この国に住んでいて思うことの一つは、人々の「公」の感覚の鋭さ、「自分だけがよければいい」などとは決して思わない、根強い利他心の存在です。3.11の未曾有の災害では、他国に類を見ない優れた公の感覚と利他心がいかんなく発揮されました。
一方諸外国、特に途上国へ行って目立つのは、そうした公共心のなさです。例えば空港からはじまって、ともかく街中が汚ない。バスの中だろうとレストランだろうと平気でゴミを捨てます。
日本に数年住んだ友人がネパールに帰った時、バスの中で現地の友人がみかんの皮を捨てるので「ダメ!」と言って拾うと、「何してるの?」とまた捨てられてしまいました。「ダメよ!」と言ってまた拾うと、「あなたは日本に行ってきて、コジキみたいなことをするようになったのね!」と逆に呆れられてしまったそうです。
また、日本では普通にあるものですが、人影のない路上の自動販売機を見て、世界中の人がみなとてもビックリします。口を揃えて「よくこんなところに置いておけるな!」と言うのです。そして国へ帰って「日本じゃ外に自動販売機が置いてあるんだぞ!」と言っても「そんなの嘘だ!絶対壊されてお金取られるだろ!」とだれも信じないと言います。
実際、世界中ほとんどどこへ言っても、路上に自動販売機が置いておける国はありません。それに公衆トイレの存在があります。例えば諸外国では無料の公衆トイレは珍しいのです。パリなどでは、みんな有料です。コインを入れなければ中に入れません。
暗い人けの無い路上にも自動販売機が置け、無料の公衆トイレがあり、無人の販売所まである。真夜中に女の子が独りで歩いていても、身の危険を感じないという国も日本だけです。外国からきた人々は「この国はヘブンだ!」と言います。そのくらい日本の「公の感覚」は優れているのです。

しかし、かつてはアメリカにだってそういう時代はあったのです。1960年代までのアメリカは、文化の相違はあっても、今の日本並みにと言っていいほどに、相当程度「公の感覚」があったような気がします。
40年前(1970)のアメリカでは、上位100社の労働者と社長の平均年収格差は45倍でした。日本の感覚ではそれでも社長の取りすぎと感じますが、今(2006)ではそれが掟破りの1700倍です。よくそんなに取れるものだとほとほと呆れてしまいますが、要はそれだけアメリカ人に「公の感覚」がなくなったのです。
その公共心のなさこそが、上位1%の富裕層が国の総収入の20%を占め、総資産の40%を所有するというひどい格差社会を生み出した元凶です。反格差デモの「我々は99%だ!」という呼びかけに直接応える人の少なさが、今のアメリカ人の利他心の乏さを物語っています。
もし、先月のニューヨークで、せめて数万人の人々が「ウォール街を占拠せよ!」の呼びかけに応えていたら、市長も警官隊による強制撤去などさせられなかったでしょう。国も富裕層も、デモの広がりに大きな脅威を感じさせられたでしょう。国家や個人による貧困救済の動きを後押ししたかもしれません。結局のところ、格差是正を阻む最大の敵は、人々の無関心と利己心なのです。
しかし、数多の途上国に比べれば、アメリカはまだましとも言えます。例えば中国では、わずか0.4%の富裕層が国の総資産の70%を牛耳っています。それに対して国民のデモすら起こりません。「我々は99.6%だ!」と叫ぶ人は誰もいないのです。そこに見られる現象は、圧倒的な「公の意識」の欠如です。
「格差があって何が悪い?」「悔しかったら働け!」世界中で『反格差デモ』が向き合っているのは、こうした徹底的な社会の側の無関心です。
アメリカではロサンゼルスなど各都市で、次々と警官隊によるデモキャンプの強制排除が実行されました。場所によっては催涙ガスが使用され、暴徒のように警棒で打倒される人もいました。
イギリス、ロンドンではセントポール大聖堂前の広場の200のテントをどうするかで、英国国教会自体が揺れています。強制排除に反対する主任司祭はじめ聖職者が次々と辞任する事態となっています。とは言え、その間もシティーはこともなく営みを続けており、教会は「我々は平等と金融の誠実性を求める人々に共感する」という、反格差デモ側か、グローバル化推進側か、よくわからない声明を発しつつ、実は穏やかにデモ側に退去を要求しています。

そうしたさまざまな国々の情勢を見るにつけても、この日本の人々の無反応は興味深いものがあります。この全くの無反応、無関心さは、時期を同じくするTPPに対する関心の薄さと、根っこは共通しているような気もします。
実は無関心でいられる我々こそが、ご先祖様の恩恵によって甘やかされ、過剰に保護されてきていると思うのですが、多くの日本人はそのことにまるで実感として気づかず、与えられた権力の座に安住しているようにも思うのです。
しかし、実際には日本においても、2000年代に入って格差は広がり続けています。平成景気の間、社員の給料は上がらず、上がるのは株主への配当金と重役や取締役の給料だけ。さらに、最下層には使い捨ての派遣社員たち。その歴然としたヒエラルキーと格差は、企業の競争力維持の要請と、小泉改革によるグローバル化の進展がもたらしたものです。
昨今世界中で横行する子供の誘拐の増加もまた、経済の原則に全ての価値観を委ねてしまったグローバリズムの現れのひとつです。今世界中で、年間数百万人の子どもたちが、誘拐され売り買いされています。アメリカや東南アジアでは、児童ポルノや臓器売買のために取引され、中国ではそうした需要以外に、一般人の間でも跡取りとして男の子の需要が高いそうです。価格は日本円で50万円ほどで、お手頃な価格です。
この児童誘拐もまた『お金が全てで、それ以外に価値観を持てない』という社会が生み出した悪夢の一つです。
「お金が全て」という金融資本主義が強力な支配力を持つ社会情勢は、1990年代の後半から急速に世界に蔓延しました。例えばアメリカの上位六銀行が所有している資産は、1994年にはアメリカの総資産の17%に過ぎませんでした。ところが2009年には総資産の63%を占めるようになりました。つまり今では事実上ウォール街がアメリカそのものを所有しているのです。そのユダヤ金融資本の圧倒的な支配力の前には、自前で選挙費用を用意できないオバマ大統領など無力な下僕に過ぎません。
このアメリカの真の支配者たちの力を知る人々の多くは、日本でも「幸福の科学」や「みんなの党」や櫻井よしこさんや前原誠司さんや経団連米倉会長などのように、そのウォール街の現実的な力に迎合することで、実質的な利益を得ようと考えるようになっています。そして、この考えに与する人たちは、官僚、大企業を巻き込んで、この国の多数派(?)を形成しつつあると思われます。

ところで日本では有名な『フランダースの犬』は、作者の本国イギリスや舞台となっているベルギーではまったく評価されていない無名の本です。ベルギー人にとっては、大好きだったおじいさんが死んで身寄りもなくなり、仕事も失ってついに飢え死にした少年ネロと愛犬パトラッシュは、文字通り単なる人生の〝負け犬〟だと言うのです。
それでも日本人の観光客があんまりひっきりなしに訪れるので、アントワープでは、ネロとパトラッシュの銅像が、急遽日本人観光客向けに作られています。アメリカでは、ラストシーンにまったく救いが無いということで、ストーリーが改変されて出版されているそうです。日本人の感覚からすると、あのラストシーンをハッピーエンドにしてしまったら、まったく台無しだとしか思えないのですが。
物語のラストシーンでは、後悔した街の人々が二人を探して聖堂にたどり着いた時には、雪の中で二人は冷たくなっていました。「なぜ彼らを救えなかったのだろう、悔しい!」「救いのないこの世から、神様がお慈悲で召し上げたんだね」と日本の読者が流す「公の精神」に満ちた涙は、ひたすら個人的な勝利だけを目指す欧米人の価値観では理解不能なのかもしれません。
ここでわたしが繰り返し述べている「公の精神」というのは、「いのちの平等」を重んじる精神のことです。それは例えば、目の前で息を引き取ろうとしている名もなきホームレスの命と、自分自身の命を平等だと感じられる精神のあり方です。
この間、路上で信号待ちの間に、道の脇で段ボールに花を入れて、そこに何か黒い物体を大切そうに入れている女の人を見ました。よく見るとそれは野良犬の死骸でした。彼女はその亡骸を丁寧に箱の中に安置すると、ヒョイッと事も無げに箱を持ち上げて何処かへ持って行きました。そのさり気なさに胸を打たれました。この国にはそのような「小さきものへの愛」の感覚がまだ息づいています。

昔、12月のパリの街で出会った盲目の父親と少女のホームレスのことを思い出します。父親はイギリス人で、目が見えなくなって失職した時、フランス人の母親は二人を捨てて去ったのだそうです。10歳ぐらいの愛らしい少女は、わたしがあげた200フラン(当時5000円ぐらい)を握りしめて「パパ、パパ、この日本人が200フランくれたよ」と父親を抱きしめていました。
この親子は一体どうなるのだろう、とわたしは後ろ髪を引かれてしかたがありませんでした。しかし、フランス人の友人は「ホームレスはパリ中に溢れている。いちいち相手してられない」と気にもしません。パリは、たくさんの〝負け犬〟ネロ少年がいる世界でした。そこには「公」の守りはありませんでした。
でも、公の感覚をズタズタに切り裂いてきた戦後教育の影響と、アメリカ的な明快な価値観を好む風潮から、日本でもそうした公の意識は急速に薄れてきているのも確かです。
ですからこの反格差デモは、本当は日本にとっても、対岸の火事と言ってはいられない面もあると思うのです。「弱者を甘えさせるな!」という掛け声のもと、この国のセイフティネットがアメリカ並に崩壊させられる可能性だってあります。そうでなくとも高齢化と財政の悪化から、日本政府はこれまでのような至れり尽くせりの福祉政策は、おそらく遠からず不可能になることは間違いありません。
しかし、たとえそうなったとしても、わたしたちはその福祉の崩壊した世界で、何とかして生きていかなければならないのです。その時、わたしたちを支えてくれるものは何でしょう?
それはわたしたち自身の〝良識〟に他なりません。サンデル教授がロールズの『正義論』の検証を通して人々に伝えたいと考えているものも、その〝良識〟の大切さではないでしょうか。
日本では諸外国以上に「熱血教室」がブームになったことから、テレビを見てロールズの格差原理について真剣に考えたという人も多くいるはずです。(*ロールズの格差原理▷社会における格差が認められるのは、その格差が最底辺の人々に利益をもたらす場合だけである。←もちろんこの場合の〝利益〟とは何かということは、常に重要な問題です。)
わたしたちの生活を幾重にも取り巻いて、守ってくれているもの、それは人々が相互に向け合う半ば無意識の利他心です。このお互いの心の結びつきこそが、長い間この国の社会の安定に寄与してきた、見えない保護力の正体です。その保護力の根源である、わたしたち自身の「公の感覚」が薄れつつある今、もう一度「いのちの平等」について、より意識的・自覚的になって生きることが求められているのです。
それが、3.11のメッセージであり、今年の漢字として多くの人が意識した「絆」の意味なのではないでしょうか?