宗教との出会い ~ Missione Popolare | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

先日『宗教との出会い』というのを書いた。
http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-11375792985.html外部リンク

その後、知り合いで、日本にも20数年いらしたイタリア人の神父様が、FB上で、「日本のキリスト教信者にも参考になることでしょう」と紹介してくださっていた。

日本は、「信仰の自由」を盾に「宗教」は一切教えていない。せいぜいミッションスクールで宗教の教科があるだろうが、生徒・学生は試験点数のみにしか興味がないという。私はプロテスタントの学校だったので、義務ではなかったが、「礼拝」もあったし、「キリスト教概論」や「キリスト教倫理」を学んだ。

話は、基、上記神父様は、「哲学や宗教についていろいろ学ぶことが大切」だとおっしゃる。それによって自分の価値観や自分にとって大切なことを発見できるのだとも。それによって、自分の行き方、人生の意味などを作り上げる。大事なのはいつもさがし求めること。

考えてみれば、学生時代、御茶ノ水のアテネ・フランスで英会話を学んでいたが、クラスメートに、仏教のお坊さんとプロテスタントの女性の伝道師さんがいて、彼らとの接触は、私にとって大きな刺激であった。

ところで、10日ほど前から地域の教会に『Missione Popolare』というフランチェスコ会の修道士・女及び一般信者が30-40名近くきており、それぞれホーム・ステイしながら、ミサを始め、家庭集会、児童・生徒、思春期の若者、結婚を控えているグループ、また、別居者・離婚者との会談などなどを行ってきている。(明日が最終日)

毎朝、次男を学校に送った足で教会へ行くと、すでにミサは始まっているのだが、普段は年寄りが多いミサも、子供を送ってからくる若い世代も多く、ギターとタンバリン、ヴァイオリンと共に聖歌を歌い、素直に「今日も私をお使いください」と不思議に祈りたくなるのだ。

そして先週の日曜日には、たまたまミラノが交通規制でバス以外は走ってはいけないことになっていたので、教会の前で、道路も開放されイベントが行われた。ダンスに寸劇。宗教関係なく老若男女が集った。イスラム教徒の母子たちもかなり来ていた。

↓こちらは昨年違う場所で行われイベントだが、同じ曲を今回も踊った。
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=Qh0-lLZcz8I#!外部リンク

https://www.youtube.com/watch?v=58K9J4KtHWU&feature=fvwrel外部リンク

ところで、地元小学校には、修道士たちが来て聖フランチェスコの生涯を話し、中学には、やはり聖フランチェスコの生涯と、ある修道士の話があったという。話をきいて、「あっあの人だ!」とわかったのだが、一人腕に大きな刺青をしている修道士がいた。彼は若いころ、刺青はもちろん、鼻にピアスもしていたし、ドラッグも使用し、警察沙汰になったことも何度もあったという。それが、いかに回心をし、今に至っているか・・・というのは、「ああ無情」のジャンバルジャンではないが、やはり思春期の若者には、非常に興味ある話しであったのではないだろうか。

それなのに、その中学訪問があった夜(学校訪問に関してはあらかじめ保護者に連絡があったにもかかわらず)から保護者のメーリング・リストは、宗教論争の場となってしまい、メールを開くのもうんざり・・・というものになってしまった。

いいだしっぺはなんと私も良く知っている、普段から尊敬している人。ある意味同士だったと思っていただけにショックだった。フラーティ(修道士)に割く時間があるのなら、数学にもっと力をいれるべきだ・・・と。(もともとそのお子さんは、フラーティの集まりには参加せず教室に残り、自習だったそうだが、そのことに激怒していた)そして、モラルの問題だとも。しかし、ある朝、彼女の家にお茶しに行くと、起きられなかった子供がそのままTVの前にいて、学校を休ませていたのだ。そういう人が、そういう発言をするとは、何が無駄で、何が有益だというのだろうか?もし、宇宙飛行士や政治家、サッカー選手などがきても、同じことをいうのだろうか?問題はフラーティで はなく 、自習時間を企画した 学校側に問題があるのでは。それは、単なるカトリック批判としか思えず。

いろいろな意見の後に、今朝彼女は、再び罵倒した。その後、沈黙・・・きっと彼女の人間性を疑う人も多くなったのでは?とても賢い人が書く文章ではないと思った。非常に残念だ。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。(ヨハネ黙示録3:20)

今晩最終日イブとして、フラーティのテアトロがある。次男にどうする?と聞くと「行きたい!!」と目を輝かせていた!

「山に登る道はたくさんあるが、頂上は一つ」。
その頂上を知るためにも、皆宗教を知るのは、大切だと思うのだけれど、親がそれを阻止してしまうとはどういうことなのだろう。考えさせられる。

http://d.hatena.ne.jp/hiroshisj/20100310/1268176353外部リンク