もともとイギリスで発達した人権思想において、人権とは〝神が人に与えた恩寵〟であり、それは自然権と呼ばれる。その権利は神によって与えられたものであるがゆえに、人のつくるすべての法や権力やシステムの上位にあって、不可侵のものとされる。これが、〝法の支配〟の意味だ。
しかし、日本にあっては、まず、この〝神〟自体を信じない人が多い。そうすると、人権の由来そのものが甚だ怪しいものになってしまう。万人が基本的人権を尊重しなければならないという、そもそもの根拠が無くなってしまうからだ。
だから、既に正文法として成立している日本国憲法そのものが人権擁護の最大の根拠となってしまうのだ。
われわれのこの社会では、日本国憲法が改定され人権の尊重の部分が文面から消えてしまったら、人々の心からも人権尊重の根拠(必然性)自体が消滅してしまう!と、そういう恐れを抱く人が多いのだと思う。
誰よりも〝護憲〟を叫び続けるサヨクの人々こそ、そのような恐れにとりつかれている人々と言えるだろう。
彼らは〝信仰心〟を持たないが故に、自分の内に人権尊重の根拠を発見することが出来ないか、さもなくば、他者がその心の内で人権尊重の根拠を見いだすことができないだろうと強い危惧を抱いている。つまりは、人を信じていないのだ。あるいは、人の良心を、社会そのものを。
そして、ひたすら〝憲法〟に頼り、すがりつくのだ。
それは、はなはだ後ろ向きの姿勢に思える。
しょせん、憲法がこの世から無くなったぐらいで人権尊重の根拠が人々の心から失われてしまうのだとしたら、もともとわたしたちの精神には人権尊重の思想など根付いていなかったということなのだ。
そんな状態で、憲法だけ守ってどうなるものでもないだろう。
それよりも、我々の内に人権の根拠を求める努力に意識を傾けるべきではないだろうか?
我々は自らの精神の内なる平和の中から、人権尊重の根拠を見いだすことはできないのだろうか?
憲法があろうとなかろうと、だ。