日本からカトリック信者である友人が来伊し、レッコにあるミラノ外国宣教会の老人ホームへお連れすることになっていたが、ひょんなことから、先日帰天されたアルベルト神父様のお墓参りが出来た。
ミラノからレッコに向かう途中、50キロほどの場所に、ミラノ会だけの墓地があるのだ。そして、ミラノ会(PIME)やPIMEの無原罪の聖母宣教修道女会やミラノの共同体の司祭たちとの協力のもと、聖書研究や、宣教準備など霊的なプログラムを提供しているセンターがあった。
駐車場から墓地に続く小道は趣があった。
墓地正面。
手前右側は、PIMEの会員で司教になった方々の墓地。左側は、分骨された方々の名前が刻まれていた。
ちなみにPIMEは、1850年、アンジェロ・ラマッツォティ司祭によってイタリアのサロンノ市で創立。今年で175周年。日本宣教は75周年。殉教者は19人。
年代やどこで宣教されていたのか?墓石を見て回っていたら、ここ数年以内にミラノの本部やレッコの老人ホームでお見かけした事のある司祭も数人いらした。高齢であったり、病気だとしても、人は必ず天に帰っていくわけだが、ご健在の時の姿が甦った。
墓地内部から見る外の眺め。非常に静かな祈りの場であった。
その後、郷土料理が食べられるレストランへ。
トウモロコシの粉で作るポレンタがオーブンで焼かれ非常に美味であった。ワインと水とコーヒーもつき、テーブル料込みで13ユーロ。ミラノではありえない値段であった。平日なのに、レストランは、地上階と地下も一杯であった。
それから、老人ホーム訪問まで30分ほど時間があったので、レッコ湖畔を散策。本来は雨の予報であったが、天気も良く、非常に温かく汗ばむくらいであった。
レッコの四季は、様々な顔を見せてくれる。
レッコの老人ホームを訪問する度に、老いの葛藤と苦悩を思うが、この美しい光景がリンクしてしまい、どうしても、この湖や山を見る度、過ぎ去った日々への郷愁や寂しさ、人生の儚さを感じてしまうのであった。
その後、老人ホームへ。私はつい最近アルベルト神父様の葬儀に出かけたばかりであったが、数年ぶりの友人たちとマリオ神父様の再会になぜか涙してしまうのであった。
とはいえ、笑いの絶えない1時間半であったが、司祭のホームは人手不足なのか?話す相手もいないし、リハビリも行われていないと言う。また一緒に食事をする仲間は、耳が皆遠いから話はしないし、話せない人も多い。なのでロザリオの祈りもなくなってしまったと聞いた。
もっと近ければ頻繁に通えるのに…と思った。
しかし、人には、目に見えないものや、聞こえないもの、そういったものに気づけることが大切なのではないだろうか。沈黙には「生きる沈黙」というものがあることだろう。
人生の晩年における「沈黙」は、孤独と孤立感を伴うかもしれないが、逆に内省と塾考において、人生の最後の成長の時なのかもしれない。(とはいえ、その時がこないと本当に理解はできないかもしれないが)
長年の人生経験を経、また聖職者として、些細なことには動じない心の平穏や、人生の終わりを受け入れる姿勢(死生観)が生まれるのではないだろうか。だとすれば、「沈黙」は穏やかな受容の表れなのか?
少なくとも、老人ホームでの司祭方にお会いすると、人を温和にし、穏やかにしてくれるような気がする。
レッコの湖畔の風景は穏やかで、非常に美しく、それでいてやはり哀愁に満ちていた。
今日の一句
沈黙し ただ神に向かう 救いの業









