2月26日は父の80歳の誕生日。傘寿のお祝いである。
孔子の人生観は70歳までしかない。
「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」
自分の思うことすべてが、真理にかない、思うがままの行いをとっても自然の法則から外れることのない、悟りの究極を体得したことを意味するけれど、80歳はどうなのだろうか?
ところで、父が心筋梗塞で倒れ、危篤だと母から連絡が入り、次男だけを連れて飛んで帰った。一時は家族を呼んでくださいと言われていたようだが、集中治療室から一般病棟へ移動し、73歳を迎え、「誕生日だったんだな・・・」としみじみと思い出していた姿が脳裏に焼きついている。あれから早いもので7年。2月に入ると、誕生日を越えられるか?常に心にざわざわ感を持って過ごしてしまう。
ところで、昨日、同じアパートに住んでおられたおじいちゃまが90歳の誕生日を目前にお亡くなりになられ、葬儀に参列してきた。娘の孫は、我が家の子供達と同じモンテッソーリに通っていたので、顔見知りではある。葬儀でのお説教では、亡くなられた方の人生と家族愛が語られ、式の最後には、前記娘の父親に対する感謝の手紙が、孫によって朗読された。愛し、愛され、また与え、与えられれる人生であり、最後に感謝を述べられ、涙を誘うものではあったが、人生の幕を閉じるのには、理想的だな、ふと思った。
以前も書いたものだが、一人の人間が生まれるためには、両親が必要である。その両親が生まれるためには、それぞれの両親4人が必要である。そのようにたどっていき、十代さかのぼるならば1000人の親が必要である。二十代さかのぼるならば100万人の親が必要なんだそう。そのなかのたった一人の親が欠けても、『私』は存在しない。私達の命は奇跡の命ではないだろうか?
よく子供達は「好きで生まれてきたわけじゃない」と憎たらしいことを口にし、傷つけられる。けれど、親になってはじめてわかったこと。それは、やはり人が生まれてくる意味というのは、自分の存在が周りの人たちから喜ばれることなんじゃないだろうか、と。 自分の親を人間として受け入れがたいという人もいるかもしれない。けれど神様は、その親に私たちを預けられた。
今朝、母経由で、父にメッセージは送っておいたが、明日にでも電話してみよう。
お父さん、80歳おめでとう。そして、いつもありがとう。
