育長も委員長も〝良心〟などという可愛らしいものは、欠片も持ち合わせていません。繰り返しますが、彼らに行動を促すには、ひたすら情報をリークし続け、加害者と隠蔽者の行為を〝晒し〟て〝晒し〟て〝晒し〟続けるしかないのです。残念ながら唯一その圧力だけが、彼らを正しい行動へと矯正できます。
【実際、いじめ加害者主犯格の一人とされるA君は、もとPTA会長の母親が、このままでは受験に差し障ると、4月に京都市内の中学に転校させたのですが、意外にもその転校先の学校で人気者だったそうです。背が高くスポーツマンで成績優秀なA君は、話し方も丁寧で誰にでも優しいと評判だったとのことです。とても頭のいい子です。順応性もあり世渡りも上手なのですね。先月初めにネット上で正体が暴露されなければ、クラスでも抜きん出て優秀な〝いい子〟で、女子にも人気のある生徒で通っていたはずです。】
今回の一連の騒動を通して、ある意味、わたしたちの生きるこの社会では、雪崩式の情報流出に伴い、増え続ける無名の抗議の電話の嵐によってでしか、人の命に関わる問題についてさえ、社会そのものが動くことは決してないということを自らに証明したのです。これは悲しくも恐ろしいことです。
人が人を信じるための最低条件は、相手が自分の命を気にかけてくれると信じられることです。それすらも信じられないなら、もはや相手について何も信じることはできないでしょう。わたしたちの社会を崩壊させるのは、この相互の不信感です。
今回、大津市の市教委、市立中学校、市当局、警察は、近い将来この日本社会を根底から崩壊させるに足る強力な楔を、わたしたちの意識の底流に叩き込んでくれたと言っていいでしょう。決していじめと自殺の関係を認めず、自らの隠蔽行為も認めず、〝謝罪〟をしない学校と市教委が、その『不信感』という楔を、ますます強力なものに育てているのです。
そうした社会的責任を自覚しない彼らの存在(大津市の皇子山市立中学校及び市教委の関係者)は、早急に(そして徹底的に)その責任ある地位から排除されるべきです。教育者としての彼らの存在は、子供たちが世の中と大人を信じられなくなるのに十分な存在であり、放っておけば、やがてはこの社会そのものを死に至らしめる〝癌細胞〟であると言っても過言ではありません。
2012.7.13現在、市教委沢村教育長は市長の和解の意向に対立して、訴えた被害者との訴訟を続行し、徹底して争う構えであることを表明しています。「自殺した少年の家庭環境に問題がなかったかどうかを明らかにしたい」というのが、市教委が訴訟を続行する理由です。彼らに罪の意識が欠片もないことははっきりしています。
また、虐めたとされる三人の子供たちも「虐めてはいない」「遊びだった」と、あくまでも被害者の親と裁判で争う構えです。市教委も「虐めた側の子供にも人権がある」と、一貫して加害者側に立ってきました。学校の対応にしても、いじめた側の子供の一人が、今年五月に担任の女の先生に暴行して指の骨を折る重傷を負わせても、数日後には「ワザとじゃなかったから」とお咎めなしで、仲良く(?)修学旅行へ行く程の事なかれ主義です。
警察のやり方も信じられないほどの酷さです。自殺者の親が三度も訪れ、もはや民事に訴えるしかないと思い詰めるまで、親身になった警官が一人でもいたのかということです。事実は、一人としていなかったのです。さらにそのことを国民に指摘されて、真摯に受け取っている誠実な警官が今いるのか?ということもあります。YouTubeかニコ動で、大津市警察署の実際の電話対応を聴いてみると良いです。
つまりは、これ程の全国的な非難と抗議の大合唱によってさえも、彼らを目覚めさせることは叶わないということです。この彼らの恥を知らない態度こそが、大津市教委及び地元の有力者とされる父母たち、学校及び警察が、この国を死に至らしめる病理の元凶の一つであるということを明白に証明しています。
こうした中学校や教育委員会や父母のもとで、青少年の教育が行われていることを、わたしたち大人が看過しているのは、日本国民全員の恥ではないでしょうか。
わたしは思うのですが、沢村教育長がここまで良心の欠如した普通でない人格を形成するに至った背景を検証する上で、彼の家庭環境に問題がなかったのかどうか、詳細にその生い立ち及び家族についても裁判によって検証し、事実を浮き彫りにする必要があります。少なくとも「被害者の家庭に問題がなかったかどうか」を調べるよりもずっと優先度の高い問題です。
2001年の青木悠くんリンチ殺人事件に関与したとされる近隣中学の生徒三人が無罪になったとき、皇子山中学校長は、現在市教委教育長である沢村憲次氏当人でした。
当時の報道や裁判の状況を横目で見ていた沢村校長は、今回もかつての赴任校で起こったいじめと自殺に因果関係はないとして、あらゆる情報を闇に葬れるものと、たかをくくっていた可能性は多いにあります。
そもそも皇子山中学は文部科学省指定の道徳教育推進研究校であり、平成21・22年には国からの予算がおりています。今回のいじめ事件の渦中、去年の夏には学校側から二年間の道徳教育の成果が報告されていました。市立皇子山中学は、大津市の教育の拠点校であり、この学校の校長から市教委教育長になるというのが、大津市の教員にとって最大の出世コースなのです。
そのコースを辿った沢村教育長は大津市の教師のエースであり、この程度の事件で自分の経歴に傷が付くとは思ってもいなかったことでしょう。以前はるかに陰惨な事件を闇に葬ったことがあるのですから。
ただ彼の計算外だったのは、2006年当時と比べても、ネットの社会への影響力がはるかに巨大になっているということです。そのことは、おそらくまだまだ気づいていないかもしれません。「マスコミが騒がなきゃいいんだよ」「こっちも被害者だ」と彼がボヤいているという情報も漏れてきています。
皇子山中学の生徒たちも保護者たちも大津市民も、ネット上で流通する情報から、マスコミの流さない多くの情報を得ているのです。もはや、世論の情報操作も隠しだてもできません。権力の上に胡座をかいてきた者たちは、いずれ思い知ることになるでしょう。
【いち早くこの個性的な教育長に罪をなすりつけて、自分は安全圏への逃げ切りを図っている越市長は、実際なかなかの策士だと思います。アンケート結果は自分も見ていたにもかかわらず、そこで再調査に踏み切らず、「いじめと自殺の因果関係はなかったということでお願いします」という市教委の方針に一度は同意したのですから、実は市長も同罪です。形勢を見ての変わり身の鮮やかさは、さすがハーバード仕込みの弁護士さんといったところでしょうか。ともかく今回、市長と警察は変わり身が早かったですね。】
【越市長は「被害者は父親にDVを受けていた」と記者会見で述べています。沢村教育長も「自殺には家庭問題もあると聞いている」と述べています。では一体その情報はどこから入ったのでしょう。皇子山のあの無責任校長でしょうか。そして校長はどこから聞いたのでしょう。無気力担任の森山先生?それとも加害者の親であるPTA会長さんでしょうか。そしてそのDVの内容は、まさか親戚から大金を盗んだことを問いただしたら「自分で使った」と言った息子を殴った件ではないでしょうね。だとしたら、まったく懲りない面々としか言いようがありません。】
【暴行・恐喝・殺人教唆の主犯格とされる少年は、今年4月に京都府宇治市に転校しましたが、6月には再び暴行事件をおこしています。5人の少年と1人の少女が、少年一人を市内の神社境内で20分に渡って、気絶するまで殴り続け、カバンに火をつけて、中に入っていた勉強道具や弁当箱を池に撒き散らしました。少年はその暴行の主犯格でした。警察に補導され、厳重注意された上、被害者の父親に一週間の川さらいを命じられましたが、3日目に教育委員会がその作業を中止させました。今度は宇治市教育委員会がその見識を問われるでしょう。】
あと一つだけ、言っておかなければならないことがあります。それは、上の例からもわかるように「大津だけじゃない」ってことです。わたしの知っている範囲だけから推測しても、こういうレベルの学校や教育委員会やPTAは、少なからず全国に存在していると感じています。
例えば支持基盤が日教組であり、自身元教師で、市教委教育長という系歴を持つ民主党の輿石幹事長は、この事件に関して「学校が悪い、教師が悪い、市教委が悪いと言っている場合じゃない」と、この期に及んで市教委や教師たちをかばう発言をしています(7.19の記者会見)。国家の長たる者ですら、その責任を自覚せずに、こんな風に手前勝手な組織防衛に走るのですから、もはや学校には何の期待もできないことは明らかです。
また加害者側の保護者のように、自分の子供さえ良ければ、他人の子供はどうでもいいという親たちも今はごく普通です。同様の事件が我が子の通う学校で起こったら、何よりも〝うちの子の受験〟にどう影響するかを気にする親が多いでしょう。人様の子の命よりも、我が子の受験が大切なのです。
見かけはご立派な財力ある親たちが、自殺した子供の親の目の前で、「家庭の問題で勝手に死んだ子よりも、生きているうちの子の方を大事に考えて!うちの子が自殺したら、根も葉もない嘘で息子を責め立てたあんたたちのせいよ!(皇子山中学校、被害者の保護者も同席した第一回父母説明会より、加害者の母親であるPTA会長のセリフ)」と熱弁をふるうのです。
そういう親の育てた子供たちに、他者の痛みが分かるわけがないのです。いじめていた相手が自殺した時に「もっと虐めたかったのに、つまんない(皇子山中学校、生徒へのアンケート調査より、加害者の少年のセリフ)」と言える子供たちが、そこで育つのは当たり前です。大げさではなく、むしろ、これが今の日本の現実です。
教師たちの方も、有力者の子供には格別の配慮を行い、面倒なことは全て極力隠蔽します。たとえ事実が明るみに出たとしても、保身のために可能な限り言い逃れを続けるのです。子どもの心を育てることなど、おそらく欠片も考えてはいません。皇子山中学では、件の担任の先生に生徒たちが「事件の調査はどうなっているの?」と何度聞いても「何の話?」としらばっくれ続けてきたと言います。
一方で社会的弱者の訴えには、露骨に侮蔑と侮りの態度を示します。例えば、教師が子供たちを見る時、持ち家がなくアパートに住んでいる家庭の子供は、無意識のうちに軽んずるようになります。件の先生以外の先生も、いじめの相談をしても「君が我慢すればすべて丸く収まる」と言う先生がいたと卒業生は証言しています。
親も教師も、自分の内面の醜さを省みもせず、地位と名誉とお金を持つ自分は敬われて当然だと無意識に考えています。およそ世間に恐いものなど何もないので、他人の諌めなどまず絶対に聞きません。総じて下品で高圧的で教養のない者たち。もはやそれがこの国の高学歴者(特に団塊の世代の!)の平均的な姿なのかもしれません。
そして加害者側は、たかをくくっているのです。いじめと自殺の因果関係など絶対に証明できないと。というのも事実、この国では毎年数百人の子供たちが自殺していますが、そのうち自殺が主な原因と認定された子供は、毎年数人しかいないのです。2000~2004年まではいじめ自殺認定は0で、去年は4人です。遺書へのはっきりした記載が証拠としてなければ、今までいじめ自殺認定されたケースは皆無です。おそらく今回も民事でも刑事でも、被害者側は勝てないでしょう。いじめの加害者に罪を償わせる方法など、今のところこの国には残念ながらないのです。虐められて自殺した側の一方的な泣き寝入りです。法も行政も、弱い者の味方ではありません。
今回の執拗なネット上での暴露発言と情報流出は、今まで彼らの傲岸不遜さに苦しめられ、傷つけられてきた人々による、ある種の復讐なのかもしれません。大津市役所も市教委も皇子山中学も、24時間全国からの抗議の電話・FAXに悩まされていて、業務に差し支えていると言います。沢村教育長は警察に訴えることを考えているとも聞きます。しかし、わたしは彼らに言いたいのです。一体今まで何を仕事してきたのですか?
「死人に口なし」と言います。しかし被害者の父親は「死人に口があるということを証明したい」と述べています。でも口のない死人には言葉はしゃべれません。証拠として採用できる言葉は何一つ。
また一方で「死人の声は聞きたくない」と言う人たちがいます。皇子山中学の生徒たちにも「もうほっといてくれ、自分には関係ない、これ以上聞きたくない」という反応を示す子供たちが、たくさんいるようです。人の痛みより、自分の煩わしさが先に立つ子どもたちです。父母や学校近隣の住民もそうです。「怖いから関わりあいになりたくない」「通わせたくないのにどうしよう」と、彼らが考えるのは自分と我が子の都合だけです。
しかし、群がる大人たち(マスコミ)、右往左往する大人たち(教師たち・父母たち)の様子を冷静に見つめながら、密かに失われた命に思いをはせる子どもたちもいます。「なぜ生きているうちに、彼の悲鳴が自分には聞こえなかったのだろう?あの悲鳴に応えられなかったのだろう?」と。
いずれにしても、子供たちの振る舞いは、親の思いを反映しているのです。この期に及んでも他人の命などどうでもいい大人たちが大勢を占める一方で、少数ながらも命と向き合おうとし始めている人たちもいます。相変わらず「マスコミには何もしゃべるな」ときつく学校から申し渡されている中で「自分の知っていることを話したい」と語り始める生徒たちや父母がそうです。
そのことの方が、今現在日本中の教育委員会や学校や警察や政府が、大津事件で噴き出した庶民の怨念に満ちた声に慌てふためいて、にわかに一過性の熱病のように、いじめ対策や取り締まりに乗り出すふりをしていることより、はるかに大切です。どうせ彼ら公務員にできることは、本質的には何の役にも立たない「いじめ対策」マニュアル作りとその徹底化ぐらいのものです。
1960年代に活躍したアメリカのSF作家の一人に、ハーラン・エリスンという作家がいます。彼の代表作に「俺には口がない、それでも俺は叫ぶ」という表題の短編があります。今この国で見殺しにされていく無数の魂の声、軽んじられ、傷つき、追い詰められ、声なき叫び声をあげて死んでいく、名もなき子供たちや大人たちの心を代弁しているようなタイトルです。
そして、あなたの内にも、封じられた叫びがあります。その奥底の魂の声は言っているのです。「俺には口がない、それでも俺は叫ぶ」と。どうか耳を傾けてみてください。
深い深いあなた自身の意識の底から、封印されてきた声なき声が聞こえませんか?
「悔しい、悔しい、俺には口がない、声も出せない、きっと誰にも聞こえないだろう、だって俺には口がないんだから、それでも俺は叫ぶ、誰かこの声を解放してくれ」と。その叫び声が聞こえませんか?
まずはあなた自身の魂に触れてください。内なる真実の衝動を感じてください。その深層の意識は「もっと深く、本当は愛されたかった」「強く抱きしめてほしかった」と囁いているかもしれません。そのわたしたちの内なる衝動は、外の世界の哀しみと無念に共鳴し、世界を新たな局面へと動かす力となるのです。その力の源は、あなたの内からあふれ、他者へと開かれる真実のハートの「愛」です。