世界病者の日 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

 

明日2月11日は,「世界病者」の日。

 

聖ヨハネ・パウロ二世によって1993年から始まった。また、この日は「ルルドの聖母の記念日」にもあたる。

 

第31回に当たる今年の「世界病者の日」パパ様メッセージ「この人を介抱してください」。はこちら。

 

 

 

シノドスの精神にかなう、いやしの実践としてのあわれみの心を薦めておられる。

 

ところで、自分が年を取れば当然親も親類も知人もお年取りが増え、気になって連絡する人も多くなるわけだが、そうそう全員に声をかけられるわけではない。

 

毎朝仕事へ行く際、地下鉄を降り、シッター先に着くまでの数分の間、母に電話する。

 

シッター先につき、子供たちを保育園に連れていく日は、その帰りの数分、または仕事帰りに空手仲間のF爺(この夏85歳になる)に電話する。母はとりあえず元気だが、薬や病院通いは日常生活の一部であり、逆に同居の長男が迷惑をかけていることも多いだろう。気になるし、とりあえず短い時間であっても話をすることで、お互い安心感を得ることもあるだろうと思い電話する。

 

弟はいるが、弟も嫁も母に気遣うことはないし、(母が)彼らに期待して落胆されるよりも私がそこをカバーしたほうが良いと思う。F爺に関しては、一年半前に奥様を亡くされ、子供はおらず、親類とも絶縁状態。そんな中、大病が発覚。病気は治せずも寄り添い心の支えになることは出来る。毎日誰かしらが、彼に電話し、病院や買い物に付き合ったり、彼を支え絆を強固にしていっている。とにかく生きる力、生きる目標を持ち続けて欲しいと願う。

 

日本の師範にも随時報告するが、人生の先輩がどんな事をどんな風に考えているのか聞けるチャンスはそうそうないのだから、F爺の言う事が正しいとかどうとかではないが、若い子が人生相談するのも良い機会ではないか?とおっしゃる。

 

また、不死身の人はいないのだから、いつかは向こうの世界に行くのは当たり前。送り出す側はその人が「いい人生だった。」と最期の瞬間に言う事ができるようお手伝いするだけだとも...。

 

今日のパパ様はツイッター。

PapaFrancesco@Pintefix.it

Tutti siamo fragili e vulnerabili; tutti abbiamo bisogno di quell’attenzione compassionevole che sa fermarsi, avvicinarsi, curare e sollevare.て自分は一人ではないということを改めて考える日にしてみたい。

私たちは皆、もろく傷つきやすい存在です。私たちは皆、一度立ち止まり、近づき、宥め、癒す思いやりのある気づきを必要としています。

 

「世界病者の日」は、祈りや病者への寄り添いを呼びかけているのではなく、合わせて、医療機関や市民社会の、共に歩むための新しい道についての意識向上も目的としている。

 

病気の人、病気の家族を世話する方々、仕事で、研究で、ボランティア活動で彼らを世話する人々、またその周りで友愛の絆を築くために尽力する全ての人を思い起こし、尊い命、決して自分は一人ではないということを改めて考える日であると良いと思う。