空手を始めて7年。黒帯になって1年ちょっとが過ぎたが、黒帯はゴールではなくむしろスタート。この先が長く、そうそう昇段出来ないし、してはいけないと思う。
そういう意味では、色帯時代は気が楽だった。自分の目標だけに一生懸命になればよかった。茶帯の頃から指導は始まったが、心のどこかにはまだ色帯だし、と言う甘えもあったと思う。
しかし、黒帯になると、同じ道場の黒帯の中では下っ端の方とは言え黒は黒。見ている人は見ているのだ。「基礎」は出来ていなければならないが、ふと気が抜けた時、間違ったり徐々に基本に忠実で無くなってしまったりする。これほど恥ずかしいことはない。だから、自分も含め、指導の際、基礎の「基礎」はしっかり固めないといけない。
ところで、『鬼手仏心』という言葉がある。誰かを救うために、内心は慈悲に満ちているのに、外見は傷つけているようにしか見えない手段を取る時の有様を言う。よく言われるのが外科医の手術。広辞苑によると「外科手術は体を切り開き鬼のように残酷に見えるが、患者を救いたい仏のような慈悲心に基づいているということ」だと言う。
空手の稽古に限らず、子育てや会社では部下育てにも言えるだろうが、何が「優しさ」なのだろうか?と悩む事がある。手取り足取り教えるべきか?それとも放っておいて自分で気づかせるべきか?
まずは相手を知ることも大切であろう。その子(人)がどういう子であり、何が出来て何が出来ないのか。どうやったらスイッチが入るのか?どう伸ばすことが大切か?それを甘いという人もいるかもしれないが、少なくとも空手の稽古の場合、お月謝を頂いていることもあるし、空手の面白さ?を引っ張り出してあげることも指導者の使命なのではないか?とも思うのだが、空手の技だけに限らず、だらけないように注意させることも大切だ。
私個人としては、ピリピリではなく、神聖な、そして背筋が伸びるほどの緊張感は常に道場に欲しいと思うが、それをイタリア人に求めるのは難しい。師範からは何度も、私が悪者になって注意しまくれ!とおっしゃるが、怒鳴るたびに気分が悪くなる。滅入ることもある。
じゃんけんの「チョキ」で自分の両目を指し、そして相手を指差して、「監視してるぞ!」とジェスチャーをすると、同じジェスチャーをやり返してくる子供もいる。おいっ!しっかり練習せえ!!おばちゃんだと思ってなめんなよ~っ!
しかも、ちょっと隙を見ると、おしゃべりが始まったり、ふざけ始める子供もいる。何度怒鳴ったことだろう。もう放っておいた方が楽だ!とさえ思うし、うるさいおばちゃんだと思われることもないだろう。
しかし、良い道場づくりのために、そして各門下生の意識向上のためには放っておけない。雰囲気作りも大切だが、なぜ武道を習うのか?その意識と自分を見つめることをしてほしいと思うのだが、信念を持ち続け、時には自分も相手も傷つくだろうが、これも大切なんだろうな…と初稽古を目前に思う日々。
師範曰く、指導者である以上、結果はどうであれ対処は全責任を負うべきだという。
そして、空手は人を傷つける手段ではなく、名医といわれる医者のように修行を積んで積んで積んで「人を活かす、幸せにする術」までに昇華させる…それこそが空手を生涯かけて追求していく道だと言う。
日々修行。しかし、いつ自分の練習するんだ~?!苦笑
