2週間ほど前に、在ミラノカトリック日本人会における四旬節の黙想会に参加した。
テーマは「マリアは世界のうめきを聞く」(カナの祝宴)であった。
これは、ミラノの大司教であり、枢機卿でおられたカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿が” Donne nel Vangelo” (福音書における女性)として女性の役割を探求し、復活の証人、積極的な弟子、そして深い信仰の持ち主としての彼女たちの中心的な役割を浮き彫りにし、どこかの修道会の黙想会で話された内容を元に、まとめられたもののようであった。それは決して聖職者にだけ向けられた内容ではなく、一般信者や一般の方にも話しかけられている内容であった。
ところで、カナの祝宴(婚宴)といえば、聖母マリアの信仰とイエス・キリストの公生活の始まりを示す重要なエピソードである。
マリアは結婚披露宴でワインが足りなくなったことにいち早く気づき、イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と伝える。この行動は、彼女が周囲の状況に細やかな目を配り、息子であるイエスが何らかの助けをしてくれるという深い信頼を持っていたことを示している。(ヨハネ2:1-12)
テキストでは、
① マリアは全体に目を向ける;
②マリアは他者の状況を自分のこととして深く感じる;
③マリアは恐れない
と言う3点を黙想の中で味わうよう言われていた。
マリアは婚宴の中で、直ぐにどんな重要なことが起きようとしているか、何か大切なものが不足していないかを察知する。これは、マリアの観想の精神であり、その総合能力であり、細かい物事に気を配る能力だ。男性よりも女性の方が一般的にそう言ったことは長けているかもしれないが、女性だからと言って皆そうとは限らない。
神に奉献されたものの恵みは、個々の任務においてあるけれども、共同体やグループ、教会や社会の状況に対し、愛をこめ、慎重に必要なものを提供するため、まさに全体を一瞥し、判断できる目を養う恵みと言ってもいいかもしれない。
「森林を忘れて一本の木だけをみている私は、観想的といえるでしょうか?」この言葉に自分を重ね、ショックを受けた。
マリアにあやかるためには、まずやはりみ言葉に耳を傾け、実行すると言うこと。その中でも個人的に、「すべてを心に納めて、思いめぐらす(ルカ2:19、51)」マリアの姿は、簡単そうでなかなか出来ることではなく、模範としたいと思うのであった。
ところで、カナの婚宴のたとえ話の中の、イエスの「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだきていません。」の部分は、いつも不思議に思うものがあった。母に対し少し冷たくはないか?
そして、召使いに「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください。」とは、マリアにしては、ちょっときつめの言葉ではないか?と。
しかし、それはお互いリスペクトしている部分なのではないか?という意見がでて、そういう見方もあるのか…と驚いた。
また、足りない、といわれた「ぶどう酒」は、飲むワイン自体がなくなってしまうこと自体は、重要ではないということ。人々は皆満腹で家に帰ることだろう。しかし、言い表し難い「何か」、が「ぶどう酒」だと言うのだ。
私に欠けているもの、それは、おそらくし小さなゆるし、小さな自己犠牲、あるいは抑えるべき小さい言葉などの、体、精神、心にかかわる規律に服する小さい歩みなのかもしれないが、それ以上のものをもたらす言い表しがたい何かを、マリアは私に発見させてくださるのだろう。
祈りと観想の時間。
ちなみに「黙想」と「観想」の大きな違いは、「思考・知性」を使うか、「受容「受容・味わい」に徹するか、なのだと言う。
余談だが、イタリア語の「知恵」は“Sapienza”であり、ラテン語の”sapere”「味わう」が語源だ。
(またまた余談だが、ローマ大学の別名はLa Sapienza. )
教会における観想的な存在であるマリアの核心に到達できるよう、祈り、観想したい。
この四旬節に、そしてこの世界の中で女性としてのあり方を考える貴重なひと時であった。
