ついついまわりの人間観察をしてしまう。
私も、携帯電話が使えず”不便だ!”と文句を言ってしまったばかりだが、あまりに多くの人たちが、電車やバス内で携帯電話に向かって何かを見ていたり、メールを書いているのには驚いてしまう。歩きながら、携帯電話を手にしいる子供、学生の多さ・・・
もちろん、イタリアでもそうなのだが、なにかどこかが違うのだ。
イタリア人は『マナーモード』使用、という感覚がまだ少なく、公共の場でもあちこちから私語が聞こえる。そんなこと公共の場で話さないほうがいいんじゃない?これから会うんでしょ?(会話から分かること)だったら、そんなこと後で話したら?ということが回りに分かってしまうのだ。たまに、ミサ中にも電話がなり「あ~今ミサ中!」なんて平気で返事をするものもあり・・・さすがにそういうものは、日本にはいないだろうが、隣同士でもメール・・・というのが、下手したらあるのではないだろうか?
あまりにも、ネット世界への閉じこもり、ネットを通した人間関係・・・もちろん、私も長年ブログを公開してきて、広がったネットワークは大きい。それでも、話す時の表情、視線、身ぶり・手ぶりなどの非言語的メッセージを欠いたコミュニケーションというのは、どうなんだろうな・・・。就職したばかりの人が対人恐怖症で電話の応対ができない、という話も聞いた。
ネット社会と対人恐怖症の問題をつなげてしまうのは、極端かもしれないが、メディア時代以前の子供達の世界では、自然性と身体性によって規定され、交わされる人間関係の場はしっかりと、この目で確認することができた。それが省略され、人に気を使う人間との接し方も徐々に面倒になり、ますますコミュニケーションが不足になるのではないだろうか?
「最新式スマートフォンや高級車があれば幸せになれる、という考え方を捨てなさい。」と教皇フランシスコはミサの説教で訴えた。
人は、高成績、高学歴、そしてよい生活を求めるが、それが精神的な幸せにつながるとは限らないように、便利さの中の不便さ、不自由さというのもあり、なかなかそれには、人は気づきにくいのかもしれない。
「不便さ=不自由さ」の中で見つけていく「幸せというカタチ」も有りなんじゃないだろうか? とふと、逆説的に考えてみた。それでもやっぱり、不自由さのなかの自由を、不便さの中の便利を求めてしまうのだろうか?
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