入院前にこんな事が | イクダンの花道

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子供は勝手に育つんじゃない!育てるんだ!!という信念を持つ、3人の子持ち。イクダンとして、子育て奮闘する、涙と笑いの育児ブログ。

今回のブログはかなり長く、殴り書きような感じだし、ちょっとブルーになる内容かも知れません。
なので、時間が無い方、途中で読みたくなくなった方はスルーして下さいネ♪
 


10月に入って、今月は兄ちゃんの誕生日だなぁと思ってました。

8月の妹の誕生日に、博多座の舞台のチケットをプレゼントしました。10月10日のチケットです。
 
いつも世話になってる、お母さんとおばさんと3人にプレゼントしました。
 
妹達は佐賀の実家に住んでいて、博多座がよく分からないと言うので、案内も兼ねて自分も後でチケットを取りました。
 
月日が流れて、10月9日の夕方、妹に連絡しました。 
「明日、博多座だけど、何時頃に福岡に着きそう?」 
妹は、「お母さん達が稲刈りで来れなくなったから、知り合いを二人連れて来る。」
 
せっかくのプレゼントだったのに、でもチケットが無駄にならなくて良かったかな。
と思ってました。
 
そのまま夜の仕事が終わって、明け方4時前に帰ろうとしたら、メールが入ってて、しかも着信アリ。
 
夜中の電話で良いことは一つも無い。 
 
メールを見ると、妹から
兄ちゃんが救急車で運ばれた、危ないみたい。
 
メールを見た時の気持ちは、
えっ!?もう‥ 。
みたいな気持ちでした。
 
家に着いて妹に電話しても、バタバタして電話に出れない様子。 
 
しばらくして電話がかかって来て、
「ちょっともう分からない状態やけん、兄ちゃん(自分のこと)も色々準備しとって。」
 
とりあえず素早くシャワーを浴びて待機していました。 
 
待ってる間、色々と兄ちゃんの事を考えてたら、どんどん涙が出て来ました。
 
また妹から電話があり、
「今、集中治療室。手術とか出来る状態じゃないって。もう、一・二時間かも…て。」
 
「分かった、とりあえず病院に行くから。」
 
そうこうしてたら奥さんが起きて来たので、涙ながらに状況を説明して、ゆっぴーと3人だけで帰る事にしました。
 
高速を下りて病院に向かう途中に妹からメールが来て、
「今、どの辺?」
それを見た時、もうダメなのかな‥ と思いました。 
何とか病院に着き、集中治療室の階に行くと親戚もいっぱい来てました。
 
集中治療室に案内されて、兄ちゃんの姿を見ました。 
目はガーゼをされ、口に呼吸器を入れ、もう意識は無く、キツそうに見えました。 
 
ゆっぴーを抱っこしたまま号泣してしまいました。
 
ゆっぴーはまだよく分からないので、
「お父さん、なに泣いてるとよ。」
と、笑いながら言ってきました。 
 
集中治療室の兄ちゃんの所にはずっといれないので、外の待機部屋で待機する事になりました。 
 
そこで兄ちゃんが倒れた時の状況を聞きました。
 
佐賀の実家には、お母さんと兄ちゃんと妹の3人で住んでいます。

夜の11時頃に兄ちゃんが仕事から帰って、お母さんと妹にコンビニで買って来た物をあげて
「これが美味しいらしいよ。」
とか会話をしてたみたいです。 
 
兄ちゃんはよくお母さん達にプリンとかシュークリームとか饅頭とかアイスを買って来てました。 
 
そんないつもと変わらない日の夜2時頃に、二階の兄ちゃんの部屋から、ドスーン!、ドスーン!と音がしたみたいです。 
 
下で寝ていたお母さんが、何かこけて倒れたにしては変な感じの音だなぁと思い、兄ちゃんの部屋へ行ってみたら、部屋の入口付近で兄ちゃんが吐いて倒れていたそうです。
 
倒れている状態が危ない感じと思い、すぐ救急車を呼んで、危険な状況の兄ちゃんを二階から下ろすのに、レスキューも来て、辺りは騒然となったようです。
 
病院に運ばれて、先生の話しを聞くと、
くも膜下出血。
危険レベルは、5段階の5。
一番大きい脳の血管が破れて、手術も出来ない。
頭の中は血で圧迫されているので、メスを入れようものなら、中が飛び出てきてしまう。 
 
北斗の拳の、あべし!ひでぶ!状態ですね。
 
すでに脳死状態という事で、先生にすぐドナーの話しをされたそうです。
 
家族にしてみたら、
まだ生きてるのに、何を言ってるんだ!! 
みたいな気持ちがありますけど、今は聞くようになってるんでしょうね。
医学も進み、色んな臓器提供があれば助かる人もいるし、それを祈るように待ってる家族もいますからね。 
でも、うちの兄ちゃんは、若くして亡くなったり、病気になったりした人は、
そういう運命だったんじゃないのかな?と言ってたし、ドナー登録もしてないから
「もしもの時は、このままの体でお願いします。」
と家族で言いました。
先生は、 
「分かりました、ではもう最後に心臓マッサージ等もしませんから。」
と言われました。 
 
その後も色んな先生が兄ちゃんを見に来て
「若いのになぁ‥」と言っていました。
兄ちゃんは44歳で、タバコを吸わない、酒も付き合い程度、病気もしてない。
病院にしてみれば、最高のドナーなんでしょうね。
 
とりあえず兄ちゃんの体はまだ死んでないので、呼吸器等で生かされる状態になりました。 
 
兄ちゃんは部屋で二回吐いてたそうです。たぶん気分が悪くなり吐いて倒れ、一階に吐き行こうとして部屋の入口付近で吐いて倒れたんじゃないのかなぁと思います。
 
自分は親戚が駆けつけて来る度に集中治療室に案内して、毎回兄ちゃんの姿を見て涙を流しました。
 
兄ちゃんが目にガーゼをしてるのは、頭の中が血で圧迫されていて、目が出かけているから目が乾かないようにという理由。
目が開きっぱなしは見る方も辛いですから。
 
みんなと色々話しをして、とりあえず福岡に戻る事にしました。 
 
今日は博多座の舞台を観劇する予定だったのに‥
チケットが無駄になったどころの騒ぎじゃなくなったな‥
なんて思いました。
 
兄ちゃんの体がいつまで頑張れるか分からないので、奥さんや子供達には、とりあえず普通に仕事・学校に行かせました。 
 
病院から、何かあった時の為に誰か居て下さいと言われてるので、お母さんと妹が病院で寝泊まりするようになりました。 
 
それでは疲労も心労もあるし、体がもたないと思い、交代で寝泊まりしようと、自分もひとり病院に行きました。ちょうど仕事が連休だったし、兄ちゃんの近くにいたかったからです。
 
毎日親戚が弁当を作って来たり、食べ物・飲み物を買って来てくれました。
でも兄ちゃんが倒れてから二・三日は、ほとんど飲まず食わずでした。 
 
寝泊まりを交代しようと思っても、お母さんと妹は帰る気になれないと言うので、三人で寝泊まりしました。 
 
自分は夜も寝れなくて、集中治療室の前で、兄ちゃん!兄ちゃん!と心の中で呼んで泣いていました。
 
自分の事よりも心配なのは妹でした。誰かが面会に来れば案内をして泣いていました。
妹よりもっと心配なのは、お母さんです。
お母さんはバカな息子が骨折して入院したりして少しは心配したでしょう、そして、8月に祖母が亡くなりました、お母さんのお母さんです。96歳の大往生でしたけど、今度は自分の息子が‥となって辛過ぎるだろうと思いました。
お母さんも面会の度に兄ちゃんの姿を見て涙を拭ってましたけど、後からは兄ちゃんの所へ行かなくなりました。
姿を見るのが辛かったんでしょうね、妹が兄ちゃんの心拍数とか血圧とかの数字をずっと書いていたので、状況だけを聞くようになっていました。
 
自分は13年前にお父さんを亡くしました。急性心不全だったと思います。
その時も夜中普通に寝ていたお父さんが、「ううっ!」と言って、異変に気付いたお母さんが「どうしたと?」と聞いたけど何も言わず病院に運ばれてそのままでした。
その時自分は29歳で兄ちゃんは31歳でした。
自分は小さい子供のように、ずっとずっーと泣いていました。その時兄ちゃんも悲しいはずだけど、あまり泣かずに自分の頭をなでてくれたり、「もう泣くな。」と言いました。
兄ちゃんはその時、お父さんが亡くなって、自分が実家・本家を守らないといけないと思ったかも知れません。
それを考えた時、男の自分が今しっかりしないと!と思うようになりました。
それから兄ちゃんの姿を見て辛くても悲しくても泣かないようになりました。
 
兄ちゃんは目のガーゼを取られて、テープで目を閉じていました。床擦れしないように少し体の向きを変えられてる姿は、口にこそ呼吸器等してるけど、普通に寝ているようで、起きても不思議に思えない姿でした。 
兄ちゃんの血圧等の数字は少しずつ下がって来ました。尿も二日目から出てないので、毒素が体に蓄積すると体にも影響する。尿が出ないという事は脳から指令がいってない事、やっぱり脳は死んでるんだと思いました。
 
お母さん達が心配だけど、毎日大勢の親戚が来てくれる。本当にありがたいと思いました。
もう自分は覚悟は出来ているし、やらないといけない事もあるし、また福岡に戻る事にしました。 
兄ちゃんもこの状況が自分と逆だったら、ずっといても仕方がないと言って、お母さん達に任せて仕事に行ったでしょう。
 
福岡に戻って兄ちゃんの状態を聞きました、やはり少しずつ数字は下がってきています。
覚悟は出来ていても、やっぱりずっと近くにいたかったし、最後という瞬間は一緒にいたいという思いはありました。
 
兄ちゃんの体はどこまで頑張れるんだろう?出来れば奇跡が起こってほしい!
何か30日後に脳が復活した例もあるとか聞いたけど、兄ちゃんの状態はレベルが違い過ぎるんだろうな。と多少はあった奇跡への思いも薄れていきました。
 
そういえば今月末は骨折した時の金具を取る手術があったな、二週間前に検査に行かないといけなかったような‥、でも今はそれどころじゃないし、手術・入院も延期になりそうだな。
そう思っていました。
 
15日(火)の朝、兄ちゃんの脈がとれない。と、妹から連絡がありました。これが三回目とかで、何か少し胸の鼓動が大きくなりました。 
 
そして 
 
お昼前、11時20分に兄ちゃんは天国にいきました。
 
先生が「もう脈も取れないので、これで‥。」という感じだったそうです。
 
妹も泣いてたけど自分よりしっかりして今後の事とかを説明してくれました。
自分もやっぱり泣いてしまい「兄ちゃんともう少し遊びたかった。」とか言ったような気がします。
そして、最後一緒にいなかった事を少し後悔しました。 
 
それから帰り支度をして、とりあえず自分だけ家族より早く帰りました。
亡くなった当日は仮通夜で、兄ちゃんは実家で寝てました。
その夜は兄ちゃんの横で一夜を過ごしました。
 
16日(水)のお通夜を斎場でする事にしました、実家でしようとしてましたが、兄ちゃんは大きな会社のグループ会社で、まだ現役だし、かなりの人が来ますとアドバイスされたからです。 
確かにお通夜は、車は駐車場に入れなくて、臨時駐車場も出てました。弔問も、300人位の数でした。
そんな大勢の前で遺族代表の挨拶をしました。とりあえず文章を読めばいいのですが、少し自分の気持ちも入れて、アレンジして挨拶しました。
 
そういう挨拶をしなきゃいけない立場になると、俺もそんな年齢になったんだなぁと思いました。
 
次の日の葬儀は叔父さんが挨拶をしてくれました。葬儀の日も大勢の人が来てくれました。
本当にありがたいというか、嬉しかったです。 
棺桶に花とか入れる時、スポーツ新聞・パチンコ雑誌・カー雑誌・プリン・シュークリーム等を入れました。そしてゆっぴーを抱っこしたままボロボロに泣いて、兄ちゃんの顔とか髪をずっと触っていました、兄ちゃんに触れられる最後だからです。 
 
火葬場に行く時の挨拶も自分がしました。火葬場では少し元気を出そうと、「プリン入れたけど、焼きプリンになるかな?」なんて冗談を言いました。
 
火葬場の後はお寺に行き、色々済ませて夜に福岡に戻り、病院で検査して、また初七日で帰り、そして何とか無事に手術・入院ができました。 
 
こういう事があって、ちょっとバタバタした入院前でした。