ボランティアの精神 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

夏休みが始まると同時に教会のオラトリオもスタートし、初めての日曜日。

ごミサにあずかり、オラトリオで小•中学生の児童生徒を見る、”アニマトーレ”と呼ばれる高校生、大学生のリーダー達が祭壇に上がり、共同体の前で、忍耐と喜びをもって奉仕することを約束した。

そういう意味じゃ私自身も同じ。週3回の配膳及び後片付けとラボラトリオ。頼まれたから仕方ない、ではなく「喜び」を持って奉仕しなければならない。

Itamaのボランティアで思うこと。毎年急激にスタッフが増えているが、スパツィオ•ビンビに関しては子供が好きだから、特に小さい子に触れたいからと言って入って来る人が最近多い。ただ問題は、他のスタッフや協会自体に興味がなく、ミーティングには出てこない、縦横の関係もコミュニケーションもなく、そしてそれなりの理由はあるにせよ、何も告げずに来なくなる人もいる。あまりにも無責任ではないか?

ボランティアは無報酬。任意による仕事ではあるので「してあげた」という表現でも良いのだろうか?けれど、それは真のボランティア精神とは言えないだろう。しかも、好き勝手にして良い訳はない。

「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」という言葉がルカの福音書にある。ボランティアとは、本来「させていただきます」ということではないのだろうか?普段は自分のこと、仕事のこと、家族のことしか考えずに過ごしている日々の中で、何かを通して、人間は互いに支えあって生きることの喜びを「教えていただく」ことが必要だ。

ところで、私は20歳代前半、職場の上司の指示により、ある管理職、専門職についている若い女性の世界的組織で、人権と女性の地位を高める奉仕活動のグループに入った。周りも私と似たり寄ったりの寄せ集めだった。とはいえ、普段なら知り合うこともない、私も含めアクの強い?(爆)集まりだったが、カテゴリーの違う仕事に就く女性との活動は刺激的だった。

お互いの人脈やコネクションを最大限に利用し、講演会も数々開催した。超有名な医師や教授との講演会は今でもやりたいくらいだ。

それでもバブル膨らむ夢の時代か?月一度の定例会は、六本木のクラブ。普段は使われないギャラリーを後で飲んで行くから使わせて!と強引に頼み込んだり、役員の打ち合わせはホテル・オークラ。時代の申し子か?!。

けれど、内心、これは偽善ではないのか、と葛藤があった。やればやるほど、自分の本心で無い気がしていたからだ。自分に戻ってくるのはキャリアと思い切り勘違いしていたようだ。一人が脱退表明したら、だーっとメンバーが辞めた。皆同じ気持ちだったのだろうか?今はわからない。良くも悪くも私はそのグループを抜け、仕事も辞め、今の夫(結婚は今も昔も一度だけ。笑)とイタリアに来た。

子供が徐々に成長し、子供たちを通じ様々なイベント(ボランティア)に参加するようになった。人に喜んでもらえることが自分の喜びになる。これだ!と思った。自己犠牲ではない。自分を差し出してもそれが何倍もの生きる糧となる。

昨年itamaの写真展が行われ、初めてメンバーが夫婦、家族での顔合わせをした。「なんか生活と時間に余裕があるおばちゃん達の集まりだな」と夫に言われ、カチン。上から目線め!メンバーのほとんどは、子供が二人、三人、四人...と複数で、実際本業を抱えている人も多い。決して暇な人間の親切の押し売りではないのだ。確かに、今日食べるお金もなければ、働かざるを得ないだろう。そういう意味では皆夫達に感謝している。けれど、自分達の余ったところを足りないところにはめ込むジグゾーパズルよろしく、一つの全き世界を完成するために努力を惜しまない女性達の集まりなのだと思いたい。それは、決して自己満足の域ではないと思っている。

パーパ•フランチェスコはおっしゃった。
一時的な文化に打ち勝つ心を持とう!と。つまり、相対的、刹那的な文化の中で、多くの人が今この瞬間を「楽しむこと」が大切であると主張する。明日どうなるかわからないから、生涯をかけた取り組みや、永遠に通用する決定は価値がないという。それは、「結婚」に対する見方にも関わってくるだろう。

何事も、長期にわたる責任のある物事に取り組むことが大切だ。

子供達には、社会人になる前に、アルバイトの経験も必要だろう。けれど、人間のあるべき姿を思い出させてくれるボランティアを「させていただく」機会も欲しいものだ。