昨日の続きのような事なのですが。。
祈りの力が、強まる。。信じる力が深まる。。
この為に大切なのは、
自分自身の体験の中に、神様からのものだと思えるもの。。こうした助けだったと思えるもの。
を受け流さず、自分できちんと把握すること。 だと思います。
時に、それは、悪魔や悪い物が関わっている事もあるかとは思うのですが、
しかし、その時点で、助けられているからこそ、今が在る。のですから。。
必ず、物事や一連の流れの内に、見いだす事は可能なのです。
なので、ここでは、悪にフォーカスするのではなく、
神様を見出す。ここにこそ、焦点をあてるのです。
実際、悪に流される事は簡単です。 しかし、そこで終らず、悪に惑わされず、
こうしてイエス様がおられた事。マリア様のお執り成しと守りがあった事。。
今思い返せば、そうだったのかな。。と思える事などが、浮き彫りにしてゆくことを是非してみて下さい。
こうした事を、液体に例えるならば、(?!)
悪魔の仕業である事は、誰にでも分かりやすく、強烈な印象を与えます。
色もインパクトも強い真っ黒でハッキリとしたもの。。
強すぎるアルコールの様なものです。
その一方、神様の事イエス様に関する事は、光。 もしくは、色も味もない、水。
こう例える事ができます。
透明で、味もない。 しかし、
この世に生きるもの全てに。。どこに対しても、良いものとして確実に働くのです。
( 強いアルコールとは、対照的です。 )
また、実際に、
・・・あまりにも自然なので、どれだけ不思議であったり、
振り返ってみると、人には言えない程に、普通にはありえない事であっても、
その実、何の違和感も感じない。
それが、神様のなさる業だと思います。
なので、改めて、自分の体験の内にある神様の業。。を、
自分の中で見いだし、改めて認識する。。。という作業は、
見いださなければ、そのまま過ぎてしまう。事も充分ありえる事なのです。
実際、少し良くなった時点で、即、現実的な問題ばかりに心の目をあててしまい、
まるで、全く何も無かったことの様に、そのまま通り過ぎる人も少なくありません。
しかし、自分で認識できた時。。
自分の中に、深い。。今までには感じた事が無い程に、深い感謝が生まれます。
神様やイエス様、マリア様への信頼は今までにない程に深まり、
その関係性がより近いものとなります。
祈りへの姿勢が、確実に変わります。
イエス様の人生や、聖書に在る内容が、より深い理解ができるようになります。
一度はっきりと認識できると、次にまた同じような喜ばしい事が起こった時。。
心の目がよりクリアになってゆき、“ 回心 ”の内容も、より良い物へと変わってゆきます。
自然と、自分で気付く事が多くなり、日常においても、視野が広まり。。
例え、忙しくスケジュールがタイトであっても、心の余裕を常に保ったまま、実のある行動をとる事が叶います。
。。。とまぁ、良い事には、きりがありません。
こうして、自分の体験から、神様との体験を導き出す事を、マザーテレサもこの様に、言い表しておられます。
ベナレスからの手紙より。
『 あなた達の中に、まだイエスと本当に出会っていない人がいるのではないかと心配です。
一対一で、あなたとイエスだけでということです。
あなた達は、イエスが愛を込めてあなた達を見ているのを、自分の魂の目で見た事がありますか?
あなた達は、本当に生きているイエスを知っていますか?
本によってではなく、心の中で、彼と共に留まる事によって。 』
以上のマザーの言葉は、全てこの事を、言っておられます。
故に、本当に、自分の体験から、導き出せているか否か。というのは、本当に大切な事なのです。
これが有るか無いかは。。
個人においての信仰の土台が強固なものと成り得るか否か、
神様との繋がりがその実、在るものなのか、無いものとなってしまうのか。。
という所にまで深く関わってくるのです。
故に、マザーは、“心配だ” と仰っておられたのだ。。と、思うのです。
これは、前回のブログでも言った通り、洗礼を受けてからの年月の長さや、
その信仰教育如何とは、何ら関わりの無い所において。ごく個人において。という事なのです。
なので、こうした話は、時に、不思議な話を人とする。という事も起こってきます。
そうした話をTPOも考えずに、誰とでも。。という事でしたら、完全におかしな事になってしまいますが、
その実、必ず必要なことなのです。
また、イタリアと違い、日本では、こうした信仰における不思議な話をする習慣が、
カトリックの人の中にも、教会の体質の中にも、とりあえず無い。というのが一般的なようです。
昔の信仰宣言(Credo)の中には、こんな文言がはっきりと入っていたのです。
Credo. visibilium omnium, et invisibilium.
私は信じます。 見えるもの、見えざるもの、全ての造り主を。
この、 見えるもの と、見えざるもの。。
見えざるものに対して、語られすぎるのも問題ですが、
しかし、全く語られる事がないのならば、
それこそ、もっと大きな歪に繋がってしまうのです。
大切なのは、やはり、この見えるものと、見えざるものの。。 バランスだと思います。
信仰においては、この見えざるものを、その人の内において、ハッキリと捉え、留めておく事。
これが、その人の生きる力、人生の大変な局面を乗り切る為の、大切な要素なのです。
なので、是非、あなたもこの作業をしてみてください。
必ず、自分の中において、良い変化を見いだす事になります。
日曜学校。。聖書勉強会。。分かち合い。。洗礼志願者の為の教育。。様々教会の中で、
活動されている方は沢山おられます。
しかし私は、
今日お話しした、この部分においてこそ活動し、人に話を提示し、導く。。そうした事を、
お祈りの会で行っています。
共に祈りましょう。
✝ 全ては御心のままに ✝
神に感謝
Sofia Michel YOKO

祈りの力が、強まる。。信じる力が深まる。。
この為に大切なのは、
自分自身の体験の中に、神様からのものだと思えるもの。。こうした助けだったと思えるもの。
を受け流さず、自分できちんと把握すること。 だと思います。
時に、それは、悪魔や悪い物が関わっている事もあるかとは思うのですが、
しかし、その時点で、助けられているからこそ、今が在る。のですから。。
必ず、物事や一連の流れの内に、見いだす事は可能なのです。
なので、ここでは、悪にフォーカスするのではなく、
神様を見出す。ここにこそ、焦点をあてるのです。
実際、悪に流される事は簡単です。 しかし、そこで終らず、悪に惑わされず、
こうしてイエス様がおられた事。マリア様のお執り成しと守りがあった事。。
今思い返せば、そうだったのかな。。と思える事などが、浮き彫りにしてゆくことを是非してみて下さい。
こうした事を、液体に例えるならば、(?!)
悪魔の仕業である事は、誰にでも分かりやすく、強烈な印象を与えます。
色もインパクトも強い真っ黒でハッキリとしたもの。。
強すぎるアルコールの様なものです。
その一方、神様の事イエス様に関する事は、光。 もしくは、色も味もない、水。
こう例える事ができます。
透明で、味もない。 しかし、
この世に生きるもの全てに。。どこに対しても、良いものとして確実に働くのです。
( 強いアルコールとは、対照的です。 )
また、実際に、
・・・あまりにも自然なので、どれだけ不思議であったり、
振り返ってみると、人には言えない程に、普通にはありえない事であっても、
その実、何の違和感も感じない。
それが、神様のなさる業だと思います。
なので、改めて、自分の体験の内にある神様の業。。を、
自分の中で見いだし、改めて認識する。。。という作業は、
見いださなければ、そのまま過ぎてしまう。事も充分ありえる事なのです。
実際、少し良くなった時点で、即、現実的な問題ばかりに心の目をあててしまい、
まるで、全く何も無かったことの様に、そのまま通り過ぎる人も少なくありません。
しかし、自分で認識できた時。。
自分の中に、深い。。今までには感じた事が無い程に、深い感謝が生まれます。
神様やイエス様、マリア様への信頼は今までにない程に深まり、
その関係性がより近いものとなります。
祈りへの姿勢が、確実に変わります。
イエス様の人生や、聖書に在る内容が、より深い理解ができるようになります。
一度はっきりと認識できると、次にまた同じような喜ばしい事が起こった時。。
心の目がよりクリアになってゆき、“ 回心 ”の内容も、より良い物へと変わってゆきます。
自然と、自分で気付く事が多くなり、日常においても、視野が広まり。。
例え、忙しくスケジュールがタイトであっても、心の余裕を常に保ったまま、実のある行動をとる事が叶います。
。。。とまぁ、良い事には、きりがありません。
こうして、自分の体験から、神様との体験を導き出す事を、マザーテレサもこの様に、言い表しておられます。
ベナレスからの手紙より。
『 あなた達の中に、まだイエスと本当に出会っていない人がいるのではないかと心配です。
一対一で、あなたとイエスだけでということです。
あなた達は、イエスが愛を込めてあなた達を見ているのを、自分の魂の目で見た事がありますか?
あなた達は、本当に生きているイエスを知っていますか?
本によってではなく、心の中で、彼と共に留まる事によって。 』
以上のマザーの言葉は、全てこの事を、言っておられます。
故に、本当に、自分の体験から、導き出せているか否か。というのは、本当に大切な事なのです。
これが有るか無いかは。。
個人においての信仰の土台が強固なものと成り得るか否か、
神様との繋がりがその実、在るものなのか、無いものとなってしまうのか。。
という所にまで深く関わってくるのです。
故に、マザーは、“心配だ” と仰っておられたのだ。。と、思うのです。
これは、前回のブログでも言った通り、洗礼を受けてからの年月の長さや、
その信仰教育如何とは、何ら関わりの無い所において。ごく個人において。という事なのです。
なので、こうした話は、時に、不思議な話を人とする。という事も起こってきます。
そうした話をTPOも考えずに、誰とでも。。という事でしたら、完全におかしな事になってしまいますが、
その実、必ず必要なことなのです。
また、イタリアと違い、日本では、こうした信仰における不思議な話をする習慣が、
カトリックの人の中にも、教会の体質の中にも、とりあえず無い。というのが一般的なようです。
昔の信仰宣言(Credo)の中には、こんな文言がはっきりと入っていたのです。
Credo. visibilium omnium, et invisibilium.
私は信じます。 見えるもの、見えざるもの、全ての造り主を。
この、 見えるもの と、見えざるもの。。
見えざるものに対して、語られすぎるのも問題ですが、
しかし、全く語られる事がないのならば、
それこそ、もっと大きな歪に繋がってしまうのです。
大切なのは、やはり、この見えるものと、見えざるものの。。 バランスだと思います。
信仰においては、この見えざるものを、その人の内において、ハッキリと捉え、留めておく事。
これが、その人の生きる力、人生の大変な局面を乗り切る為の、大切な要素なのです。
なので、是非、あなたもこの作業をしてみてください。
必ず、自分の中において、良い変化を見いだす事になります。
日曜学校。。聖書勉強会。。分かち合い。。洗礼志願者の為の教育。。様々教会の中で、
活動されている方は沢山おられます。
しかし私は、
今日お話しした、この部分においてこそ活動し、人に話を提示し、導く。。そうした事を、
お祈りの会で行っています。
共に祈りましょう。
✝ 全ては御心のままに ✝
神に感謝
Sofia Michel YOKO
