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吉原さんの息子さんが体育館を去ってからしばらくしても、すぐに2人の腰は上がらなかった。

自分達は確かにこの場所でミカコさんに会った。あれは間違いなくミカコさんだった。

死んでいるはずがない。そんなはずはない。

「おいちゃん、何かの勘違いだよ。放っとこう。」

コウタ君は不機嫌そうに言う。

「そうだな。俺も見間違いだと思う。」

しかしながら、ミカコさんがいなくなってから2日が経ち、いまだになんの手がかりもないことは事実だった。

「コウタ、もちろん吉原さんの勘違いだと思う。だけど、ミカコさんの居所になんの手がかりもないことは事実だ。だから、とりあえず、会いに行ってみないか。俺たちが見間違えるわけがないから。少しでも不安があるなら消しにいこう。そして、もしかしたら隣町まで行けば何か違う情報が得られるかも知れない。もうこの場所でずっと待っているのもつかれてきた。」

「その間に母ちゃんがこの場所に帰ってきたらどうするの?」

「入口のホワイトボードに付箋を貼っていこう。もしもミカコさんが帰ってきたら、きっとそれを読むはずだから。」

コウタ君はまた、電波の入っていないスマートフォンを取り出す。彼なりに逡巡をした結果、黙って立ち上がりおいちゃんを見る。どうやら行くことにしたらしい。おいちゃんも黙って立ち上がる。腰がだいぶ痛い。それでも休んでいる時間はない。若い息子に遅れを取らないように、隣町まで歩かなくては。

体育館の入り口には、数えきれない数の付箋が貼られている。行方の分からなくなった家族に宛てたものだ。おいちゃんもミカコさんに宛てて「M市民センターにコウタと行ってきます。3月15日の夜には戻ります。」と書いて貼り付けた。

 

 

M市民センターまでは、地震が起きる前までは車で走って10分くらいの道のりだった。しかし、道がどこにあったかも分からないほどに元の街の姿はない。道路の上には船が折り重なる異様な光景が広がっている。

地震から今まで一度も自分の船のことを思い出したことはなかった。数多くの思い出が詰まった船。しかし、今は目の前の道路で朽ちている船と同様、どこかに横たわっているのだろうか。おいちゃんとコウタ君の行く手を塞ぐ船の名前は「幸運丸」だった。せめて、この船の所有者と、その家族が幸運であることを願うばかりだった。

M市民センターまでは、道なき道を越えながら結局2時間半の道中になった。その間、コウタ君もおいちゃんも何も話すことはなかった。

誰かの家があったであろう場所を歩いた。折り重なる車の横を歩いた。泥だらけになった人々の思い出が町中に散乱していた。この町の人が人生の中で感じた葛藤や幸福、悲しみや希望の隙間を縫うように、2人は2時間半無言で歩き続けた。

M市民センターは、東京から有名な歌手が時よりコンサートでも訪れるホールだ。入り口の扉を開けると、人の死には匂いがあると知った。

開場を待ち侘びる観客の姿が溢れていたはずのホールのロビーに置かれていた簡易的な長テーブルには「受付」と書かれたコピー用紙が貼り付けられている。そこには市役所の腕章をした職員が座っていた。雑然としているロビーには人が溢れていた。避難した体育館でも人は溢れていたが、その場所と違うことは、探している相手がこの場所にいてほしいのか、いてほしくないのかの整理がついていない人たちで溢れているということだ。そして、それらの人を眺めながら、この場所に自分が探している人がいるはずはないのだという気持ちでいる自分は、この人たちとは違うんだという自然発生的な精神の自己防衛を行っていた。

黙って歩き続けたコウタ君もこの匂いを嗅いでいるはずで、まだ16歳のコウタ君にこの匂いを嗅がせても大丈夫かと不安になる。

しかし、「大丈夫か?」と聞くと「当たり前だ。」と真っ直ぐに前を見つめて、返してきた。よし、そうだな、2人で吉原さんの息子さんの勘違いだって証明しに行こう。

この匂いを嗅いだ瞬間にすぐに外に出たくなるにもかかわらず、この場所に座り、何人も、何十人もの相手をし続け、訪ねてきた人間が伝える、探している人の特徴と、運ばれてきたご遺体の情報を照合している市役所の職員に、それだけで頭が下がる思いだった。

受付の前には六人ほどの列ができていて10分ほど待つとようやく2人の番が回ってきた。

おいちゃんに優しく話しかけてきた若い男性の職員は、顔や、市役所の制服のジャンパーには泥がついている。この青年も自分の生活が一瞬にして壊されたはずなのに、こんな老人が頼りにしてもいいのかと迷ったが、それよりもミカコさんの行方が知りたかった。

「お探しの方はどなたですか。」

「妻を探しています。先ほど、こちらに運ばれてきたと聞いたもんですから。M地区に住んでいます、近藤と言います。」

「近藤さん?」若い職員がおいちゃんが話すことを書き込んでいたメモから顔を上げて聞いてくる。

「はい、近藤です。」

「奥様の情報は吉原さんから聞かれましたか?」

「はい、そうなんです。吉原さんの息子さんが。」

「そうですか。本当に吉原さん伝えてくださったんですね。大した人だ。一応、奥様の当日の格好を教えていただけますか。」

「はい、白いジャンパーに、ジーンズ、靴はナイキのスニーカーを履いていたはずです。」

白いジャンパーまでは、しっかりと手元のメモ用紙に書き込んだ若い職員だったが最後まで聞くことはなく、再びおいちゃんに話しかける。

「ここまで遠かったですよね。お疲れ様です。奥様、お待ちでいらっしゃいます。この先の扉を入るとホールになっています。いくつかにエリアが仕分けられていますので、右奥の「M」と書かれたエリアに行ってください。その48番が奥様です。」

「48、、、ばん?」

「はい、48番です。運ばれてきた皆様には大変失礼ながら番号がついています。お腹の辺りに紙が貼ってありますので、そちらでご確認ください。」

横でコウタ君が何か言葉を発そうとしたときに、おいちゃんは反射的にその右腕を抑えた。

そんなはずはない。絶対に何かの間違いだ。そう思っているのに、反射的に抑える。

大丈夫だ、絶対にミカコさんじゃない。

だけどその言葉が出なかった。

「コウタ、とにかく一度確認をしてみよう。お前はここで待っててもいい。俺1人で行ってくる。」

「嫌だ、俺も行く。おいちゃんだけじゃ不安だ。もしかしたらパニックになって間違えて帰ってくるかもしれない。」

そこで職員の若い男性が問いかけるようにコウタ君に話しかける。

「中には、たくさんのご遺体が横たわっています。海水に浸かってるご遺体もあります。できれば、ここはお父様お一人でご確認に行っていただく方がいいかもしれません。」

「うるさいです。関係ないです。大丈夫です。何見ても大丈夫です。俺の母ちゃんだから、俺が見間違えるわけないので。実際にあなたたちが母ちゃんだって勘違いしている人に会って、母ちゃんじゃないって確認してきます。俺が行きます。自分で行きます。大丈夫です。」

職員の男性が、おいちゃんを見る。どうしますか?と目で訴えてくる。やめておいた方がいいと思います、とも目で訴えかけてくる。

「コウタ、大丈夫だな。どんな光景を見ても、絶対に強くいろよ。約束できるな。」

「俺は大丈夫だ。大丈夫に決まってんだろ。むしろおいちゃんこそ大丈夫なのかよ。俺は大丈夫。早く行こう。ここまできたんだ。帰るわけない。」

「わかった。息子がこう言ってますので、2人で確認をさせてください。ここまでの道中も、2人で折角きたものですから。」

おいちゃんが答えると、それでは、と言ってホールに続く扉を案内してくれた。

促されたままにホールへと続く防音の分厚い扉を押し広げる。

人の死の匂いがより一層充満していることは明らかだった。

 

 

 

 

 

 

 

終わりし魂の集合体が、ホール全体を灰色に染めていた。

終わりし魂の集合体の、人生への執着がこだましていた。

終わるはずのなかった無数の人生が横たわっていた。

 

 

 

 

若い男性、若い女性、自分と同じくらいの歳の男性、そしてコウタ君と同じくらいの歳の少年の姿もあった。

いくつかかけられてあったカバーはきっと、海水を吸ったご遺体なのだろうと冷静に考えることができたのは、その時からだいぶ後になってからだった。

 

髪を赤く染め、ピアスを開けた高校生の息子が咄嗟に手を握ってきた。

手を繋いで歩いたことなんていつぶりだろうか。しかし、自分ですら誰かの手を握りたかった。それが息子の手であっても握りたかった。

「大丈夫か?」

「大丈夫。大丈夫。母ちゃんに勘違いされている人を早く見に行こう。大丈夫だから。」

 

ホールの中では叫び声がこだまする。

家族の亡骸に対面した人の慟哭。普通に生きていて、普通に笑い合って、これからも共に歩んでいくことが普通だった家族の亡骸に対面した人々の悲痛な叫びを、ホールの音響が皮肉なまでに響き渡らせる。

その度に、おいちゃんの手を握るコウタ君の手に力が入る。

高校生の息子と祖父に見間違えられる父親が手を繋いでホールの中を歩く。異様な光景が、その場所では異様ではなかった。

確かにホールの右奥には衝立に大きく黒マジックでMと書かれたエリアがある。

何百という亡骸の間を縫って歩くのに、不思議と不気味さは感じなかった。この場所にミカコさんがいるわけがない。ミカコさんの笑顔を思い出すと、ミカコさんには最も似合わない場所に感じることができた。

Mのエリアにつく。

お腹にはコピー用紙で大きく番号が書かれている。

ミカコさんは48番だと言われた。

42番と書かれたコピー用紙がお腹に貼られた亡骸を見る。おいちゃんが、ミカコさんに宛てる手紙に使う折り紙を買い、コウタ君が万引きで捕まったレジの女性だった。会ったら会釈するくらいの関係。たまには話すくらいの関係。ミカコさんに宛てる手紙のために最初に買った折り紙は、この女性から買ったことを急に思い出す。知っている人間。同じ地区の人なら誰もが顔を見れば分かるその女性が、真っ白い顔で横たわっていた。それは、魂が抜けた入れ物だった。身近な存在の死が42番に並ぶ。知っている人間の死が、突如目の目に横たわる。

 

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明日20時公開

隠し味には醤油を入れて⑧に続く