ミラノの日常 第2弾 -96ページ目

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

今日5月3日は、憲法記念日。

 
1947年に日本国憲法が施行されたことを記念し、国の成長と平和、国民の権利を考える祝日であった。
 

そもそもこの憲法は、国家権力を制限し、国民の基本的人権を保障するために国民が定めた「最高法規」である。

 

国家権力の制限、つまり、憲法は、国が勝手な権利行使をして国民の自由を奪わないよう、権力の行使を拘束・制限するものではないか。

 

諸外国における戦後の憲法改正数(2025年8月の時点)を比較すると、ドイツは69回、フランス(28回)、イタリア(20回)、カナダ(19回)、アメリカ(6回)、オーストラリア(5回)中国(10回)、韓国(9回)...しかし、日本は一度もない。

 

けれど、改正をしていないから古臭いとは決して言い切れないし、改憲経験の多いドイツなどは連邦制の権限変更など技術的な改正が多い、というのも事実であり、回数のみの比較は意味がないと思う。

 

いずれにしても、民主主義国家体制において、主権者たる国民が、愚かな権力者の暴政に制限をかけるために存在する「不変の法」であるはず。

 
ところで、イタリアでは、この3月にメローニ政権が推進した司法改革(裁判官と検察官のキャリア分離)に関する憲法改正国民投票が実施され、反対約53%で否決された。
 
投票率58.93%。2日にわたる「国民投票」での投票率としては歴代1位となった。これは、もちろん現政府への不満もあるだろうが、イタリア人のメンタリティに憲法の魂が深く根づいているからだと言える。
 
ファシズムから解放された第2次世界大戦後、イタリアが2度と同じ過ちを犯さないよう、精査に精査を重ね制定された憲法。
 
過去に2度改憲の「国民投票」が行われているが、いずれも市民から賛同を得ることなく、政権交代、首相辞任という憂き目に逢っている。
 
たとえメローニ現首相に人気があろうと、憲法を好き勝手に歪曲することで、イタリアの司法の構造そのものを変え、その自律性、独立性を奪おうとする現政府に、市民は簡単に白紙委任状を渡すことはなかった。
 
そう言う意味では、今まで政治に無関心であった人たちが、立ち上がり日本の現政府に立ち向かいはじめた。それを「ごっこ」遊びと評するのは、あまりにも上から目線で国民を馬鹿にしていないだろうか?
 
それだけ国民が政治、そして自国やその未来に関心を持ち、「おかしい」と気づき、声をあげている証拠なのだ。
 
憲法は「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」の三原則が基本。憲法のあり方は国民が決めることだ。
 
改憲というなら、それこそ国民が直接、総理大臣をリコールできる条文を加えて、完成させれば良い。
 

だから私たちは

どんなもめごとが起こっても

これまでのように、軍隊や武器の力で

かたづけてしまうやり方は選ばない

 

殺したり殺されたりするのは

人間らしい生き方だとは考えられないからだ

 

「もう二度と戦はしない(第9条)」一部抜粋

 

作家の井上ひさし氏が、子どもにも読めることばに「翻訳」した『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』のなかで、第9条はこのように書かれているという。

 

 

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日本がどこかの国に従属するのではなく、自立して対等な平和外交を行うというのも、憲法の精神である。
 
また、5月3日は、「世界報道自由デー」で、報道の自由の重要性を喚起し、各国政府が世界人権宣言の第19条に基づく表現の自由を尊重し支持する義務を認識するために、国連総会で定められた啓発日である。
 
とはいえ、報道の自由の重要性を再確認と言いつつ、例えば先月レバノンでは、取材中のジャーナリストがイスラエル軍の空爆により殺害されたが、ジャーナリストだから狙われたという疑いがかけられている。
 
また、報道の自由への脅威は、戦争だけに限らない。政治的圧力や経済的弱体化が広範に進んでいるのは明確。権力やメディアによる情報操作(報道しない自由?)や、正確な情報を得られなくなるリスクも存在している。 
 
報道の自由とは、事実を世間に伝える行為の自由を指し、民主主義社会において国民の「知る権利」を支える極めて重要な権利である。
 
都合の悪いものは、隠されていないだろうか?
 
多様な生き方を求める人々が、お互いの生き方や考え方を尊重しながら、共に協力して生きていくことができる「自由で公正な社会」であってほしいと思う。

日本国憲法の普遍的意義を再確認すると共に、憲法に基づいて基本的人権が保障され、平和が維持される社会を今日ここに、強く願う。