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その日も夜までコウタ君を探し回ったおいちゃんは風呂に入り、ミカコさんが作ったぶり大根を電子レンジに入れた時。もう何年も鳴っていない気がした黒電話が大袈裟に音を立てる。

近くの警察署にすぐに来るように言われると、漁に着ていくジャンパーを羽織り、雪が降り頻る中なのに裸足にサンダルだけ履いて軽トラに飛び乗った。
コウタ君が万引きをしたのは、おいちゃんがミカコさんに送る手紙に使う折り紙を買っていたスーパーだった。とても1人では食べ切れる量ではないパンに牛乳、お弁当にスナック菓子。

「家の者です。」と警察官に挨拶をすると、少し憐れんだ目をされた気がする。あなたが子育てを間違えた父親ですか、と言われている気がする。あなたが親失格の父親ですか、と言われている気がする。

「盗んだ量を見ると、仲間に命じられてやったことは間違いないと思います。しかし、誰に言われたやったのかを問い詰めても、全部自分のためとしか言いません。今回は1度目の補導ですからこのままお帰りいただけますけれど、次はもっと厳しい対処をすることになると思います。よく息子さんと話してください。」コウタ君の元に連れていかれる前に話してくれたのは、田所と名乗った生活安全課の刑事だった。
「分かりました。ご迷惑をおかけしました。すいません。」土下座をしたい気分だったがやめておいた。それで楽になるのは自分だけで、コウタ君がもっと惨めになる気がした。

コウタ君は警察署の職員の机が並ぶ、広いフロアの端っこに置かれる長椅子に座っていた。なぜか、椅子の横にある観葉植物が目に入る。勝手に、鍵のついたドラマで見る取調室のような部屋に入れられているのかと想像していたが、思春期にグレて仲間から万引きを命じれれて捕まった高校生なんて、このくらいの措置で十分なのかもしれない。そこで働く誰からも見える位置に置かれた椅子で晒し者になりながら、不機嫌そうな顔をして座らされていた。

田所が、コウタ君に声をかける。

「ほら、お父様迎えにきてくれたぞ。今日は帰れるけども次はないと思え。次はしっかりと少年院に送られるからな。」

自分のことを父親と言われると反射的に顔を背けてしまう。そのことが、改めて情けなかったが、コウタ君が文句を言うことはなかった。おいちゃんの顔を見ると、面白くなさそうに顔を背ける。

 

「コウタ。。。。コウタ。。。

帰ろう。とりあえず帰ろう。」

 

なんで泣いているのか分からなかった。

悪いことをしたコウタ君を叱ってやらなければいけなかったのにコウタ君の顔を見た瞬間に涙が止まらなくなってしまった。

「とりあえず、お父さん。今日のところは家に帰って、じっくりと話し合ってください。さっきも言いましたように、次同じようなことがあればしっかりと更生施設に送られることになります。」なんでお前が泣いているんだと、田所は明らかにそう言いたそうだった。大丈夫なのか?子育てを間違えたのはお前だろう?と言いたそうだった。だけど、コウタ君を見た瞬間に溢れ出した涙が止まらなかった。

「分かりました。分かりました。分かりました。申し訳ございませんでした。」涙も鼻水も止まらなかった。田所は明らかに戸惑い、困っている。だけど溢れ出る感情を止めることができなくなっていた。

「申し訳ございませんでした。こいつがこんなことになってしまったのは私のせいです。私の愛が足りていませんでした。ごめんなさい。父親としての務めを何もしてやることができませんでした。愛情があって、家に帰ってきたいと思ってくれるような家であればこいつはこんなことになりませんでした。元々は心優しい子なんです。本当にご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。本当にご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。本当に本当にご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。私が悪いんです。私の責任なんです。申し訳ございませんでした。本当は心優しい子なんです。小学校6年生まで、頑張って働く母親にしっかりと手紙をかける、心優しい子なんです。なのに。なのに!私のせいなんだ。本当に申し訳ございませんでした。」

土下座をして頭を地面に擦り付けて謝った。

自分の中の感情をコントロールすることができなかった。悪い友達に万引きさせられて、捕まって、警察署になんて連れてこられて、こんな全員から見える位置に座らされて。嫌だったよな。惨めだったよな。恥ずかしかったよな。ごめんな。俺のせいだよな。ごめんな。

「お父さんやめてください。」田所が言う。

「悪いのはこいつが帰ってきたいと思える家を作れなかった私の責任です。本当にすいませんでした!本当に申し訳ございませんでした!」涙も鼻水も、溢れ出る感情も何もかも止まらなかった。何度も額を床に擦り付けた。

「ごめんなさい。申し訳ございませんでした!私のせいです。申し訳ございませんでした。」

コウタ君とした夕暮れ時のキャッチボール。コウタ君と食べたミカコさんのカレーライス。

ミカコさんに感謝を伝えるために提案した折り紙の手紙。

幸せだった。俺の人生捨てたもんじゃないと思った。だけどいつしかその生活は崩れ、全部自分が悪いのに、ミカコさんのせいにした。宝物だったのに。コウタ君もミカコさんも宝物だったのに。自分の全てだったのに。コウタ君に道を踏み外させてしまったのは自分だ。全部悪いのは自分だった!

「お父さん、顔をあげてください。」無理やり腕の下に手を入れられ、立ち上がらされる。涙で歪んだ視線の先に、不機嫌そうに立つコウタ君が見えた。

「とにかく、お父さん。今日は帰って、じっくりお話をしてください。」

「分かりました。分かりました。すいません。申し訳ございませんでした。」くしゃくしゃになった顔でもう一度謝る。何度でもいつまでも謝るべきは自分だとは思った。

「2度とお父様にこんなことを言わせるんじゃないぞ。」

頭を下げることもせず、不機嫌そうに視線を逸らす。ポケットから両手を出せない。みっともないぞ、と思ったけど、その何倍も自分の方がみっともなかった。今の状況は全て自分の責任だった。

「帰ろう。家に帰ろう。コウタ。家に帰ろう。」

頷くこともせず、拒否をすることもしなかった。最後にもう一度深々と警察官に頭を下げ駐車場に向かって歩き出したおいちゃんの背中を、不機嫌そうな顔をして黙ってついてくる。

凍えるような寒さの夜だったはずなのに自然と寒さは感じなかった。

「寒くないか?大丈夫か?」と聞くと「別に。」と言いながらコウタ君は大人しく助手席に乗った。

走り出した軽トラのラジオからは、今の状況には似合わない明るい音が溢れてきた。慌ててボリュームをひねると、暖房が温めるのよりも先に、沈黙が狭い車内を埋めていく。

「お腹減ってないか。」

「別に。」

「何か食べて帰るか。」

「大丈夫。」一生懸命な無愛想。だけど、悪い友達と連んだって、万引きで警察のお世話になったって、ジャイアンツの試合を見ながら美味しそうにカレーを食べるコウタ君の面影はそのままだった。

こんなふうに2人きりになったのはいつぶりだっただろうか。思い出せない。それだけコウタ君とコミュニケーションは足りていなかった。雨は降ってないのに、目の前の視界は徐々にぼやけ始める。

「ごめんな、コウタ。ごめんな。」

「なんでおいちゃんが謝るんだよ。」

「俺、お前に何もしてやれてない。1人で不安だった時もあったよな。誰かに話聞いてもらいたい時もあったよな。ごめんな。」

「いや、別においちゃんのせいじゃないから。」

「俺な、もう決めたからな。俺の人生は、全てをお前とミカコさんに捧げる。何があっても守る。もう遠慮はしない。俺はお前にとってなんなんだ、ってずっと考えてきた。だけど、俺はお前の父親だから。」

父親としての宣言をしている割に、涙が止まらない。威厳のカケラもない。積み残してきたピースが多すぎて、どこから取り掛かればいいのかわからない。だけど、おいちゃんの人生で唯一守りたいものは、考えても考えてもミカコさんとコウタ君だった。

街灯もない夜の田舎道を軽トラックの静かなヘッドライトが浮かび上がらせる。

「今回の話はミカコさんにはしない。」

こちらを見るコウタ君は少しだけ意外そうな顔をした。

「この話は、俺とお前だけの秘密にしよう。男と男の約束だ。ミカコさんが聞いたら絶対に悲しむ。悲しませることはしたくない。だから約束をしてほしいんだ。もう絶対にミカコさんを悲しませることはやめてほしい。」

「別に良いよ言ったって。母ちゃんが今更悲しむわけないし、何も思わない。別に俺のことなんてどうでもいいんだよ。」

「お前は何も分かってないんだよ。ミカコさんが、お前のことをどれだけ大切に思っているか、分かってないんだよ。ミカコさんにとって、お前だけなんだよ。絶対に俺じゃ変わることができない。お前だけなんだ。お前が悪い友達と付き合うようになっただろう。それで、この前初めて、俺はミカコさんに文句を言ってしまった。出会ってから初めて。なんでもうちょっとコウタのそばにいてやらないんだって。そうしたらな、ミカコさん言ったんだよ。お前を幸せな1人の大人にすることがあの人の人生の全てなんだ。それだけなんだ。あの人の人生はそれだけなんだ。あの人がお前をどれだけ愛しているか今のお前には分からないかもしれない。だけど女性1人で、お前のために金を稼ぎ続けることがどれだけ大変なことか、いつか分かる。ましてやこんな田舎町でお前を育てるために金を稼ぐことがどれだけ大変だったかいつか必ず分かる。」

「別に頼んでないし。」

「頼まれなくても要らないと言われても、それでも必死に、懸命に、常に子供のことだけを考えるのが親なんだよ。親っていうのは、子供のことを何が何でも幸せにしたいんだよ。ミカコさんにとってお前だけなんだよ。そして、忘れるな。俺ももう、お前から逃げない。お前の父親だ。俺はお前の父親だ。だから、堂々と、真正面からお前の幸せを願ってやるからな。覚悟しろよ。お前の不幸は俺と、そしてお前の大切な母ちゃんのミカコさんの不幸だ。お前の涙は俺たちの涙だ。そして、そして。」

もうダメだ。涙が止まらない。今までの葛藤。ミカコさんの苦労。コウタ君の孤独。寄り添えなかった自分。どこまでも続く夜空の下で、ミカコさんは今も懸命に働いている。今日から新しい歴史だ。新しい歴史を始めよう。

「なんでおいちゃんがそんなに泣くんだよ。」コウタ君が口を窄めながら言うけれど、どことなく嬉しそうで、カモメの声を聞きながらやったキャッチボールの時に見ていたコウタ君の雰囲気を思い出させる。そうだ、今日から新しい歴史だ。まだやり直せる。いくらでもやり直せる。大丈夫。今は隙間だらけのコウタ君の心だけど、それはこれから俺とミカコさんで埋めてあげればいいだけの話だ。まだコウタ君は高校3年生だ。大丈夫、何度だってやり直せる。

 

 

🍵🍵🍵

「あいつさ家帰って、俺が食べようと思ってたブリ大根食べたんだよ。泣きながら。全く笑っちゃうだろ。万引きして捕まって帰ってきて。それで母親のぶり大根食べて泣くんだよ。」

おいちゃんはまた茶渋だらけの湯呑みを空にする。

「そんなに飲んで大丈夫?」

「おう、大丈夫。今日はとことん飲みたいんだ。悪いな。もう少し付き合ってくれないか。」

おいちゃんがこんなことを言うのは初めてだった。いつも「悪いなこんなおじさんと付き合わせて。」と言って、早めに切り上げるのはおいちゃんの方だった。

「もちろん良いさ。とことん話そうよ。それでコウタ君とは何話したの?」

「ぶり大根うまいか?って聞いたら、うん。って。」

「えーそこじゃない気がするけど。」
「俺もぶり大根大好きだったし、そもそもそのぶり大根俺のだからな。「そうだろ、お前の母ちゃんの料理は世界一なんだよ。」って言ってな。久しぶりに2人で話した。俺の質問にもポツリポツリって返してくれるようになって。

だから聞いてみたんだよ。お前は将来なりたいものとかないのか、って。」

「今度は少し踏み込みすぎじゃない。まだ新しい家族の初日なのに。」大学生の生意気な僕は悪気なく答えた。

「そうだよな。だけどちゃんと答えてくれたんだよ。」

「へぇ、うっせぇとか言われなかったんだね。」

「うん。俺も聞いておいてって話なんだが、ちゃんと答えてくれてちょっとびっくりした。それでよ、なんて答えたと思う?」おいちゃんはこういう時、少し悪戯っ子な目をする。

「なんだろ。漁師?」

「漁師なんて言ってくれたら嬉しかったんだけど、残念ながらそうじゃなかった。答えはな。」

「答えは?」

「美容師だって。」

「へぇ美容師。またなんで美容師?」

「髪の毛赤くしてもらった時に憧れたんだってよ。」

「また随分と単純な理由で。」

「それでも良いんだよ。それでも十分なんだよ。あいつがやりたいものが見つかったならそれでも良いんだよ。「おう、良いじゃねえか美容師。俺の髪の毛もいつか切ってくれ」って言ったら「切る髪ねぇだろ。」って言われてな。」おいちゃんはその時を思い出して、禿げ上がった頭頂部を引っ掻いた。

「まぁでも、なんか良かったね。コウタ君がちゃんと、なんというか、普通に戻って。普通っていう表現が合ってるのか分からないけど、間違えた道から帰ってきて。」

「そうだな。だから俺は、その夜がたまたま金曜日だったから、その日も折り紙に手紙を書いたんだよ。男と男の話し合いをしたこと。コウタには父親になると宣言をしたこと。そして、コウタはしっかりと将来の夢を見つけていて、それが美容師だってこと。あとは小さく愛してる、って。」

「そうしたらなんて?大喜び?家族で抱き合ってハッピーエンド?」

「いつも通り、ミカコさんは何も言ってこなかった。ただ、机の上から手紙は無くなってた。でもそれで良かったんだよ。」

「節目節目で感動しないね、ミカコさん。」僕も茶渋だらけの湯呑みを空にする。心地の良い酔いは、心地よい海風を感じるたびに冷めていくような気がしていたけど、ちゃんと酔っ払っている。そしてそれはおいちゃんも同じみたいだった。暗闇でも分かるほど、おいちゃんの真っ黒な頬は、赤く色づいていた。

「でもな、それで良いんだ。」

「なんでよ。おいちゃんも聞いてみれば良いじゃないの。ちゃんと読んでるか?安心しろよ。コウタは立派に将来の夢を見つけたぞ。とか。」

「聞かなくても大丈夫だったんだ。」

「なんでよ。せっかく書いてるのに。おいちゃんが頑張って。照れ屋の武骨の、T H E日本男児みたいなおいちゃんが。何か言ってくれてもいいのにね。」

「良いんだよ、それで。次の日からミカコさん、ちゃんと食卓に俺の分の食事とコウタの分の食事も作ってくれるようになった。それだけで十分だったんだよ。」

「分かるような、分からないような感じだけど、そんなもんなのかね。」

「万引きで捕まった日を境に、コウタはしっかりと家に帰ってくるようになった。そして近所のコンビニでバイトをするようになったんだよ。きっとあいつも無理していたんだと思う。別に悪い友達と付き合いたかったわけじゃないんだ。孤独だったんだよ。だけどその孤独を俺たちが埋めてやることができていなかった。と言うよりも、孤独を埋めることから逃げていたんだ。これでやっと家族になれる。本物の家族になれるって思ってたんだよ。やっとだ。やっとだ、って。だから、もう半年経つのに、まだまだ実感なんて湧かないんだ。何が現実で、何が幻なのか。」

一つだけ大きな深呼吸をしてから、おいちゃんはあの日からの記憶を、ゆっくりと、絞り出すように語り出した。

みちのくを、いや日本を変えたあの日からの記憶を。

 

 

明日の20時公開。

隠し味には醤油を入れて④へ続く