教育を考える | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

信仰年開催、第1回目の日曜日。
ミラノのアンブロジアーノ典礼において、今日の福音はマタイ・13:24-43。『毒麦』、『からし種』と『パン種』の話であった。

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「天の国はパン種ににている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

良い種を撒く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪いものの子らである。毒麦を撒いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れるものは天使たちである。
    

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そして、今朝のミサは地元パロッキアに隣接している教会系の幼稚園と小学生、そして全世界の学生、学校関係者に対して祈るものであった。

学校や家庭は「子供を育たさせる (far crescere)」場所。
種があるだけでは、芽は出ず育たない。太陽と栄養、そして時間がかかるものだという話があった。そして、学校の先生や両親は「救世主」ではないということ。土地を耕し種を撒き、水をやり、草をとるところまではしても、花を見ること、収穫することは他人に任せるということなのだろう。

パン種のようにふくらむ・・・。

ところで、いつも馬鹿の一つ覚えのように子供にいうのは、教育、エドゥケーションというのは、ラテン語のEducereという言葉が語源。



educare (educere) という言葉は、"引っ張りあげる、持ち上げるが原義だという。他にも「育てる」「栄養を与える」「世話をする」などもある。

最近の学校教育というのは、果たして、本来一人ひとりの子供にあるものを引き出してあげているのだろうか?そして彼らに生きる自信を与えているのだろうか、と疑問に思うことが常にある。逆に詰め込みすぎ、または潰してはいないのだろうか?

内面的なものが引き出され、「自信」となったとき、人間は喜びと共に、静かに心の中で、パン種のようにじわじわと大きくふくらみ、やがておいしいパンとなり、周囲の人の心も体も満たす喜びをもたらすものではないのだろうか。

そういう意味では、親も学校にまかせきりにならず、学校の方針がどうであるか、見極める目も必要のようだ。