これは、ミサの中で、毎回私達信徒によって宣言される言葉です。


『 あなたは、神の子キリスト。永遠の命の糧。

  あなたを置いて、誰の所に行きましょう。 』


あなたを置いて。。つまり、あなたの他に。。という意味なのですが、

これは、本当に深い、深い言葉だな。 と、よくよく思う今日この頃なのです。


カトリックやキリスト教の洗礼を受けた人でも、

その実、ニューエイジの霊的な事に手を染めていたり。。

その考えにどっぷり浸って、毎日を過ごしていたり。。

かと思えば、知ってか、知らずか。。黒魔術に由来するカードや、お守りを持っていたり。。

世界中に在る、土着の・・・その土地の神様や信仰のものを取り入れていたり。。

はたまた、良い行いを推奨し、他を受け入れない、ただのモラリストであったり。。

物質主義的な考えとその生活にばかり身をおいていたり。。


実際、本当に、

『 あなたを置いて、誰の所にゆきましょう。。 』 と、

言えている状態にある人は、果たして、どれだけいるだろうか。。

まずは。。誰よりも、弱い自分自身を思い、

人間の弱さ。。 を、しみじみと思いました。


だからこそ、神様と繋がる事のできる、祈りこそが大切だと。。

思うに至る訳ですが。。


どんな事にも、目標や、最終的な到達地点を、見据えて、

そこへ向かって努力をする。。

これは、とても大切な事だと、誰もが知る所だと思います。


しかし。。


それを。。 

・・・日本人の私たちは特に、

人生において、それを持って居るのか。 


甚だ疑問に思う事があります。


何をするにも、その目標がいかなるものか、最終目標がどのように設定されてあるのか。。

で、日常の様々な事が、その目標如何で、変わってくるとの同じように、


人生も、その到達地点をどのように捉えているのか。。

で、その人生が、大きく、大きく、変わってくるように思うのです。



      身体が死んでも、人間の魂は、亡くなりません。

      むしろ、生きているよりも長い時間を、その後過ごす事になります。

      そして、死後過ごす場所は、生きていた時如何で、良くも悪くもなります。


こうした事が頭に在れば。。

” 死んで終わり。 死んだら全てが無くなる。 ” という生き方は、

しなくなるのではないかな。。



そういえば、” 死んで楽になる ” という言葉も時折耳にするけれど、

 ・・・そんな風に自分から自分を殺してしまったら、実際は、その後、大変な事になる。 

地獄で、この世では起こらない、考えられないような苦しみを、

生きた時間よりも長い時間、過ごし続けなければならなくなる。。


・・・と、知っていれば、少なくとも、そんな考え方は、しないのではないか。。


とか、何とか。。。

いろいろな考えが頭に浮かびは消えてゆきました。



とにかく。。

   死後、・・・なかなか、弱さゆえに、思う様にはいかない自分だけれど、

   自分の魂が死後、なんとか。。神様に受け入れて頂ける様に、

   この一生を終えたい。


そのように、思えば。。


  その人の人生は、自分にとっても、周りにとっても

  一番良い形に編みあがってゆくのではないかな。。


と、思ったりもしました。




。。となると、私の場合、まだまだ、まだまだ、まだまだ、死ねません。。

このまま、自分の本当にすべき事をしないまま、死んでしまったら、 

怠りの罪が、がっぽりと私の目の前に積まれてしまい、

お前は、何をしていたんだ!! と、ただ怒られてしまうでしょう。。



はぁ。。

天国への道は、まだまだ遠い様です。






                  ✟ 神に感謝 ✟