もうあれから1ヶ月くらいが経った。時刻は17時くらいだったように記憶している。

水平線の向こう側に帰る気のない夏の太陽は、街に夕暮れの気配を感じさせない。

暑い。まだまだ暑い。

僕はコンビニでアイスコーヒーを買う。焼石に水がごとく、火照った体にアイスコーヒー。気持ちばかりの「涼」を感じながら、会社に戻るべく歩き始める。陽炎に揺れている街並みの中で歩を進める僕のことを赤信号が止めた、そんな時だった。

「だから見えたんだもん!」

「見えるわけない!」

声変わりまで10年以上もかかりそうな甲高い声が、蝉たちの大合唱の隙間を縫って耳に届く。

「こんなに明るいのに見えるわけないじゃん。」

「そんなことないよ、見えることあるんだよ、知らないの?」

どうやら少年たちは喧嘩をしているらしい。小学校2年生か3年生くらい。塾にでも行っていたのかもしれないけれど、喧嘩なんてしていないで早く帰りなさい、と僕は思う。
 

「見えたの!絶対に!」

何かが見えたと主張する少年は、真っ黒なTシャツを着ている。なんでこんなに暑いのに、日光を自らに集中させようとするのか、と思うが、そんな心配をよそに全力で何かが見えたと主張している。
 

「見えるわけない!」

見えなかったと主張する少年は、猫と熊が笑顔で戯れあう、動物界の摂理が一切無視されたイラストが描かれたTシャツを着ている。


「たまたま上を見た時に流れたの!こっちから、あっちへ。」

黒いシャツの少年が、こっち、から、あっち、を指を使って大袈裟に説明をする。

「こんなに明るいんだから流れ星なんて見えるわけないじゃん!」とイラストTシャツの少年は反論をする。

そうか、そうか。この少年たちは流れ星が見えたか見えないで喧嘩をしているのだね。

顧客からのクレーム、会社の売上、腰の痛みに胃のムカつき。おじさんの、おじさんによる、おじさんのための悩みがたくさんあるなか、まだまだ明るい17時の段階で流れ星が見えたのか見えなかったのかなんて、正直どうでもいい話。

しかし、少年たちは、それはそれは真剣に話し合う。

「見えたの!!」

「見えない!!」

空を見上げれば目を細めなくてはいけないほど明るい時間に、流れ星なんて確かに見えない気がするとは思ったが、やっぱりどっちでもいい。

「証拠はあるの?」とイラストTシャツの少年が聞く。また、意地の悪い質問をするものだ、と僕は思う。

「あるよ。」と黒いシャツの少年は自信満々に言う。証拠なんてあるわけないだろ、そんなことを言ってしまって大丈夫なのかい?と僕は思う。

「見せてみなよ。」

「こっちから、ヒューって。ほら。」黒いシャツの少年が空を指差しながら、自信満々に言った。何が、ほら、なんだい?と僕は思ったが「何が、ほらなんだよ。」とイラストTシャツの少年が言った。

そこで信号は青に変わる。なんとなく、無邪気のぶつかり合いの決着を見届けたくて後ろ髪を引かれている気もするが、おじさんにはおじさんの日常がある。すると少年たちも歩き始めた。もちろん、白熱した議論は継続しながら。

「じゃあ、願い事したの?」そう聞いたのはイラストTシャツの少年。

「願い事?」

「そうだよ、願い事。流れ星見えているのに願い事しないわけないじゃん。」

しないわけないことはない気もしたが、黒いシャツの少年は「もちろんさ。」と胸を張る。

「どんな願い事?」

「えっとね。流れ星が見えたって信じてもらえるように。」

「どういうこと?」
「流れ星が見えたってお前に信じてもらえますようにって。」

「ぜってー嘘じゃん。」

 

なんとも微笑ましい。株価上昇や腰痛改善ではなく、なんとも微笑ましい願いだが、僕も思った。ぜってー嘘じゃん、と。正しい日本語を使うことが求められる仕事をしていたこともあるが、絶対じゃない、ぜってー嘘だ。

 

「嘘じゃない。」

「嘘だよ。」

「嘘じゃないもん。」

「嘘だよ。流れ星見えた瞬間にそんなこと願うわけないじゃん。」

「願うよ。願ったんだもん。こんなに明るいのに流れ星が見えたことは特別だから、信じてもらえますように、って。」泣いている。うるうるしている。

「は?そんなことを流れ星にお願いするわけないじゃん。」確かに、するわけないような気もするし、別に流れ星へのお願いなんて人それぞれだよな、とも思う。

だけど、黒いシャツの少年の目には、みるみるうちに涙がたまる。

「うるさい!」黒いシャツの少年が、いよいよイラストTシャツの少年に掴みかかる。笑っていたはずのTシャツの熊がいびつに歪む。

「何するんだよ!」とイラストTシャツの少年も黒いシャツをひねり上げる。

おいおい、と思う。

イラストTシャツの少年が黒いシャツの少年の頭を叩いた。

「何するんだよ!」と甲高い声を響かせて黒いシャツの少年も反撃に出る。

おいおい、と再び思う。

無秩序なパンチの応酬。規則性から距離を置いた打撃が飛び交う。

信号を渡り切った少年たちは、絵に描いたような喧嘩をしている。

 

僕は一つだけ、小さく、そっと、ため息をつく。まったく、しょうがないな、の時に吐き出すやつ。

「君たち、少し落ち着いて話さないかい?」

僕は少年たちの間に体を割り込ませながら、そう告げた。

無邪気たちの打撃戦は小休止。急に自分達の日常に現れたくたびれた顔のおじさんを注視する。

「だめだよ、喧嘩は良くない。いや、喧嘩はいいのかもしれないけど、掴んだり叩いたりしたら良くない。」34年で培った、至極一般的な道徳を土台に僕は話す。

「だって、こっちが嘘ついたんです。」イラストTシャツの少年が言う。

「嘘ついてない。」黒いシャツの少年は反論する。

2人ともこちらを見る。まだうっすらと涙が溜まった4つの瞳がこちらを見る。さぁ、大人はどうするんだい、こういう時?と磨かれたばかりの宝石みたいな瞳が告げる。

「別にどっちかって決めなくて良いんじゃないかな?君は見えたんだろ?君は見えるわけないなって思ったんだろ?だったらそれはそれで良いと思う。どっちも正解なんだよ。」

僕は、胸ぐらの掴み合いの末に皺になった2人のTシャツを順番に伸ばしてみる。

「見えたもん。」まだ言うか、と僕は思う。

「見えるわけないから、こんなに明るいのに。」そりゃ言い返すよな、と僕は納得する。

「だから、どっちでも良いじゃない。見えたなら見えた。見えないなら見えない。」おじさんである僕は言う。

 

「じゃあお兄さんはどっちだと思うんですか?こんな時間に見えると思いますか、流れ星。」イラストTシャツの少年が僕に尋ねる。さぁ、お前はどう出る?と無邪気なドヤ顔が告げる。僕は困り果てたことを2人に伝えるための小さなため息を吐き出す。

「僕は、そうだな。見えるかもしれないし、見えないかもしれない。」なんでもかんでも白黒つけなくても良いのだと僕は思う。それが大人を上手に演じるコツだとも思う。だから僕は結論を回避し、僕なりに全員が幸せになる答えを出した。

 

「大人ってそうやって逃げる。」黒いシャツの少年がぼそっとつぶやく。おいおい、お前がそう出るのか、と僕は驚く。

「そうだよ、大人はそうやって逃げる。」イラストTシャツの少年も、黒いシャツの少年に加担する。おいおい、お前たち、なんなんだよ寄ってたかって、と僕は落ち込む。

「じゃあ、現実的な話をするよ。」おじさんである僕は少年たちに目線を合わせて語り出す。「見えたことは誰にも証明できない。でも、見えなかったことも誰も証明できない。そうだよね?」二つの小さな頭が控えめに頷いたので、おじさんである僕は続ける。「だったら、お互いの言い分のどっちが正しかったなんて誰にも証明ができない。であればお互いの言い分が両方正しかったということにすればいいんじゃないかな。」

 

「でも、星は明るい時間は、寝ているんじゃないんですか?」急遽、圧倒的に純粋な疑問が黒いシャツの少年から発せられる。

だけど、え、なんで君が見えない側の弁護に回ったの?と、こちらは純粋に驚いてしまう。

 

「いや違うよ、星は常に光ってるんだよ。」と言ったのはまさかのイラストTシャツの少年だった。言った後、控えめに胸を張る。

おじさんである僕は、もはや何をすればいいのか分からなくなる。知らぬ間に入れ替わった、攻撃と防御。純粋な2人の喧嘩を止めようと思って参入したはずの僕は、まさか2人を敵に回した。

 

「じゃあ、見えたかもしれないよね?」まさに純粋に、僕はイラストTシャツの少年に聞いてしまった。ならそれで良くない?みたいな感じで。

 

「いや、光っているのは光っていますけど、周りが明るかったら見えないので、流れ星は見えません。」君の将来が偏屈な大人にならないか心配だよ、と僕は顔に出して伝えたけど、彼にはきっと伝わらない。

「それは確かに、うん。そうだね。」

「でも常に光っているなら見える可能性だってあるじゃん。」黒いシャツの少年が忘れていたかのように議論に参加する。おいおい、さっきまで星は寝ているみたいな可愛いこと言っていたじゃないか、と僕はだいぶ疲れてくる。

「分かった、もう終わり。」唯一の大人である僕は、この論争を止める宣言をする。

 

「誰にも分からないことの決着なんてつくはずがない。だから終わり。だけど、お互いがお互いの言葉に自信を持てばいい。」

「自信?」と聞いたのは黒いシャツの少年。

「そうだよ、自信。見えたことに対して自信を持てばいい。そして、君はそれを友人に信じてもらえますように、と願った。これはとても素敵なことだよ。流れ星ってとても素敵なものだから、たとえ自分ではなくても、誰かが見えたって聞いただけで幸せになれる。そんな気持ちに彼のことをしてあげたかったんだよね?」

「う、うん。」先ほどに続いてぜってー違うと思うが、論争を終わらせたい大人の僕は、ここで話を止めないことにした。

「そして君も、星は常に光っているけど周りが明るければ見えるはずがないというのはとても科学的な話で、その考え方も素晴らしい。世の中の大部分のことは科学的に解明ができるんだよ、というメッセージを込めて話したんだよね?」

「う、うん。」こちらもぜってー違うと思うが、彼の無邪気は大人の圧力に染められた。

「2人とも、それぞれとても素晴らしいじゃないか。それでいい。2人とも間違えてなんかいない。これっぽっちもだ。ちっとも。納得できた人は手をあげて?」

一切の汚れのないアイコンタクトが目の前で行われる。そして、控えめに挙げられた、まだまだ細い2本の手が夕刻の太陽に照らされる。

「はい、解決。これにて喧嘩は終了。お互いにありがとう、だね。君は、この少年に流れ星を感じて幸せな気分になってほしかった。君は、この少年に科学を感じてほしかった。2人は、2人ともを、とても幸せな気分にさせた。さぁお互いに言ってごらん、ありがとうって。」

再びのアイコンタクトの末に、少しだけ下を向いて、とっても恥ずかしそうに、少しだけ大きな声で。

「ありがとう。」

「ありがとう。」

二つの控えめな感謝の言霊が、陽炎の隙間に消えていく。

流れ星が見えたら、この少年たちを抱きしめさせてくれないか、と願いたくなるくらい可愛かったが、僕は大人なのでやめておく。

「気をつけて帰るんだよ。寄り道しないで、まっすぐに。」

2人とも、コクっと頷いて、さっきまで泣きながら喧嘩をしていたことが嘘のように仲良く帰っていく。

 

去り際に「次はぜってー俺も見る。」と言ったのはイラストTシャツの少年。

おじさんである僕は、可愛い2人の背中を見送りながら、ふと思う。

やっぱり流れ星って人の願いを叶えてくれるんだな。次はぜってー俺も見る、ってことは、なんだよイラストTシャツの少年はすっかり信じているじゃないか、明るい空に星が流れたことを。それはまさに、黒いシャツの少年が流れ星に願った通りに。

ぜってー嘘じゃなかったのかもしれないな、と思いながら、子供の無邪気な意見を信じることができなくなっている自分に反省をして、僕は僕の日常に復帰する。

 

そんな時に、まだまだ明るい青空に流れ星が流れた気がした。

僕は慌てて願いを込める。

いつか2人の見上げる夜空に、綺麗な流れ星が流れますように。