来週水曜日(2月18日)の灰の水曜日(ミラノでは2月22日)をもって四旬節が始まる。それに先駆け、今年の四旬節メッセージ『心を固く保ちなさい(ヤコブ5:8)』が発表され、その中で、キリスト者には、無関心や無力感、自力でできるという思い上がりを克服し、神を自らの心に受け入れ、喜びにあふれ、あわれみ深く、力強く生きることが求められている、と呼びかけられた。
ところで、今年度(昨年9月から)から次男がカトリックの学校に転校した。次男はすっかりクラスになじんだが、私もその学校でもママ友が数人できた。そのうちの一人は、決してストイックではないが、カトリック信者として霊的によりよく生きたいと模範を示してくれる女性だった。彼女は、モルドヴァ出身でもともとは、東方正教会の信者。乳児洗礼で、初聖体も堅信の秘蹟もなく、それこそカテキズモ(カトリック要理)を学ぶこともなく成長し、大人になって表面的にはクリスチャンであっても、信仰の「し」の字もなかったという。それが、信仰の篤いイタリア人のご主人に出会い、回心したという。
その彼女の導きにより、数年ぶりにイタリア語で「ゆるしの秘蹟」にあずかった。日本語ではクリスマス前にしているが、告解だけは、イタリア語は苦手。どこまで心の内を表現できるか自信がないからだ。慣れも大切よ、と友人。そして、毎週ミサにあずかっているのなら、もう少し、頻繁にゆるしの秘蹟にあずかったほうがいいとも言われた。頭ではわかっていても、できない。罪の意識があっても、目をつぶってしまう。そして、ゆるしの秘蹟を受けても結局同じことの繰り返し。なぜなんでしょう?司祭に訴えた。
それは、あなたが人間だからですよ。これまた、頭でわかっていたものの、すっとーんと何かが落ちた。なにはともあれ、気づくことが大切なんです、とも。
ゆっくり噛みしめるようにイタリア語で語ってくださった。まだ若い司祭であったが、なにか束縛から解放されたという嬉しさで、涙が溢れてしまった。司祭にティッシュをいただいた。苦笑 「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。」非常に穏やかな気分。
ところで、子育てでは、親に愛され信頼されている子供は、責任感もつき、自分の人生の生き方を模索し続け、親は忍耐が必要とはいえ、見守り続けるだけでいい。けれど、過保護であったり、命令、干渉、支配といった働きの強い親の子供は、その反動で、無気力、無関心、無感動、無責任、不作法になりやすい。
私たちも一個人として無関心になりがちだ。無関心、無力感との連鎖に捕らわれないためには、どうしたら良いだろうか?心が硬く閉ざすことのないように。神と向かい合い、神を自分と相手の間に入れて人と関わっていけば、相手に優しく接していくことができるだろう。柔らかい心で人に接すれば、相手は優しさに包まれ難い部分も柔らかくなっていく。化石になった心を温め、溶かすことができたらなんと素晴らしいだろう。
来週末からいよいよ四旬節。主の平安の中を歩む日々にしたい。
http://www.cathoshin.com/2015/02/12/pope-lent-2015/
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/lent/15lent.htm
http://www.novaevangelizatio.va/content/nvev/it/eventi/24-ore-per-il-signore-2015.html
