朝から結構忙しかった。会議に電話対応、また会議。

慌てて作った資料を抱えてアポイントに向かい取引先を出た時には、腕の時計が14時を知らせている。

会社に戻ってからのあれやこれやを頭の中で整理しながら歩き出す僕を、昼時が終わっても営業を続けていることを知らせる、インドカレーのお店から漂うスパイスの香りが誘った。

忘れていた空腹が、僕の思考の中心に鎮座する。

こんな場所にインドカレー屋があったことすら知らなかった。

それでももう、僕の思考はカレーに支配をされることを抗わない。

「本日の日替わりカレー 980円 ナン・ライスおかわり自由」

よし、これだ、今日はこれに決めよう。

 

ガラス張りの、少し立て付けの悪い扉を押し開けると、扉に取り付けられた鈴が僕の入店を告げる。

「イッシャイマセー」

木の質感に包まれた店内には、インドの方か、はたまた違う国の方かは分からないが、明らかに日本人ではない店員さんが2人いた。

20歳くらいの若い男性と、50歳くらいの男性。なかなか外国の方の年齢は分かりずらいところがあるので定かではないけれど、多分そんな感じだ。

昼のピークを過ぎて落ち着いている時間なのだろう。店内にお客さんはいないようだ。店の中に入ると、より一層スパイスの香りが充満し、空腹が加速する。

 

そして、若い男性が50歳くらいの男性に背中を押されて、お前が対応するようにと言われている。

若い男性が僕の元に歩いてきて、笑顔で言った。

「イッシャイマセ、マンメイサマデスカ?」

仮に、ラインのお友達全員出しても100人ちょっとだ。1万名なんて程遠いい。それに今の僕は1人。

ナンメイの発音は難しいのだろうかと思いながら「1人です。」と僕は答えた。

 

「イッシャイマセ、こちらのターブルセーどうぞ。」

 

ターブルセーがテーブル席だと気づくまで少しだけ時間がかかったが、自信満々の若人に笑顔で対応をされると、僕はそれに従い、テーブル席に腰掛ける。

 

「ただいま、水とヌーお持ちします」

 

そう言って若人は厨房の方に戻る。

サバンナのドキュメンタリー映像で、ライオンに食べられる役としてお馴染み、ヌーを連れて帰ってきたらどうしようかとハラハラしながら待つと、お水とメニューを持って彼は帰ってきた。

要するに彼は新人さんらしい。言葉を発する前に一度頭の中で復習をして、それから口に出す姿がなんとも可愛く、心底応援したくなった。

 

 

「こちらヌーです。何にするマスク?」

 

 

応援はしたくなったが、理解ができるかはまた別の話で、僕はヌーを見て、これは何にするマスクか考えなくてはいけない。

入店前にはまさかこんな難問に立ち会うとは思ってもいなかった。

そもそもマスクなのか?いや、ヌーだ。いや違う、メニューだ。

 

考える。

 

そうか「こちらがメニューです。何になさいますか?」か!

 

これはなかなかの難問が続くのかもしれない。

それに何より、僕にはメニューを見て考える時間が欲しいのだけれども、若人はキラキラとした目でこちらを見つめている。

それに、外の看板に書いてあった日替わりにすると決めて入ったじゃないか。

こういうタイプの店で、まず日替わりを頼んでおけば間違いない。

そう思い僕は彼に聞いた。「今日の日替わりは何ですか?」

 

 

すると若人は、今年見た一番分かりやすい「お前何言ってんだ?」の顔をしている。

 

 

そこまで難易度の高い質問だろうか?

いや、それ聞かれて答えられないなら、メニューに書いておけばいいのに。

もう一度ゆっくり声に出す。

 

「今日の、日替わりは、なんですか?」

 

すると、若人は「A H!」と言った。

「ナンですね。はい、ナンあります。カワリもダイジョブ。」

「ノー、違う。そのナンじゃない。何。What。何の方。」

「ライス?」

「そうね、そうね。ナンじゃなかったらライスね。でも違うの。

What's today's special?」

僕が英語で質問をすると、若人はまた嬉しそうな顔になって「O H!」と言った後にこう続けた。

 

 

「今日は豆とビーンです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

豆isビーン

 

 

 

ラーメン屋さんであるネギダブルみたいなものなのか。

そうなような気もするが、そうじゃない気の方がする。

 

僕は諦めることにして「チキンカレー、ライスで。」と彼に告げる。

すると彼は少し申し訳なさそうな顔をした。もしかして冷たい感じになってしまったか。

そんなことはない、気を落とさないでほしい。

 

彼は僕に告げる。

「Don`t like bean?」(お前豆嫌いなん?)

「NoNo.but today`s feel」(ちゃうで、ちゃうで!今日の気分やねん!)
「oh,OK!」

そう言うと彼は厨房の方に消えていった。
 

因みに、ヌーの一番上に書いてあったチキンカレーは、それはそれはとても美味しかった。

程よいスパイスの辛さと、柔らかく煮込まれた鶏肉。鼻から抜けるカレーの風味が心地よさを倍増させる。大満足。

僕は食事を終えると、お会計に立ち上がった。

残念なのか、少し嬉しいのか分からないが、お会計も若人が行うみたいだ。

 

「980円にございます。」

 

980円さんが将軍様に御目通り願い出るみたいな言い方になっているが、要するにお会計が980円なのだ。

本当はペイペイで払いたかったけれど、これでまた彼を混乱させてしまうのは得策ではない。僕は財布から1000円札を抜いて彼に渡した。

「20円のお返しにございます。」

20円を癖強めに紹介されたが、要するにお釣りが20円なのだ。

僕は彼から20円を受け取って「ご馳走様。」と言うと、彼も素敵な笑顔で「ゴチソウサマ」と返してくれた。

 

 

僕の時が止まったことを悟ったのか、彼は不思議そうな顔をする。

俺、何か変なこと言ったか?の顔をしている。

もういい、悩むな。

何かをご馳走した気はなかったが、何かを彼はご馳走になったのかもしれない。

 

少し立て付けの悪い扉を開けると、僕の退店を告げる鈴の音が響く。

面白かった。そして美味しかった。

しかし、どうしても今日の日替わりの正体が気になる。

すると、なんてことはない。

よく見れば看板の下に小さく書いてあるじゃないか。

 

 

 

 

本日の日替わり

「豆とチキンのカレー」

 

 

 

 

 

そうか、そうか。

同じ値段なのに、なんで豆を抜くんだい?と彼は思ったのか。

いいやつだったんだな。

どうせだったら僕が食べなかった豆は、君が食べればいいさ。
その時に改めてご馳走様と聞かせておくれ。

 

 

僕は会社に歩き出す。

確実に満たされたお腹と、何となく暖かくなった心を武器に、今日も一日走り切れそうだ。