そんな訳で分けた「夜行快速やその他諸々の旅の思い出ベスト5」です。うっとうしいくらい長いですが、良ければどうぞ。
【旅の思い出第5位】デッキでの一夜
99年夏、今年も夏コミ(1999.8.13~8.15)に行くべく準備していたのだが、一緒に東京まで行く友人も私も13日以降の休みは取れたのだが、前日の12日の丸1日の休みが取れなくて、半日有給だったり早退だったりで、なんとか12日夜に大垣駅を出る全車自由席の方の大垣夜行には乗れそうな手配を済ませて、岡山駅に17時半頃集まり、さすがにそこから全部鈍行だと大垣夜行に間に合わないので、姫路まで新幹線に乗って、姫路から新快速で米原に行き、更に普通列車に乗り換えて大垣まで行き、やっとこ到着したのは21時。一応大垣夜行に乗れるのは乗れるが、座席に座ってマターリは無理だし、この旅の計画を立てた時点でそれは無理だとわかっていた。そして案の定大垣駅5番ホームには乗り込み口を起点にジャバラ式にうねうねうね~と並んでおり、我々もおとなしくその列の最後列に並ぶ。
大垣駅5番ホーム(2013.8.9撮影)
[特別付録]大垣夜行の頃の列の並び方
エクセルで簡単に作ったものなので、この図だけじゃちょっとわかりにくいと思うので一応注釈。オレンジ色が大垣夜行の1車両で、両端の黄緑で出入口ってあるのがその名の通り出入口。大体両脇にドアがあるタイプの車両が使われていて、真ん中にドアがあるタイプはまず来ません。そしてそのムーンライトながら(大垣夜行)出入口と書かれた場所から黒色の感じで整いながら並びます。閑散期ならともかく、コミケ前夜の大垣発やコミケ最終日の品川発はとんでもない人数がくるので、こんな感じのジャバラ式に並びます。こうしないと後から来る人がはみ出てしまうし、90年代後半のこの時期の大垣夜行はこんなにキツキツに並んでも22時半くらいに来た人はホームがパンパンで並ぶ所が無くて往生したって人もいたくらい。もちろん列車が入線して先頭からなだれ込む際にはジャバラ列をこっそり1列ワープしようとして成功したり、止められたり、喧嘩になったりとか、まぁそういうトラブルもたまにありましたね…。
そんなこんなで99年の夏の話に戻る。我々は21時頃大垣駅に着いて、結構な人数が並んでる最後尾に座り、大垣夜行を待った。22時40分くらいに大垣駅5番ホームに11両で入ってきて、1パック50円の卵を争うオバサンなんか目じゃないくらいの座席争奪戦のスタートだ。だが、私は座席は無理ならばと対応策を考えていた。8号車寄りの9号車出入口に並んだのもその対策の1つだ。私と友人がようやくドアを跨ぎ車両の中に入ると友人が座席方面に行こうとするので小声で「ストップ!」と言いながら服を引っ張る。この時点で座席なんか狙えないんだからその次を探すべきなのである。で、その次というのがデッキに居座ることである。ただのデッキではない。当時の大垣夜行は4両+4両で運行、ピーク時は4両+4両+3両で運行されるので、8両目と9両目の間は運転席があるデッキなのだ。もちろん運転席には入れないが、連結した連結幌の部分から通路が伸びるんだよね。そこ。そこが狙い目。後から入ってきた「え?座席に座れそうにないけど、デッキに座り込んでええんやろか…」ってまごまごしてる人達の不安そうな目つきをよそにさっさと連結幌からの通路部分に岡山駅で買っておいた新聞紙を広げ自陣地を形成。てか先手先手を打たないとどんどん追い込まれるだけで意味ないんだよね。
え?通路に陣取ったらそこを通る人や車掌の検札の邪魔になるじゃないかって?さっき挙げた図みたいにホームに出来るだけ詰めてキツキツに並ぶくらいの人が車両内に入ってくるんよ。そんなんどの道無理なんだって。さすがに閑散期とかだと検札にも来るし往来もあるけど、コミケ前夜の大垣夜行では無理な話で、ウチらがやらんかっても誰かがやるのよ。それだけ人数あたりのスペースがないの。じゃあ誰かに取られて狭い所で一夜を過ごすくらいならウチらが先手を取るよねって話で。実際、ウチらが陣取った後で余った場所をみんな陣取るようになったけど、狭い中に何人も陣取ったから三角座りで寝なきゃならん状態の中でウチらは余裕シャクシャクやったもんwそして夜中の3時頃に目が覚めた時に友人もたまたま起きててのんびりしていたので
俺「どや。先手打ってここの場所取って正解やったやろがい」
友人「ホンマじゃなー。両方の車両内通路もその先のデッキも同じ感じになってるもんな」
俺「この時期の大垣夜行は検札とかどの道無理なんよ。駅のホームにあれだけの人数が居てそれが全員車内に入ってくるんやでw」
なんて会話をするくらい、のんびりした移動時間だった。それはそれで楽しかったのだが、1つトラブルも発生した。連結幌の向こうの同じような場所に陣取った若者共が、スピーカーをオーディオプレイヤーに繋げて、連結部のドアの取っ手に引っ掛けてそこそこデカい音量で流し始めた。さすがにフリーダムな大垣夜行でもそれはキツいわ。いや音楽を垂れ流してる側としては舞い上がった気分を更に高揚させるのだろうが、巻き込まれる者がキツい。それでもしばらくは黙っていたのだが、0時半過ぎてもジャガジャガジャガジャガ流れてくるのでさすがに我慢の限界で「うっさいねん!今何時や思うとんじゃボケェ!」と壁を蹴りながら怒鳴り散らしたら停止ボタン押してくれたが、ホンマ迷惑やったなぁ。
そんなイザコザもありながら夜行は5時過ぎに東京に到着。「な~!!東京か~。何回来てもええのぅ!!」と言いながら先着していたムーンライトながらの折り返し普通静岡行きのドア付近で待機。さぁ373系のふかふか椅子に座ってもうひと眠りすっか。と車内清掃を待っていたら友人が「おい、階段にあいつらおるぞ」と言う。よく見たら夜中に連結部で音楽をジャガジャガ流したバカモノ共が下に降りる階段の中腹で待ち構えとるわwまぁ直接「お前こっちこいや」という度胸もないけど、階段降りてきたらどさくさ紛れにやっちゃおうって腹だったのだろう。どこまで小さいんだろうなぁ。ただまぁウチらはウチらでハナから373系に乗り換える予定だし、もう後ろに何人か並んでるし、そんなことでパァにするのもバカバカしいから、向こうを煽る訳でもなく、ただただ知らん顔でこっちはこっちで談笑してたら知らん間にいなくなってた。慣れない旅の中で小さく弾けてみたかったんだろう。もう、困った子達だよ。(;´・ω・)
そんな訳で373系にのって熱海まで寝て、熱海駅前のファミマで買い物をして、再び東京行きの普通列車に乗り込み、また寝て新橋で降りてゆりかもめに乗り換えてコミケに行ったが、今思うとすっげーカオスだったなアレw
参考資料:90年代の夜行快速動画
【旅の思い出第4位】夜行はオトナになってから!
90年代は当たり前のように夏には大垣夜行やムーンライトながらに乗って東京に行き、コミケ行ったりアキバで遊んだり新宿で遊んだりして、また大垣夜行に乗って岡山に帰ってたのだが、そんな経験をした2000年夏。ミレニアムな夏である。いつもの通り午後5時には品川駅7番ホームに到着し、大垣夜行の出入口表示の所の先頭で新聞紙引いて待機していた。(※現在の品川駅7番ホームは上野東京ラインの発着ホームだが、当時は7番ホームと8番ホームの島全体が臨時ホームだった。)
http://snavinet.fc2web.com/ogaki_night_train.html
こんな感じで。
この方のブログでは7月末の大垣夜行だからまだ控えめだったが、夏コミや冬コミ近辺ともなれば20時の時点でかなりの人数になってます。ジャバラの列の3段目・4段目に突入。もうすっげーわいわいしてる状態です。更に22時とかになるとホームがパンパン。座席に座るかどうか以前に乗り込めるのかどうかすら怪しいといった状態に。ちなみに品川駅での大垣夜行待機は夏はわりと涼しくて過ごしやすいが冬はかなり寒くてキツかったなぁ…。
そんな中で17時過ぎには品川駅に着き、階段降りてすぐのながら乗降口の表示の所で待つ。もちろん先頭だ。とりあえず上の売店で買った新聞を一通り読んで、その後で自分の座ってる位置に新聞紙広げて敷いて、コミケカタログを枕にして、更に荷物を自分の手足にガンジガラメにして2時間半程寝る。(※この行為はいろんな意味で危ないので良い子は絶対マネしないように。)起きたのは20時半くらいで、その時点でそこそこ並んでいた。あとまぁ隣の東海道線ホームから見てた人はロクでもないものを見るような視線を浴びせてたのだろう。無理ない話だ。逆の立場になったら私も絶対「なんやこいつ!」って思うw尚、このタイミングで寝る理由は大垣夜行の走行中にずっと起きて夜行を楽しみたいからだ。そしてそこで起きて以降はまず寝ない。変に寝過ごすと困るしね…。そして私の次に並んでた人から「よーこんな状況下で寝れるなぁ」と言われ、「いやー暇で暇でしゃーなかったから寝てたわw」と返して、その後会話が続いたり、ez-webでネットを見たり、一筆芸。(※当時ez-web公式サイトでやってた読者投稿型小ネタサイト)を見たり投稿したりしていた。そんなこんなで22時か22時半あたりで回りの人に「ちょっとトイレと買い物行ってくるから荷物見てて」と言って階段を上がって所用をこなす。23時を少し過ぎると大垣夜行が入線するのでそれまでにトイレ行ったり、夜行で飲む物を買っておく必要があるのだ。尚、品川発は23:55だったが入線は1時間近く前の23:05あたり。まぁ個人的には1時間も前から列車に乗れるので嬉しい限りだ。
そして自分がホームに戻ってきたら周りの人に「今度は俺が行くからちょっと見といて」と言われるのでオッケー♪と返して送り出す。お互いにそういうことをしながらキッチリ準備を済ませて23時である。さぁいよいよ入線ですよ。田町方面から湘南色の車両がとてもゆっくりやってくる。165系か167系かは忘れた。ただ、ここで狙う席は1つ。基本的にボックス席ばかりなのだが、車両のハシにボックスの片割れの単独2席の所があるので、そこの南向き窓側。そこが特等席。まぁ列の先頭だから楽勝で取れたんですけどね。そんでその特等席からホームやコンコースに上がる階段も見れるので、わらわらわらわらと苛烈なイス取りゲームを眺めることもできた。列先頭の特権と言っていい。人によっては悪趣味と思うかもしれないが、個人的には楽しくて仕方ないんだwふふへへ。
まぁでも10分もすれば大体固定してきて、狙った座席に座れた者、狙ってた訳じゃないがそこしか空いてないからそこに座った者、座席に見切りをつけていそいそとデッキや座席の真ん中を通る通路に陣地を敷いた者、まごまごしてたら置いていかれて貧乏くじを引いた者、いろいろいた結果として位置が決まる。ちなみにデッキで陣地を敷いたり、通路に陣地を敷く者もいたが、この頃のコミケ最終日品川発はそれすら許されない状況もままあり、ドアからどんどん入ってきてどんどん押し込まれて通路もデッキも全員立った状態で大垣までの7時間耐久レースを強いられるパターンもあった。というか今回の夜行(※2000年8月13日品川発)もそうだった。こうなると正直悲惨なので、なるべく早めに大垣駅5番ホームや品川駅7番ホームに行かないとマズかったのだ。
ありし日のムーンライトながら(拾い物)
これは373系なので臨時の大垣夜行ではないが、まぁまだマシな方だよね。通路で寝れるだけ。さっき言った通りヒドい時には通路もデッキも全員立った上で、走行中に冷房がイカれて車両内がすんげぇ蒸し暑くなるわ、冷房の吹き出し口から得体の知れない液体がボタボタ漏れるんだけど、その漏れる先にいる人も通路ギッチギチだから避けられなくて「いやーーー、何これーーー!」「いやーーー、つめたいーーーー!」っていう女性の甲高い声を数度聞かされる地獄を見たことある。特等席から。
まぁそんなこんなで特等席から品川駅7番ホームをボケーっと眺めていたら23:40頃異変が起きる。20代らしい母ちゃんがまだ未就学児と思われる子供2人を連れて悠々と階段を降りてきた。
「ま、まさかとは思うが乗るつもりじゃないよね…。どこの車両もギッチギチやで今日は…。てか諦めて帰って明日新幹線で行った方がええで…」と思うが、特に声には出してはいない。こっちはギッチギチの車両内だし、ちょっと距離もあったから叫んだって聞こえないしね。そしてその母ちゃんはホームに降りるとビックリした表情で左右を見渡し、階段で降りた先が9両目だったので1両目方面に向かって子供と走り出したんだが、座る座らない以前に乗れたかどうかも怪しいんだが。それくらいギッチギチである。てかなぁ、時刻表で穴場の列車見つけて「え?21世紀になろう今時分にこんな古臭い夜行列車あるの?どうせそんな乗る人いないだろうし、これに乗って安く西に向かうか!」程度の心持ちで子供を連れて来たんだろうなぁ。もちろん閑散期のムーンライトながらや96年以前の閑散期・大垣夜行ならそれでも大丈夫な日もあるけど、18きっぷの時期がそんな訳ない。ましてやコミケの時期は非オタ系乗り鉄でも避けるレベルの込み具合だったりするんだ。まぁリサーチ不足ですなぁ。
まぁ、高校生以上のある程度の大人になってれば、勘違いからそんな痛い目に遭っても「いい勉強したな」くらいにしか思わないんだけど、やっぱ小さい子供を巻き添えにしてるんがね…。私みたいな特異な子供でもない限り辛い思い出やトラウマにしかならんやろしなぁ。
今後はこういった夜行列車は当面走ることはないと思うが、それ以外にも割と便利な列車とか長距離列車とかあるのだが、そういうのに乗るときはリサーチした方がいいですねぇ。今やパソコンやスマホからいくらでも検索できますし、ここで挙げた事例みたいに時代遅れの閑散とした列車に見えて実は時期によっては乗車率300%超!デッキや通路もすし詰めで全員立った状態!というビックリ列車だったりするからね…。ていうかあの親子は大丈夫やったんかいな…。発車してからホームを眺めていたが、親子はいなかった。デッキにギリギリ乗れたのか、向こう側の階段を昇って帰っていったのかは不明。
【旅の思い出第3位】東京駅のほぼ全員が注目した大喧嘩
確かこれは00年の冬だったかな?ひょっとしたら99年か01年かも知れんが。まぁそのくらいの年末の話ですわ。
いつものように大垣夜行で東京まで来て、冬コミ初日に向けて寝て体力をつけようとムーンライトながらの折り返し静岡行き373系のドア前でMDプレイヤーをイヤホンで聞きながら待っていた早朝5時、なーんか外がざわざわしている。何事かと思って周りを見回してみたが、特におかしいことはない。それでもなんかざわざわしている。仕方ないからイヤホンを外してみたら原因がわかった。ホームの天井近くに備え付けられたスピーカーからオバチャン2人の口喧嘩が生放送で流れていた。
…は?
なんでそんなことになった?JR東日本はハプニングバーに手を出す予定で、その予行演習で早朝に実験でもしてるのか?まぁそんなバカげた理由ではないだろうけど、何が原因かは知らんがスピーカーからオバチャン2人の口喧嘩が響き渡る。他のホームを見てもスピーカーをいぶかしげに眺める人もチョロチョロいたから多分全館放送だろう。すげーな、早朝の東京駅でこんな放送事故が聞けるとはw
そしてオバチャンの口喧嘩をずっと聞いていたが、基本的なサイクルはこんな感じ
①AがBの言動にカチンときて注意をする。
②Bもそんなつもりで言った訳じゃないのに急にキツく言われてカチンときてAに言い返す。
③Bが悪いのになんでそんなこと言われなきゃならないのよ。大体Aは昔からこんな感じで…
④なんでそんな昔のことを掘り返してくるのよ!その時言えばいいでしょうが!とBが反撃
⑤Aも、それを言うならBも昔の話をしてるじゃないのよ。大体アンタは…
⑥3~5がランダムに繰り返される
もう正直、途中から喧嘩になったきっかけなんかどうでもいい感じになってきて、「絶対引かない!向こうが折れる形じゃないと終われない!」という某巨大掲示板のような展開が数分続く。てか7分くらい経ったろうか。誰も止める気配がない。喧嘩の方も放送のスイッチも。駅員の誰か止めにいかないのだろうか?それとも早朝5時は人手が足りないのだろうか。それからもしばらく続いてなんだかんだで10分くらい無限ループの口喧嘩が流れたのだが、マジでなんでこの喧嘩が放送に乗った?そしてなんで誰も止めない?おそらくみんな思っていることだろうが、もうどうしようもない。聞いてる側としても東京駅の構内放送がどういうシステムかわかんないし、喧嘩を止めるにしても放送室がどこにあるかわかんないし、わかった所で関係者以外立ち入り禁止だろう。
全館放送での口喧嘩が流れ始めて10分が過ぎたあたりでガチャっとドアを開く音がして、若い男の声で「なにやってるんですか!放送されてますy…ブツッ!」というやりとりを最後に、早朝の東京駅エキサイティングショーは幕を閉じて、その途端にホームから階段を降りる人もそこそこいたw
それにしても、この騒動は20年前で良かったなぁ。今だったら誰かがスマホで録音して、各種動画サイトにうpられて、ある程度の世間の耳目を集めることになったろうが、00年前後の早朝の騒動なので誰もそんなことをしてないっぽくて、検索してみたがどうも残ってなさそうだ。今だったらまとめサイトにも転載されてコメ欄でボロクソ言われそう。世知辛い世の中になっちゃったねぇ。あともうあんな大規模駅での全館放送事故みたいなのを聞く機会もなさそうだねぇ。まぁ放送事故と言ってもオバチャンの口喧嘩程度なら全然OKだけど、機材トラブルによるアポカリプティックサウンドみたいな不穏な音楽が流れたらそれはちょっとキツいかな…。
【旅の思い出第2位】極寒の上諏訪駅
更に遡って1993年のGWの話です。前年秋の軽トラとの正面衝突の傷や後遺症もなんとか抜けて元気になってラジオ小僧としての活動にも再び腰を入れることになり、当時聞いてたラジオが宇都宮で遠距離リスナーとの集いイベントがあるというのでそれに行こうと思ったのと、宇都宮に行くついでに究極超人あ~るでお馴染みの飯田線に乗りに行こう!と無謀極まりない旅程を思いつき、93年5月2日~5月4日の3日間で全部やってしまう強行軍をすることになるが、当時まだ旅慣れてない状態で無茶なことやったもんだから、最後体調を崩すハメに。
まず5月2日の早朝に起きて始発便のバスに乗って岡山駅に行く予定だったが、目覚ましなんかブッチしていて7時過ぎに目が覚める。こうしてのっけから予定が狂うことになったが、まだ危機感はなく、アニメGS美神を見終わってから家を出て岡山駅に行き、そこから姫路・米原と乗り換えて豊橋へ。豊橋に着いたのが16時過ぎで、次の飯田線の快速伊那大島行きは18時20分くらいに出るので2時間近く時間が余ってしまい豊橋の駅ビルでアケ版のウルトラクイズとかしながら時間をつぶして、快速伊那大島行きに乗車。
快速伊那大島行き(1993/5/2 18時頃)
列車に揺られてのんびりと飯田線を進むが夜も更けてしまって景色はほとんど見れないし、中部天竜で20分程度停車時間があったので一応ウロウロはしてみたものの、21時を過ぎていたこともあって遠くになにがあるのかわからない上に、下山ダッシュも諦めることに。
もー真っ暗w(1993/5/2 21時頃)
そんなこんなで快速伊那大島行きに乗っていたが、途中でふと大切なことに気付く。今日どこで寝よう。最悪駅寝とは言え、ある程度の建物じゃないとマズい。時刻表を見て調べた結果飯田駅がちょうどいい。駅舎も改装されたばかりだし、探せば近くに安宿があるかもしれない。そんな訳で飯田で途中下車をする。まぁこんな所に突っかかる人もいないだろうけど一応言っとくと、岡山から豊橋と飯田と上諏訪と新宿と経由しての宇都宮行き往復きっぷを買っていたので10日間の途中下車有効だったのだ。
マルス券面ジェネレーターで作った往復きっぷ画像
まぁ93年と今とじゃ運賃もきっぷのサイズも違うので参考までに。尚、画像の運賃は現在このルートでの往復きっぷ買った場合の値段です。てかこのきっぷって(ゆき)のきっぷは宇都宮駅の駅員さんに無理言って持ち帰ったのに、現在紛失してしまってるのがなぁ…。
そんなこんなで22時半頃に飯田駅到着。とりあえず腹減ったから駅前のローソンでカルビ弁当買って、駅の待合室で食べていたが、相当疲れていたのか左手の手のひらからひっくり返るように落ちて食べる面が下になった状態で床に落下。まだ1/3くらいしか食べてないのに。…もう寝るか。近くに安宿あるかな?と思って駅前の電話ボックスの電話帳や広告を見たら割と近くに安い民宿があったので、電話を入れたら「お風呂の時間は過ぎてしまったので無理ですが、素泊まりなら大丈夫ですよ」と言われ、民宿に向かい泊まる。もう本当に水飲んでトイレ行って寝て起きたらすぐ出発した。朝5時には民宿を出て、飯田駅を5時半頃出る鈍行で岡谷・上諏訪方面に向かう。
早朝の飯田線から眺める景色も良かったな~。赤石山脈と木曽山脈の間を縫うように走る飯田線は景観が本当に良い。そんな景色に満足しつつ北行して上諏訪駅に到着したが、ここで時刻表をチェックするとこのまま鈍行や快速乗り継ぎじゃ13時までに宇都宮に着きそうにないことがわかった。これはマズい。そこに間に合わなかったら本末転倒もいいところだ。仕方ないから上諏訪から特急券を買って特急あずさ号に乗って一気に新宿へ。そこからホームを移動したらちょうど新宿発→宇都宮行き快速が停まっており、それに乗り込んで宇都宮へ。宇都宮に着いたのは12時過ぎだった。腹ごしらえをして目的地の駅東公園に向かい、公園の奥ばった所にある場所に向かうとすでに何人かリスナーがタムロしていた。まぁここなんだろう。そして着いたらそこにいたリスナーから「どこから来たん?」と言われたので「岡山から」というと「クソッ!太子町の俺が一番遠いと思っていたのに!」と言われる。ふふふ残念だったね。まぁ姫路の西にある太子町から宇都宮でもかなり遠距離ですがね。
そんなこんなでイベントが終わり、参加者の大半でこぞって宇都宮駅に行くことになって、2人いるMCの片方の人の荷物を「俺持ちますよ」ってことで駅まで持つことになったのだが、1分に1~2回の高頻度で「その荷物重いやろ?持ったろか?」と恩着せがましく連呼してくる人や、この前の年(1992年)の岡山の運動公園でのイベントでとんでもない人数が集まって中々サイン会が進まないトラブルの中で私が片方のMC列だけでもチャチャっと仕切って列を解消させたが、もう片方のMC列がただでさえ人が多い中で常連リスナー共が仕切るフリして実際はそのMCの周りにタムロって列の混雑そっちのけで質問しまくったり上級リスナー気取りでふるまったりしてカオスだった事件があったのだが、そんな片方のMCでの仕切りに関して「去年の岡山で仕切った話あったでしょ。あれ俺がやったんですよ。」と何の疑いもなく言うヤツもいたが、知ってか知らずかはわからんが、本人(俺)がそばにいる中でよー言うたなソレw(※仕切りの話自体はイベントの次の放送の時に触れられてた。)
まぁ言うてもそんな中で私もここで書いたりどこかで言うにはためらってしまうくらいの醜態や愚行もしてたし、まーなんだ。俺含めてみんな若かったなー(※遠い目)あ、でもね。サイン会の時の列で前年(1992年)の岡山までのイベント常連達って、サイン会始める時だけ「はい1列か2列―!」とか言って仕切るポーズだけやって、その2分後には列のことなんか見向きもせずにMCの近くで関係者気取りでたむろってただけっていう中々エグい環境だったけど、岡山の1件があって以降は変わったからね。(※というより、あの連中は全体を仕切る気分に浸りたいだけだよね。そもそも仕切り役が「1列か2列」なんて呼びかけ普通せんやろwどっちかに絞れやw単に自分が上級リスナーって妄想を満たす為に最初ちょろっと仕切って後は関係者ぶってサイン待ちの列を鈍らせるとかエグすぎるやろw)そんな環境に風穴は開けたからね!ただコレ30年前の話だから今どうなってるか知らんよ。そのラジオも25年くらい聞いてないしw)
そんなこんなでイベントは終わりました、ただ私の旅は終わってません。終わってないどころか残り半分です。楽しみです。宇都宮で駅うどん食った後に18時半くらいに宇都宮を出る新宿行きの鈍行にのって、新宿到着が20時半くらい。で、21時くらいに新宿を出る特急あずさ号に乗って上諏訪駅まで行く。朝イチで飯田線に乗りたいと思って特急代奮発して上諏訪まで行き、ここで泊まろうかと思ったものの、5月3日というゴールデンウィークの登山シーズン&行楽シーズンど真ん中でどこの宿に電話しても満室。んー仕方ない。駅寝でもすっかと思ったが、登山客用駅寝スペースはすでにいっぱい。みんな寝袋の中に入って陣取ってる。うわぁマジか。じべたに三角座りしてしのぐしかないぞ。そしてそれ以上にとんでもなく寒い。GWの時期の上諏訪の夜間気温ナメてた。軽装のまま来る所じゃなかった。寒すぎてガタガタいう。これを始発が来る翌朝5時まで我慢しなきゃならんのか。いくら当時19歳とはいえこれはキツい。そして今思い出しても本当にキツかった6時間が始まる。とにかく寒い。寒いんだけどそれを防ぐ手段がないからそこで我慢するしかない。そんな中で待合室をよく見てみると駅寝のスペースにほんの少しの空きがあったからそこにお邪魔しようと行ったら、隣の寝袋の兄ちゃんがナイフを取り出して「へへへー。このナイフ、切れ味最高だろうな~。」とナイフ舐めながら言い出したので、怖くて離れてまた自販機の横で三角座り。てか横でちょっと寝ることすら許されないのか。まぁ言動からして色々危ない人なんだろう。どの道近寄らない方がいい。
あと、一応自販機にあったか~いの飲料も売ってはいたし、何回か買ったけど、それで暖を取れるのは数分程度。すぐ冷める。そしてクソ寒い中で冷たくなったジュースを飲まなきゃならない事態を招く。まぁ2本目以降はある程度温い段階で飲んでたけど、気分はほぼほぼマッチ売りの少女。
寒くて寒くて寝れない午前3時。気分転換に駅の外を散歩してみたが、頭の中が「寒い」で占拠してしまって気分転換にはならなかった。その時の景色とか何も覚えてない。そんな地獄の夜が明けて午前5時。ようやく上諏訪発→豊橋行きの鈍行が入線した。やっと来たか。疲れ切った表情のままで改札を通り列車の中へ。一応ボックス席の進行方向窓側を余裕シャクシャクで取りはするが、もったいないことに飯田線の景色はほとんど見てない。上諏訪から豊橋の7時間か8時間ずっと寝ていた。というより体温計が無かったからはっきりした温度はわからないけど、37℃は超えてたと思う。(※私は平熱でも35℃無いので、37℃は中々の高熱。)起きてる時間も何も考えられない。というか行楽シーズンで明るくごった返す乗客がうっとうしくて仕方ない(※もちろん無計画で強行軍に出て体調崩した状態で列車に乗ってる私が2000%悪いんだが)。昼過ぎには豊橋に着いたのだが、もうそのへんから一切覚えてない。ここで倒れる訳には行かないから頑張って帰ったのだろうが、何も覚えてない。ていうか今考えたら菌をバラまきながら移動する極悪人だな。
上諏訪を出て以降の記憶が当時も今もあまりないが、なんとか5月4日の夜に岡山の家に帰れた。多分。ただこれで終わらなかった。93年GWの休みが4月29日(木)~5月5日(水)の1週間だったが、5月6日(木)になっても熱が全然引かずに38℃をキープ。そのまま7日(金)8日(土)も休んでしまい、大顰蹙を買いました。まぁGW明けに出勤してる人からみたら5月9日までハッピーGWが続いてるって思われるもんなぁ。もっとも全然ハッピーじゃなくて全然熱が下がらなくてのたうち回ってましたが。
いや~、あの時の旅はどこをどう考えても無謀だったな。旅慣れてそういうスキルを手に入れる前になんも考えずにぶっ飛んだ結果、多方面に迷惑をかけてしまった。駅寝するならするでその時その場所にあった準備をして行かなきゃねぇ。それにしても、上諏訪駅でナイフ舐めながら切れ味アピールしてきた兄ちゃんって今なにしてんだろうな。てかね、割り込んだ俺も悪いとは思うけど「おい、割り込んでんじゃねーよ」と言えばいいものを初手から刃物を舐めながら「へへへ…このナイフの切れ味は最高だろうなぁ~」って誰がどう考えても真っ当な人じゃないよね。普段どんな生活してんだ。まぁそんな感じで旅のスキルがあんま無い状態で片道941.7㎞(営業キロ)の旅に出るとこんな大失敗やらかすよって話でした。てかあの寒さは本当に辛かったわ…。
【旅の思い出第1位】400㎞先の奇跡の再会
いつもの通り18きっぷで東京に行ってコミケに行って仲間に会って楽しい夏旅だった2011年。ただ帰りのムーンライトながらに乗って豊橋を過ぎたあたりでふと『…さすがにマンネリ感出てきたなぁ。来年は東京やコミケ以外にも色々行きたいなぁ。』と思うようになり、桐生競艇と飯田線を強引に足した結果、前俺未踏の総乗車時間:約44時間半、移動距離:約2500㎞のかなりのロングランに。あとまぁ、2011年7月に同じ派遣会社の中で派遣先が変わって、2011年10月以降は残業!残業!休日出勤!更に夜勤!みたいな勤務体制になりお金が稼げたのと、普段はとにかく忙しかった所だったが、GWや夏季・冬季の休みが多くてそれも強行軍に打って出ていけるにはもってこいの状況だった。
そんなこんなで4泊6日の旅に出て、初日に18きっぷで東京へ行き、2日目は桐生競艇(群馬県)に行きナイターレースを楽しむ。3日目&4日目はコミケ行ったりオフ会やったり1人でアキバでマターリしたり。そして4日目の深夜のムーンライトながらで名古屋まで行く。まぁ本当は豊橋で降りたかったけど、ながらが臨時化して以降は豊橋は停車駅じゃなくなったからなぁ。(※運転停車はしているが、乗客は一切降りられない)ただまぁ名古屋まで行ったので重い荷物の半分以上をコインロッカーに預けることが出来た。受け取りは翌日の夕方だ。
左2つをコインロッカーに預けて身軽に! (2013/8/13 5:30)
さぁこれで荷物が軽くなって下山ダッシュも行けるってことで!そんなこんなの準備をして、鈍行に乗って豊橋まで行き、豊橋で駅うどんを食って、豊橋を8:11に出る天竜峡行きに乗って4時間マターリタイムである。ええなぁ。ふふふ。てかホンマに秘境線やなココ。って思いながら終点・天竜峡駅へ。駅の近くにある姑射橋から天竜川をしばらく眺めた後に某そば・うどん屋に行って腹ごしらえしようと思ったのだが、これが失敗だった。うどんを頼んだはずが苦手で食べられない和ソバが出てくるし、なにより注文してからソバが出てくるだけでかなり時間掛かったからここで「ソバじゃなくてうどん頼んだはずやけど!」って言ったとしても揉めてる時間と、揉めた末に作り直してそれを食べるとなると乗る予定の列車が出てしまう。超仕方なく我慢して口を経由してソバを体内に流し込んでいったが、さすがに途中で「無理!」と思って半分近く残したまま退店。なんでうどんを注文したのにソバが出てくんねん…!俺がソバアレルギーだったらどうする気なんだ。そして店を出たら更に不幸が襲う。結構な勢いの雨がいつの間にか降っていた。マジかい。前回(1993年)できなかった下山ダッシュをやりたかったのに!この為に忙しい中でもyoutubeの原付での下山ダッシュ動画を見まくって道順覚えてきたのに!くっそ~。今回も下山ダッシュが出来ないのか…。ぐぬぬ。
https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
下山ダッシュとは
そんな訳でガッカリしながら天竜峡駅の待合室に戻るが、私の他にも列車を待ってる人がいた。2人組で片方はゴン中山にちょっと似ている日本人で、もう1人は黒人。どうも2人で天竜峡に来たようで2人で外国語(※多分英語)で仲良く話している。外国から来た友人を連れて観光しているのだろうか。それにしてもその場所に天竜峡を選ぶのは中々渋いな…と思いながら私は1人で黙って待っていた。そして10分くらい経って伊那市方面の列車が入線してきたので私はその列車に乗り込む。だが、その2人組はずっと待合室でしゃべっていた。ん?乗らないのかな?それとも話が盛り上がって動きたくないのだろうか。そう思っていたが、私が乗っている伊那市方面の鈍行が天竜峡駅を出発しても待合室で談笑していた。豊橋行きの列車に乗るつもりだったのだろうか。まぁいいやと私は座席に座ってマターリ。そして先に田切に降りる予定だったが、ガッツリ寝過ごしてしまったので、田切を後回しにして伊那市駅で下車。ここがあ~るOVAのスタンプラリー終点・伊那市駅か。OVAの頃とあんま変わってないね。あとOVAとは直接関係ないんだけど、伊那市駅近くにある日本旅行南信州支店も見に行ってきました(※西園寺ツーリストを思いながら外観を見る者が私含めて多数w)
日本旅行 南信州支店(2012/8/13 16:10)
今年3月8日から営業再開されるのだとか。再開されるのはいいことですなぁ。だが調べたらその近くにある近ツリの伊那営業所は今年3月いっぱいで閉鎖して松本営業所と統合するのだとか。大変だ…。
そんなこんなで伊那市駅を出て、いよいよ光画部の面々が間違えて降りてしまっていらぬピンチを招いたあの場所ですよ。聖地ですよ。93年の時の田切駅はドアが開いて速攻できっぷ回収箱を撮ってダッシュで戻るって作業しかしてないし、帰りの飯田線に至っては風邪ひいてダウンしていたので本当に楽しみだったんだよね。
着いたーん♪(2012年8月13日17:03)
さぁ色々見て回るぞー!って駅はもちろん駅周辺もウロウロしていたが、やっぱあの高架下の場所は特に感動したよね。OVAの頃と変わってない!ここ!って。
その高架下(2012年8月13日17:07)
そして、1時間くらいウロウロして飯田行きの鈍行に乗って向かうのだが、昨日までの3日間東京に居たのでそのギャップで妙な気持で車窓を眺めてたっけか。そんなこんなで飯田駅に着いて19年前と同じ民宿に泊まり、7時ごろに起きて出発。飯田駅から伊那松島まで鈍行に乗って、そこから岡谷・松本と乗り継いで、松本からは3時間のロングラン。しかも塩尻を出て以降はずっと山と田んぼ。こう書くと単調な景色と取られかねないがそんなことはなくて、ものすごい見ごたえある景色だったのはビックリした。お金と時間と体調の都合がつけばまた行きたいものだ。ただ、お盆の時期なのもあって2両編成の車両内が座席も通路も人でいっぱいで、ワンマンカーだったのもあって、途中で降りるのは難しい感じだった。あとトイレとかも簡単に行けない感じだった。まぁ松本駅で済ましてたので大丈夫でしたが。そして松本からの列車が終点中津川に着き、そこからまた満員の快速列車に乗って名古屋へ。
ふー。やっと名古屋に着いたか。そうだ。この先大垣や米原でトイレ行く時間も無いし、前日朝にコインロッカーに預けた荷物を引き取ってトイレ行ってから新快速に乗るか!とまず荷物を引き取って男子トイレに入ろうとすると「あれ?今すれ違った人…?」と思い振り返ると、天竜峡駅の待合室にいた2人組のゴン中山系の人!え?マジか!てか前日の昼に天竜峡駅を出て約27時間!約400㎞移動した先で再会しようとは!そして向こうが手のひらをまっすぐにした状態でおでこに付けて離しての「よっ!」のポーズをしてきたのでこちらも同じ「よっ!」のポーズで挨拶。それだけやって私はトイレに入ったし、相手はトイレから離れてどこかへ行ってしまったが、めちゃくちゃ嬉しかったなぁ。向こうが昨日昼の天竜峡駅からどういうルートで名古屋に来たのかは知らないが、まぁこっちがあんなヘンテコなルートをたどった上で名古屋にいるとは思うまいw
今回の地図。直線距離だともっと近くなるんだけどねw
まぁ、この後に中々の苦難が待ち受けているのだが、そのへんは夏旅動画2012でも見てほしい。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm20072068
夏旅動画2012
そんな感じで個人的な旅の思い出ベスト5を思いつくまま書いてみたのだが、どうだっただろうか。まぁ他にもゆりかもめで隣に座ったイケメン外国人の着てるTシャツが亀仙流だったり、ML九州に岡山から乗ったら通路向こうに座ってた佐藤二朗似のオッサンがカラムーチョ食っててその匂いが車両内に広まってたり、岡山では放送しないミスチル特番が東京で放送される時にたまたま東京に居ててそれを見ようと思ったが、新宿での乗り換えを間違えて結果見れなかった話とか、深夜の浜松駅最高!とか夜中の両毛線や上野行き最終も素敵!とか、江戸川競艇からの帰りの総武線ロングシートで対面に座った女の子が、その後アキバのメイドカフェに居てそこはメイドに話しかけるの厳禁ではあったが、会計の際にわざわざ交代してまで対応してくれて、目線で会話しまくったりとか、ゲマズ前で紅白に出る水樹奈々を応援したりとか、SEGA秋葉原新館前での年越しハイテンションイベントとか、ムーンライトながらが台風で運休になってカプセルに泊まったはいいが、翌朝始発の列車に乗って乗り継いで乗り継いでもその日の夜勤はどうしても無理目になっており、浜松から店に電話を掛けて「これこれこういう訳で今岡山に戻ろうとしてるんで、すいません、今日の夜勤は無理です。え?新幹線?新幹線に乗れるほどのお金稼いでねーっスよ俺w」って会話をしたりとか、3DSですれちがいまくった話とか諸々あるにはあるのだが、多分文字数超えると思うし、まぁまたの機会にでも…。
まぁ、今回はこんな感じで。(-_-)ノ
https://ch.nicovideo.jp/socks_of_MESH/blomaga/ar334820
ゲマズ前で紅白に出る水樹奈々を応援した話
おまけ。てか今ニコ動のブロマガ見に行ったら10月に終わるとかマジか。マホらんに続いてこっちも終わるんか…。しかもamebaへの転載は不可とか。もうね。キツいわ。はてブで新規垢取ってそっちに移転させるかなぁ…。てか画像が転載されないからそれをやろうと思うと結構な労力だよね…。もう本当にニコニコ終わってんな…。日記代わりに書いたブログが消えるって結構なダメージなんやで…。