意識である光と無意識である闇の狭間に、灰色の領域がある。セピア色のイメージ、モノトーンの先触れ、オーラソーマで言うと、無意識の下部と意識の上部の色を混ぜたシェイクカラーになるのだろうか。
かつて、おそらく昭和三十年代まで、わたしたちは、そのグラデーションの領域をとても大切にしていたのではないか、と思う。もちろんそれは、文明の利器である優れた照明器具が生活空間の隅々にまでは行き渡っていなかったことによるのかもしれない。なにしろ、まだまだ貧しかったのだ。しかし、その一方で、子どもたちは確かに暗がりを好んだ。押入れやタンスの中に隠れるのが好きだった。「ライオンと魔女」のピーターやエドマンドたちのように。
それから昭和四十年代に入って急速に、わたしたちの生活空間から、このグレイの領域は駆逐されていき、影のない完全な光の空間を人々は好むようになった。そして、自分たちの生活空間を、人工的な光や、意図された明るさで満たすようになった。子どもたちは暗がりを怖がり、嫌うようになった。夜でも明かりをつけっぱなしにしないと眠れないという子どもが増えてきた。となりのトトロで出てくる〝真っ黒黒スケ〟が撃退されてしまうように、〝暗がり〟を一切追い払ってしまうのだ。
しかし、「全てを明るみに引きずり出し闇を駆逐したい」という近代の強迫観念は、悠久の古代から闇と馴染んで暮らしてきた人間精神にとって、かなり不自然な性向ではないかと思う。それは、自分の座る場所や触れる範囲の細かい埃の存在を一切許せない病的な潔癖性とどこか似ている。
その一方で、人の目の触れない闇の領域に対する徹底した無視の態度も目立つ。机の上は綺麗でも、引き出しの中は目も当てられない。それは、その人の心の中と同じ。上品に装ってみても、中身はゴミ溜めみたいなもんだ。表面上、見た目の体裁さえ格好つけば、それで良しとする感覚が身についてしまっているのだ。
その病状が進展すると、自分の部屋の中がごみ溜めになり、やがては家全部が塵の山と化してしまう。これが現代の〝片付けられない症候群〟だ。脳の前頭葉の異常で、まったく片付けられないという人もいるらしい。部屋にダンボールが積み上げられ、中身は塵ばかり。三十年前の雑誌やら、誰もつける人のいない子ども服やら。
去年からの〝断・捨・離〟のブームも、そうした状況への危機感から生じているのかもしれない。
また、はっきり目で見えるモノしか信じられないという人も増えている。これも、薄闇や暗がりを好まない現代人の特色の一つだ。
だいたい世の中のはっきりしないモノのうちでも最たるモノが〝人の心〟である。つまり、現代人は他人の心を信じないということだ。愛とか友情とか信頼とか、どれもこれもはっきりしないモノばかりだものね。「そんなモノに人生を託せるものか!」ということで、つまるところ、頼れるのは〝お金〟とか〝保険〟とか〝学歴〟とか〝資格〟とか、ハッキリしているモノだけになる。
『白日の下にさらけ出されているモノしか信じない』ということと『見えない闇の領域をとことん無視する』という姿勢は、実は表裏一体なのだ。それが、例えば、産んだ母親が、我が子の心をまるで掴めないという、昨今の奇妙な現象とも関わってくる。
「この子はお母さんには何を言っても通じないと感じてるんですよ」と伝えると、「じゃあ、わたしが悪かったって言うんですか?」と、いかにも心外そうにする母親。今この瞬間の目の前の我が子の想いよりも、自分自身の立場を正当化する方に忙しい…。
わたしは、時々、まるで時間が止まっているような土地や人々の生活風景に出会うことがある。数十年前の家並みと、まるで変わっていない。空気の色も人々の表情もどこか違う。何よりも、そこには〝暗がり〟が自然に存在し、息づいている。
その時感じるのは、「ああ、ここには、ちゃんと光の陰翳が、まだ色濃く存在しているんだなあ」ということだ。その感覚は、わたしを深いところから、とてもくつろがせてくれる。
ハッキリしないモノの最たるモノは、実は自分自身の心の内である。自分の内面世界とぴったりマッチする風景は、妙に心を落ち着かせてくれるものだ。そして、時にはまるで〝魂の故郷〟に巡り合えたというような、懐かしい感覚さえも感じさせる。
見失いかけていた〝闇〟が、ぴったり寄り添ってくる確かな感じが心地よい。〝陰〟〝陽〟のバランスをとる、とは、スピリチュアルの用語としてよく使われるが、それは、そんな感覚なのかもしれない。
バッチ博士の〝汝自身を解放せよ〟という言葉にも、何処か繋がってくる気もする。そこには本来の自分を取り戻す、というような感覚があるからだ。
かつて、おそらく昭和三十年代まで、わたしたちは、そのグラデーションの領域をとても大切にしていたのではないか、と思う。もちろんそれは、文明の利器である優れた照明器具が生活空間の隅々にまでは行き渡っていなかったことによるのかもしれない。なにしろ、まだまだ貧しかったのだ。しかし、その一方で、子どもたちは確かに暗がりを好んだ。押入れやタンスの中に隠れるのが好きだった。「ライオンと魔女」のピーターやエドマンドたちのように。
それから昭和四十年代に入って急速に、わたしたちの生活空間から、このグレイの領域は駆逐されていき、影のない完全な光の空間を人々は好むようになった。そして、自分たちの生活空間を、人工的な光や、意図された明るさで満たすようになった。子どもたちは暗がりを怖がり、嫌うようになった。夜でも明かりをつけっぱなしにしないと眠れないという子どもが増えてきた。となりのトトロで出てくる〝真っ黒黒スケ〟が撃退されてしまうように、〝暗がり〟を一切追い払ってしまうのだ。
しかし、「全てを明るみに引きずり出し闇を駆逐したい」という近代の強迫観念は、悠久の古代から闇と馴染んで暮らしてきた人間精神にとって、かなり不自然な性向ではないかと思う。それは、自分の座る場所や触れる範囲の細かい埃の存在を一切許せない病的な潔癖性とどこか似ている。
その一方で、人の目の触れない闇の領域に対する徹底した無視の態度も目立つ。机の上は綺麗でも、引き出しの中は目も当てられない。それは、その人の心の中と同じ。上品に装ってみても、中身はゴミ溜めみたいなもんだ。表面上、見た目の体裁さえ格好つけば、それで良しとする感覚が身についてしまっているのだ。
その病状が進展すると、自分の部屋の中がごみ溜めになり、やがては家全部が塵の山と化してしまう。これが現代の〝片付けられない症候群〟だ。脳の前頭葉の異常で、まったく片付けられないという人もいるらしい。部屋にダンボールが積み上げられ、中身は塵ばかり。三十年前の雑誌やら、誰もつける人のいない子ども服やら。
去年からの〝断・捨・離〟のブームも、そうした状況への危機感から生じているのかもしれない。
また、はっきり目で見えるモノしか信じられないという人も増えている。これも、薄闇や暗がりを好まない現代人の特色の一つだ。
だいたい世の中のはっきりしないモノのうちでも最たるモノが〝人の心〟である。つまり、現代人は他人の心を信じないということだ。愛とか友情とか信頼とか、どれもこれもはっきりしないモノばかりだものね。「そんなモノに人生を託せるものか!」ということで、つまるところ、頼れるのは〝お金〟とか〝保険〟とか〝学歴〟とか〝資格〟とか、ハッキリしているモノだけになる。
『白日の下にさらけ出されているモノしか信じない』ということと『見えない闇の領域をとことん無視する』という姿勢は、実は表裏一体なのだ。それが、例えば、産んだ母親が、我が子の心をまるで掴めないという、昨今の奇妙な現象とも関わってくる。
「この子はお母さんには何を言っても通じないと感じてるんですよ」と伝えると、「じゃあ、わたしが悪かったって言うんですか?」と、いかにも心外そうにする母親。今この瞬間の目の前の我が子の想いよりも、自分自身の立場を正当化する方に忙しい…。
わたしは、時々、まるで時間が止まっているような土地や人々の生活風景に出会うことがある。数十年前の家並みと、まるで変わっていない。空気の色も人々の表情もどこか違う。何よりも、そこには〝暗がり〟が自然に存在し、息づいている。
その時感じるのは、「ああ、ここには、ちゃんと光の陰翳が、まだ色濃く存在しているんだなあ」ということだ。その感覚は、わたしを深いところから、とてもくつろがせてくれる。
ハッキリしないモノの最たるモノは、実は自分自身の心の内である。自分の内面世界とぴったりマッチする風景は、妙に心を落ち着かせてくれるものだ。そして、時にはまるで〝魂の故郷〟に巡り合えたというような、懐かしい感覚さえも感じさせる。
見失いかけていた〝闇〟が、ぴったり寄り添ってくる確かな感じが心地よい。〝陰〟〝陽〟のバランスをとる、とは、スピリチュアルの用語としてよく使われるが、それは、そんな感覚なのかもしれない。
バッチ博士の〝汝自身を解放せよ〟という言葉にも、何処か繋がってくる気もする。そこには本来の自分を取り戻す、というような感覚があるからだ。