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朝方に目覚める。硬い床の上で迎えた朝だったけれど幾分疲れが取れている気がした。

3人で寝ていたはずだったのにミカコさんがいない。どこに行ったのか分からないが、トイレにでも行ったんだろうと思った。

周りには、今日も家族を探す人たちが右往左往していた。こんな喧騒の中でもゆっくり眠っていた自分はよほど疲れていたんだと思ったし、何よりも家族に自分は会えたことが改めて幸せだった。

そして、こんな喧騒の中でもまだ寝息を立て続けるコウタ君の寝顔がやっぱり愛おしかった。頬に出来たニキビも、カサついた唇も。

それから10分くらいすると、市役所の職員が拡声器を使って体育館のステージの上で話し出した。どうやら、おにぎりが1人に一つ支給されるらしい。考えればここ2日間ほとんど何も食べていなかった。おにぎりがもらえると分かると思い出したように急に空腹を感じた。そして少しかわいそうだがコウタ君も起こすことにした。

「おにぎりもらえるって。」

眠そうな目を擦りながらコウタ君は体を起こす。

「おにぎりか。なんだか、食い物って懐かしい気すらする。」

コウタ君はあたりを見回しながら「母ちゃんは?」と聞いてきた。

「俺が起きた時にはもういなかった。トイレにでも行ったのかも知れない。」

学校の校庭には、昨日の夜から、自衛隊の仮設トイレが設けられていた。きっとそこにでも行ったのだろう。そのくらいに考えていた。

市役所の職員が、おいちゃんとコウタ君のもとにもやってきた。

ミカコさんがどこかに行ってしまったことを伝え、代わりにもらっておきたいと伝えたが、トラブルを避けるために本人にしか手渡しができないと伝えられた。それもそうだ。ここにいる全員が2日ぶりの食事なのだ。

なんの具も入っていないおにぎり。決して大きいと言えないおにぎり。

おいちゃんはそれを半分に割って、コウタ君に差し出した。

こんなサイズのおにぎり、何個食べたって腹が膨れることはない年頃だ。

「食べなさい。」

「いいの?おいちゃんだって腹減ってるだろ?」

「大丈夫だ。父親は息子のことを一番に考えるのが常だから。食べなさい。俺は半分あれば十分だから。」

「なんか、まぁ。そうか。ありがとう。」

直接目を見ずにコウタ君はお礼を口に出した。反抗期の真っ只中に起きた非現実的な悲劇の中で精一杯お礼を言うコウタ君が尚更愛おしくなる。

口に入れたおにぎりは、幸福以外に表現ができなかった。

全身の細胞に、おにぎりの旨みが染み込んでいく。冷めきっていて、ご飯は固い。それでも心の底から幸せに変えてくれるおにぎりだった。

ありがたかった。

「腹に溜まるようにゆっくり食べような。」とコウタ君には伝えたはずだったのに、コウタ君の一個半のおにぎりは、おいちゃんが半分を食べ切るよりも先になくなってしまった。

早くミカコさんにも食べさせてあげたかった。ミカコさんだって腹が減っていないわけがない。それでもミカコさんは昼になっても夜になっても帰ってこなかった。

 

「母ちゃん、どうしたんだろう。」いまだに繋がる気配のない携帯電話を触りながらコウタ君が訪ねてくる。

全く検討がつかなかった。

昨日せっかく会えたのに。どこに行ってしまったのか。

何回も何回も体育館の中を回った。

全員の顔を見て回った。

どこに行ったのか。

今この状況で、自分達に何も告げないで姿を消さなくてはいけない理由はなんだろうか。

いまだに、家族の名前を叫びながら体育館を歩き回る人たちが大勢いた。

こんな状況にも関わらず、自分達は会うことができたのに、なぜいなくなったのか。

結局その日は、コウタ君と共に二人で眠るしかなかった。

眠ってはすぐに目覚め、眠ってはすぐに目覚める。

相変わらず関連する地震が続いている。揺れに慣れている自分達がいる。小さな揺れくらいでは何も感じなくなってきた。しかし、時より、身構えるほどに地面が揺れることもあった。もしかしたらそれらの揺れで倒れてきた何かに巻き込まれてしまったのではないだろうか。

考え出すとキリがなかった。もしかしたら今この瞬間も、助けを待っているのではないだろうか。どこかで、自分が助けに来るのを待っているのではないだろうか。

知らぬ間に眠りの谷間に落っこちても、またすぐに目が開く。

啜り泣く人々の声が響く体育館で、おいちゃんは自分の感情の置き場がわからなくなった。

確かに自分達は家族三人が再会した。それなのに姿を消す理由はなんだろうか。

考えれば考えるほどに、やはり何か良からぬことに巻き込まれているのではないだろうかという思いが強くなった。

 

能天気な朝日が昇り、感情に釣り合わない朝日が差し込む。

結局ほとんど眠ることなどはできず、横を見るとコウタ君も同じ気持ちで夜を越したことは明らかだった。

折角会うことのできた母親だったのに。なんで姿を消す必要があるのか。コウタ君にだって想像はできなはずだ。

朝にはまたおにぎりが配られた。ミカコさんが食べられないと考えると、全く食欲なんてわかなかった。結局コウタ君がおにぎり二つを頬張る。

「なぁおいちゃん。」指についたご飯粒まで綺麗に食べた後にコウタ君が切り出す。

「どうした?」

「聞きづらいんだけど、母ちゃん、他に好きな人がいたとかないよね?この地震をきっかけにその人と暮らすことにしたって決めて、もしかしたらその人の元に行ったのかも知れない。」

コウタ君は冗談を言っている雰囲気ではなかった。眠れない一晩を過ごし、彼なりに導き出した結論だったのだろう。

「コウタ、それだけは違う。絶対に違う。」

「なんでそんなこと言い切れるのさ。別においちゃんは、そこまでいい男じゃないぜ?」

「そういう問題じゃない。俺に愛想をつかしたことなら考えられるけど、ミカコは、ミカコさんは絶対にお前の前から黙って消えたりしない。お前を少しでも悲しませる可能性があることはしない。それは絶対だ。」

「じゃあ、なんで折角会えたのにいなくなったのさ。」

「それが俺にも分からない。だけど、お前が悲しむと分かっているのに、黙ってお前の前から姿を消すことだけは絶対にしない。絶対に。それは俺が約束する。」

だからと言って、おいちゃんにも相変わらず全く心あたりがなかった。どこに行ってしまったのか。

もう一度2人で体育館を探してみた。この時期は、毎日人が入れ替わっていた。紛れ込んでいる可能性なんてあるはずがないのに、やれることはこれしかなかったから、これだけしかやれなかった。避難所を変えて探しにいくことも考えたが、もしもミカコさんが戻ってきた時に、2人がこの場所にいなかったら、また探し合うことになってしまう。

やれることはなく、移動することもできない。

一度会えたからこそ感じる虚しさが感情に居座る時間が、ただ無常に流れていくだけだった。

 

 

吉原さんの息子さんが声をかけてきたのはミカコさんがいなくなってしまった翌々日の昼を過ぎてからだった。

吉原さんは、おいちゃんたちが暮らす家の7件隣の漁師の家。息子さんは30歳まで東京の企業に勤めていたが、実家からの要望を聞き入れ故郷に戻り漁師になった。礼儀正しく、おいちゃんも惜しみなく、長い漁師生活で培った経験を伝えていた間柄だった。

しかし、いつも精悍にクールに仕事こなす青年の顔はいつにもなく曇っている。

明らかに言いにくそうなことを抱えてここに来た顔をしていた。

「近藤さん、探しました。やっと会えた。まずは無事で良かったです。」

差し出された右手はところどころに傷ができ、泥だらけだった。

「吉原君も無事でよかった。」

黙って、おいちゃんはその手を握り返す。

「近藤さんが奥様を探しておられたって、江藤さんから聞いたもんで。」確かに、色々な人にミカコさんを見なかったか訪ねて回った。

その中に、同じ地区に住む江藤さんの奥さんもいた記憶がある。江藤さんはミカコさんの居場所は知らずに、逆にご主人を見なかったかを聞き返されたことを思い出す。

「確かに聞いた。というよりは、会う人全てにとにかくミカコを見なかったかを聞いて回ってた。」

「そうですよね、気持ちは分かります。近藤さん、コウタ君の前でお話をしてもいいでしょうか?」吉原さんの息子さんはコウタ君を一瞬見つめ、またおいちゃんに視線を戻す。

「もちろん。2人で、ミカコの居場所を探していたんです。なぁ?」

「うん。」ぶっきらぼうにコウタ君は返すが、この場所を離れる意思はなさそうだ。

「そうですか、分かりました。近藤さん、落ち着いて聞いてください。奥様、見つかりました。隣町のM市民センターでお待ちです。私と親父は、大変失礼かと持ったのですが、先ほどお会いしてきました。」

「本当ですか!ありがとうございます。ありがとう。

本当に、本当に、どこに行ってしまったのかと思って、心配で心配で。そうか、隣町の。でもなんでそんなところに。なんでなんだろうか。会ったら少しくらい叱ってやらねば。」

コウタ君も横で大きく息を吐き出した。

しかし吉原さんの息子さんは気まずそうに、そして覚悟を決めたように言葉を続けた。

「大変申し上げにくいのですが、奥様は亡くなられていました。大変残念なのですが、亡くなられていました。しかし、海水には浸かっていなかったので大変綺麗なご遺体でした。先にご面会をしましたことを改めてお詫びいたします。」

吉原さんの息子さんは目の前で頭を下げるが、何が起きているのか全く分からなかった。

「適当なこと言わないでください。」

横にいたコウタ君が急に声を上げる。「だって、俺たち会ったんです。母ちゃんに会ったんです。地震の2日後、この体育館で会ったんです。母ちゃんに会ったんです。会ったのに、その後に急に死んだっていうんですか?適当なこと言わないでください。じゃあ、俺たちが会った母ちゃんは誰なんですか。」

「コウタ君、気持ちは分かる。しかし、これが現実なんだ、現実なんだ。強くいよう。しっかりと。まずはお母さん待ってるから、コウタ君とお父さんのこと待ってるからまずは会いに行ってあげてほしい。会いに。待ってるから。」

吉原さんの息子さんが泣いていた。コウタ君の肩をガッチリと掴みながら泣いていた。いつもは精悍な顔つきで、ベテランの漁師衆たちの希望となる若き力が、泣いていた。

 

隣町のM市民センターはその時すでに遺体安置所として使われていて、吉原さんの息子さんが自らの妻と、幼い息子を探すために訪れた際に知ったミカコさんのことをわざわざ伝えてにきてくれたのだと知ったのは、地震から1か月以上が経ってからだった。

 

 

明日の20時公開

隠し味には醤油を入れて⑦へ続く