落語やお笑いは人の心を和ませる。
荒んだ世の中にあってもユニークなネタが心に潤いをもたらしてくれる。
でも、今のお笑いはユニーク(唯一、斬新、独創的)でないから、笑えないんじゃないのかな?
業界の意向もあるんだろうけど芸人を足がかりに売れたらすっかり転身する人が多い。
かけあい『漫才』や『コント』を持ち味にしている芸人が少ない。
売れてる芸人含め、ほとんどの芸人が誰かのパクリ。
瞬間芸、自虐ネタ、ネタをリズムに乗せて歌い上げる、予め用意したネタポップをめくる、大道具・小道具に頼る、気色悪さ・捨て身を売りにする。
たいていの芸人はこれに当てはまる気がする。
だから、どれを見てもパッとしない。
ついつい聞き入ってしまうような身振り手振りと言葉で魅了する芸人が少ない。
どうしてだろう?
一発当てれば、先があると思うがあまり、奇をてらうものが多い事もあるだろう。
奇抜さを持ち味にアピールしているならまだしも、ヤケでやったらたまたまウケたといったようなケースが多いように見える。
需要があるから供給があるという考えで無難に現代人気がある芸風を真似るということもあるだろう。
でも、これって芸人がどうのこうのとか言うよりも冒険ができない世の中だからなんじゃないのかな?
リベンジが効かない、一度つまらないと思われたら再起できない、捨てられてしまう。
一般社会でも蔓延しているこの状態が、ヤケ(一種のカケ)を起こさせたり、無難に走らせたりする。
ワンチャンスだからこそ究極に達するっていう見方もあるけど、一方でリベンジが効かない、再起できない社会には夢や希望がない。
夢や希望のない業界や職業に就いてしまった人が夢や希望を与えることはできない。
たとえ本人に実力があったとしても。
【現代経済というまやかし】によって成立している現代は、素直で純真で純粋にまっすぐ生きている人が生きるのに苦しい世の中になっている。◎現代経済の限界を悟る/http://ameblo.jp/soboku-question/entry-10095230054.html
「もっとズルくならないとこの世の中渡れないよ」なんて言われた事ある人もいるんじゃないかな。
「ズルくないと生きられない」というのは、世の中が「ズルい事だらけ」だからに他ならない。
現代経済はその象徴であると言っていい。
昔、コールセンターができ始めたころ、センター長という職を勧められたことがある。
需要は絶対にあるし、事業として伸びるのは間違いないだろう。
でも、即、断った。
なぜなら、こう思ったからだ。
コールセンターは、それだけで成立するビジネスではなく、依頼主がいて、依頼主の代わりにクレーム対応やお客様相談室のような対応をする仕事であり、依頼主は、過剰な負担を社員にかけたくない上に人件費は抑制したいという思いが強いはずなので部下はおのずとアルバイト・パートになるだろう。
部下のほとんどがパートアルバイトで、仕事内容はファーストフードなどとは大きく違い、企業の顔である上に、たいていの場合、依頼主1社で成立するビジネスではない。
チーム分けをするにしても複数の企業の商品・サービスの対応を迫られることになる。
きっとマニュアルを作って、大方の対応はマニュアルに沿って行うのだろう。
その依頼主企業の商品やサービスに直接携わるわけでもなく、それでいて商品やサービスの詳細な説明やクレーム対応にあたらなければならない。
果たして、その商品やサービスに愛情がわくだろうか?湧かないとすれば、お客様への対応を誠意を持って行うことができるだろうか?
私が出した答えはNO。
さらに、お客様から電話を受ける事もさることながら、コールセンターから手当たり次第に営業電話をかけまくるということも想定できる。
それは、それで仕事として成り立つとしても、もし自分がとてもお勧めできない、自分にかかってきたら不愉快だと思うような商品やサービスの営業電話であったとしても自分がではなく部下がかけなくてはならないとしても、とてもじゃないけど割り切る事ができない。
でも、仕事だし、その商品・サービスを提供している企業は、コールセンターからすれば顧客なので無視する事はできない。
コールセンターの仕事をとってくる営業職なら、選択できないこともないけど、売上を上げるという営業の職務からして、選んでいられるほど日々売り上げを上げるのは厳しいだろう。
また、自分が電話をかけるわけでも受けるわけでもないという他人事の営業もいるだろう。
そうなると嫌でもその仕事をしなければならない。
そうなると尚更、依頼企業の商品・サービスへの問い合わせや特にクレームに対して誠意を持って対応するなんてできるだろうか?
自分が釈然としない仕事を部下に頼めるだろうか?
答えはNO。だから断った。
でも、こうして◎NOと言える日本人/http://ameblo.jp/soboku-question/entry-10091433846.html は、どれほどいるだろう?
例えば、このケースでは職に就く前に勧められたのでNOと言えたとも言える。
でも、他に職がなく、しがみつくという事もあるだろう。
まして、既に職についている状況なら、こうした時NOと言えない状況をどう脱するのだろう?
もし、部下から不満があがったら、納得いきませんといわれたら、仕事とはそういうものだと、無理矢理、理不尽でも、言いくるめてでも、やらせることになっているのでは?
でも、そういう仕事を会社として取ってこないといけないとしたら、それはもうその会社の存在意義はないと考えた方がいいんじゃないのかな?
依頼された仕事が倫理にかなったものかなどを判断できずに、判断した結果でも、とらなくてはならない状況は、考えものだろう。
◎「正論」「理路整然」「筋が通った話」は「理想」「偽善」?!/http://ameblo.jp/soboku-question/entry-10090316227.html
さらにコールセンターというビジネスモデルを肯定して意味があるというのなら、最大の使命は、依頼主の企業に働いているのと同じ気持ちで商品やサービスを知ることから始めて調べつくして、入手できるものなら、受けられるものなら使い倒す、サービスを自分で受けるくらいの気概を持って、商品サービスに愛情を持って、お客様に対応するという姿勢が大前提になくてはならないんじゃないかな?
今は、直接店頭に行ってもhttp://ameblo.jp/soboku-question/theme-10002415328.html の中の『◎キーッ!PCデポに発狂!腹が立つ!』のような事もあるわけだけど。
役所にしても同じなんだけど。
どれにしてもさ、社会には愛情が希薄になったよね。
杓子定規、事務的というだけで空気が冷たい。
しかも役所のように偉そうな態度だと頭にくるけど、ある市役所では、クレームが多発して行政指導があったのか、突然、住民票待ちをしていても『◎◎番でお待ちのお客様』というコールが。。。やりすぎだろ!と思うは私だけだろうか?
要するに根本になる心や役所内の体質がそもそもズレているから、改善してもその結果がおかしくなる。
世間話も交えて会話する、心と心が触れ合う、おもしろければ笑う、そんな自然なスタイルを現代は、現代経済は許さない風潮がある。
マニュアルにない事は無駄だと考えるからだ。
心寂れていくのはこういうところからなのに。
効率を重視するがあまり、人の一挙手一投足まで縛りかねない世の中だ。
あれから10年、最近、そのコールセンターが激増している。
消費者は気付かない場合も多いかもしれないけど、テクニカルサービスやお客様相談室、クレーム対応などの連絡先で電話に出る、メールで応答する人たちのほとんどは、この商品・サービスを提供している企業ではなく、コールセンターだと考えていいだろう。
そしてまた、このクレーム対応における、冷血さ、冷酷さ、他人事で誠意なく、杓子定規に事務的に無感情で誠意もなく、ただただ仕事だから、好きでやっているわけではないからという空気がヒシヒシと伝わってくるケースが後を絶たない。
しかも杓子定規で無感情なので言葉を発すると偉そうに聞こえる。
企業イメージダウンもいいところだ。
でも、イメージダウンさせているのは、コールセンターだ。
でも、クレームであったとしても商品を実際に買って頂いた、利用してくださったお客様は、まだそうでない見込み客よりも大切だ。
そんな大切なお客様からの有難いお問い合わせを、企業にとっては次につながるかもしれない、クレームへの対応の良さが感激を呼び口コミで広がるかもしれない、そんな有難いお問い合わせをアウトソーシングして他の企業に投げてしまう企業こそ、お客様軽視ではないのか。
昔の商店街や大型化する前のスーパーは味があった。人情味に溢れてた。
中にはぶっきらぼうな人もいたけど、人情味溢れた中にそういう人がいるとそれはそれで興味深かった。
でも、今は違う。現代経済は違う。スピードが速度超過した現代経済は更に尚違う。
心がない。
感謝の気持ちが希薄だ。
思いやりや尊ぶという気持ちがない。
理解力のない人が多すぎる。
物事の本質が見えていない人が多すぎる。
物事を深く考える人が少なすぎる。
気づきが足りなすぎる。
そんな企業に存在意義などない。
カネに目がくらみ、それだけに邁進する企業も人も存在意義などない。
体裁だけ繕ってパフォーマンスだけは人一倍で中身がお粗末。
そんな日本に魅力はない。
そこに気づけば、渦中の人でも変わる事ができるのに。
そんな空気を作ってしまっている、そんな中にある政治や企業や人々が多いほど悲惨だ。
だから世の中殺伐としてくるんだから。
哀れな世の中だ。
大自然に身をおけば、心も潤うかも。
自然の恩恵をありがたいと思えたときに。