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M市民ホールでは簡単な手続きを済ませる。本当だったら、ずっとそばに寄り添っていてあげたかったけれど、この状況ではそんなことは許されなかった。火葬場だって機能をしていない状況で、今後、遺体をどのように処理していくかは行政の指示を待つしかないとのことだった。

おいちゃんとコウタ君はホールから一番近い避難所を教えてもらい、その場所に向かう。今朝までいた体育館に帰らなくても、ミカコさんと入れ違いになる心配をしなくて済んだことが、余計に喪失感を増大させる。しかし、2人とも今の状況でまたあの道を引き返す体力はなかった。

M市民ホールから、それでも歩いて40分ほどの体育館に到着すると、まだいくらかスペースに空きがあり、そこに入らせてもらう。毛布も1人について2枚もらい、床に敷く段ボールもある。おにぎりも1人2つ、水も500mlのペットボトルが支給された。これだけの喪失感を抱えながら、空腹と喉の渇きを感じる自分に腹が立つ。今この瞬間も、ミカコさんはあの冷たい床の上で、何もかけてもらえずにただその場所に存在をしている。先ほど見たミカコさんの顔が嫌でも頭に思い浮かび、自然と溢れる涙に何の抵抗もできなかった。たくさんの笑顔、自分だけに見せてきた、時よりの甘えた表情。思い出したい表情はたくさんあるはずなのに、それでも浮かぶ表情は、魂の出ていってしまったミカコさんの表情だった。

M市民ホールを出てからコウタ君とはほとんど口を聞いていない。コウタ君にとって、血のつながった唯一の肉親。たった1人の母親。その母親をこんな形で失ってしまった彼にかけてやる言葉がどんなものが適切なのか、考えているうちに結構な時間が経ってしまった。

支給されたおにぎりを自分は一つだけ食べて、コウタ君に一つあげる。それでもおにぎり3つなど、高校生の男子にとっては一瞬で無くなってしまう。

時間が何時か分からないが、体育館全体の明かりが消される頃になると、自然と2人は段ボールの上に横になる。

明日が全く想像できなかった。もう60歳。

コウタ君が成人するまでは籍を入れないと言ったのはおいちゃんの方だった。しかし、その決断が、コウタ君との関係を明確に他人にする。

コウタ君はまだ17歳だ。自分1人で生きていけるわけがない。何とかしてコウタ君だけは守らなくてはいけない。そう思っても、その方法が全く分からなかった。

「コウタ眠れそうか。」どこかで赤ん坊が泣き出したタイミングで話しかけてみる。

「どうだろ、分からない。」

「無理することはない。どうせ明日だってやることはないから。」

「なぁ、おいちゃん。母ちゃんって死んだんだよね?」

お互い天井を見つめる。目は合わせない。あえてそうすることが正解だと感じた。

「うん。ミカコさんは、ミカコは、死んだ。間違いなく死んだ。」

「おいちゃん、もう俺のことなんて放っておいていいんだよ。別に1人で生きていけるし。母ちゃんが死んじまったら、おいちゃんは俺といる意味なんてないだろ。俺だって大人なわけじゃないけど、そこまで子供じゃない。そのことくらい分かるから。大丈夫だよ。」

「馬鹿なこと言うんじゃない。もう俺はお前に遠慮しない。お前の父親だ。ミカコさんがいなくなってしまった以上、俺はお前を、ミカコさんの分まで守ってやる。変な心配するんじゃない。大丈夫だ。ミカコさんにとってお前が全てだったように、俺にとっても、お前が全てだ。」

「臭いこと言うんだね。」

「臭いことじゃない。父親として当たり前だ。いいか、俺がお前のことは絶対に守る。お前は、俺の息子だ。だから、お前を立派な大人にする。何も心配はいらない。大丈夫だ。」

コウタ君が横で寝返りを打った。あえておいちゃんとは違う方向を向く。また別の赤ん坊が泣き出した。

「何で母ちゃん、化けて出てきたんだろ。」

「お前にどうしても感謝を伝えたかったんだよ。そうとしか考えられない。」

「でもさ、そんな理由で一晩だけでも戻って来られるなら、全ての魂が全部戻ってきて大パニックじゃないかな。」

「じゃあ、他に何かあるか?」

「おいちゃんに最後に会いたくなった、とか。」

「そんなのさっきと同じだし、それなら会いたいと思うのはお前だ。」

「じゃあ、なんだろ。何か特別なこと話したっけ?」

2人の間に、沈黙が流れる。

あの夜のこと。まだ思い出すのは辛い。笑顔のミカコさん。感謝を伝えた。愛も伝えた。

 

「貸金庫。」コウタ君が呟くように言った。

「これのことか。」おいちゃんは慌てて胸ポケットに手を伸ばす。そこにはミカコさんに託されたポーチがしっかりと入っている。

「その銀行は無事なのかな。」

「俺も使ったことがないから曖昧だけど、隣町の高台に立っていたからおそらく無事だと思う。」

コウタ君が急に起き上がり、こちらに向きを変える。

「明日もどうせやることないって言ったよね。だったら、行ってみない?その銀行。もしかしたら、母ちゃんが化けて出ても伝えたかったことって、その中身に関することなんじゃないかな。」

「そうだな。それもありだ。どうせ明日もやることはない。」

「なら今日は寝ることにするよ。おやすみ。」

「おやすみ。」

 

 

おやすみと口に出しても、全く訪れる気配のない眠気。

それはコウタ君も同じのようだった。

何度も何度も寝返りを繰り返している気配がする。

「なぁおいちゃん。母ちゃんは幸せだったのかな。人生、幸せだったのかな。」

コウタ君が背中越しに話しかけてきた。

「少なくとも、お前に出会えたことは、ミカコさんにとって最高の幸せだった。それだけは確かだ。」

コウタ君の啜り泣く声が、おいちゃんの背中に突き刺さる。

今は泣けばいい。存分に泣けばいい。そう念じるだけで声をかけてやれることはできなかった。

きっと、その何倍もおいちゃんの方が泣いていたから。

 

段ボールの上で横になり、瞼を閉じる。

初めて出会った日のミカコさん。

初めて食べたミカコさんの手料理。

初めての家族三人での外出。

隣の家への引っ越し。

コウタ君をめぐっての葛藤。

おいちゃんだけが知っている、おいちゃんだけのミカコさん。

その表情のどれもがやっぱり美しかった。

ミカコさんが、おいちゃんに託したかったもの。

愛しいコウタ君。大切なコウタ君。ミカコさんの人生の全てだったコウタ君。

 

ジャンパーの上から胸ポケットをさする。

ミカコさんに渡された貸金庫は確かにそこにある。

俺がしっかりと引き継ぐからな。大丈夫だ。大丈夫。

 

 

やがて夜の帷に追いつかれ、夜は更けていく。ミカコさんがもうこの世界にいないと知って初めての夜が更けていく。

 

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「武雄さん!」

ミカコさんが手を伸ばす。

その手を握ってやらなければ。大丈夫。もうすぐ届く。大丈夫。

「今助けるぞ!頑張れ!」

瓦礫の波がミカコさんに迫る。

何で届かないんだ。こんなに手を伸ばしているのに。何で。もう少し。絶対に助けるからない。

何で届かないんだ。

もう瓦礫がミカコさんを飲み込みそうだ。

何で届かないんだ。何で。

ついにミカコさんが瓦礫に追いつかれる。

 

何で、なんで助けてやれなかったんだ。

何で。

「ミカコ!!!」

声の限りに叫ぶ。

「武雄さん、何で助けてくれないの。ひどい。何で。

さようなら。さようなら。」

 

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「おいちゃん、大丈夫か。」

重くなった瞼を開けると、コウタ君が心配そうにおいちゃんを覗き込んでいた。

凍てつく寒さの体育館で、1人だけ汗をかいている。

嫌な夢を見た。

そして、現実の世界に朝が来たことを認めると、ミカコさんがこの世界にはもういないことが改めて自分の中で真実になってしまう。

「大丈夫だ、疲れていたからよく眠ってしまったらしい。」

ジャンパーの胸ポケットをさする。ミカコさんに託された鍵は、確かにそこにある。

朝に支給をされるおにぎりを食べて、ペットボトルは道中の水分補給のために2人ともほとんど飲まずにとっておいた。

銀行が開いているのかすら分からないまま、2人は体育館を出る。瓦礫で覆われた街を見慣れてしまっているけれど、そんな自分をおかしいとも思えなくなっていた。

かろうじて残る道路標識を頼りに瓦礫の街を進む。30分くらい歩くと、津波が押し寄せた地域を出ることができた。津波が到達したエリアと到達しなかったエリアでは、全ての世界が違っていて、日本中のどこまでも瓦礫の街になってしまっていると勝手に解釈をしている自分がいることに、その時に初めて気がついた。

車は普通に道路を走っている。建物が元のまま残っている。商品棚に一切商品のないコンビニも、ガソリンスタンドへ続く長蛇の列も、自分達が今まで見てきた現実に比べると一切異様な光景には感じられなかった。

道なき道を進んでいた時と比べると、そこからの道のりはあっという間だった。2人とも余計な話はしない。今はその方がお互いにとっていいだろうと思った。道中で二回だけ、おいちゃんが休もうと言った以外は、ただ黙々と歩き続ける。

T信用金庫はおいちゃんの記憶の通り、少し高台になった場所に建っていた。体育館を出てから2時間。思っていたよりも何倍も早く着いた。

そして、その日は地震以降初めて簡易的な窓口業務が再開される日だったらしく、銀行の前とは思えないほどに、人が列をなしている。

後から思えば、きっとそんな混乱がなければ簡単には貸金庫を開けさせてもらえなかったかもしれないが、その日は窓口に押し寄せる人の対応で職員たちはパンク状態だった。

銀行内の案内板で貸金庫の位置を確認する。入り口の扉で早速暗証番号を求められた。ミカコさんがこの金庫の開け方を教えてくれた時には、ミカコさんはすでに死んでいたことになる。しかし、自分達の前に現れてくれたミカコさんが口にした暗証番号を入力すると、目の前の重厚な扉は、すんなりと横に開いた。その事実だけで、もう涙がこぼれそうだった。

ミカコさんに預かった鍵には「1145」と書かれた番号がぶら下がっている。その番号の金庫の前に立つ。金庫室の中には大小それぞれの金庫があったが、1145の金庫は一番大きな形の金庫だった。

鍵を差し込み、ダイヤル式の錠の番号を合わせる。番号は2525。コウタ君の誕生日の8月25日と、どんな時でも笑っていようという願いを込めたらしい。

カチッと音がして、金庫の扉が開いた。

中には、あの日のミカコさんの言葉通り、通帳が3冊。印鑑が2本入っている。印鑑にはそれぞれ、どの銀行に届けているものかのメモが貼り付けられていて、几帳面なミカコさんらしいなと感じた。

そしてその奥には紙の束が見える。1枚や2枚じゃない、大量の紙の束。

 

 

明日20時公開

「隠し味には醤油を入れて⑩」に続く