2015年8月31日(月) 善名称院(別称:真田庵)にて。
路地を入るとその寺院はある。かの有名な真田父子が生活していたと伝わる場所である。寺院は低い塀に囲まれ、門を潜ると、こじんまりとした院内には、本堂や真田地主大権現、句碑、宝物資料館等がある。
【真田庵外観】
蟄居14年目にして訪れた大坂からの誘いが信繁のその後の人生を大きく変えることになるのだが、その14年という歳月に思いを馳せると感慨深いものがある。信繁がその歳月で失ったもの、形あるものないもの問わず、数え切れなかったのではないだろうか。稀代の戦術家である父の真田昌幸をも、その歳月の中で失っている。名将と名高い父の薫陶を受け戦場を経験するも、父の名声と次男坊という立場がその存在を隠してしまったのかと思わせるほど、世間の認知度は低く、ほぼ無名に近かったという。第一次上田合戦で徳川軍を撃破、有名な犬伏の別れを経て、第二次上田合戦では、緩急つけた戦術で徳川軍を足止めさせることに成功、局地戦とはいえ勝利を収める。
関ヶ原の戦いが1日という想定外の速さで勝敗を決したことは、父子にとっては大誤算であったと思う。連携していた石田三成は伊吹山中に逃走、西軍は1日をもってほぼ瓦解することに。一度掴んだ勝利はアッという間に手を離れ、混乱や無念さが渦巻く中、気付いたらこの境遇になっていたのではないだろうか。それから14年、混乱や無念の刀も鞘に修まり、もしかしたら、諦めがもたらす静寂の中に、ささやかながら穏やかさを感じるような境遇になっていたのかもしれない。
父の名声を笠に着て大坂城に入城したところで…自身でもその能力を正確に測ることが出来たであろうか?蟄居14年、自身も周りの者も歳をとった。以前のように戦場を縦横無尽に駆け回れるのか、集合した将兵どもを指揮出来るのか、不安はあったであろうが、14年前の思いは、14年という歳月を経てもなお消えることはなかったのだろう。
「再び戦場で采配を振るうことなど夢のまた夢」このままこの地で朽ち果てることになるのだろうと、きっと覚悟していたと思う。全くもって運命とは解らないものである。方広寺鐘銘の字句が、信繁はじめ入城後に運命を共にする後藤又兵衛等将兵の人生を変えることになるのである。
入城後の活躍は周知の通りである。行かなかったらどうだったのか、歴史に「もし…」は不要と言われるが、もし仮に行かなかったとしても結果は同じだったのかもしれない。歴史の流れに吞み込まれることには変わりなかった。呑み込まれ方が違うだけ…。ただ言えることは、歴史に名を遺した。今もなお人々の心の中に生き続けている。今自分がここに佇んでいるのも、信繁が自分の中に存在し影響を与えているからである。信繁がここで死を迎えていたとしたら、きっと自分はこの場所を訪れることもなければ、この場所を知ることもなかったであろう。
【真田庵】
人生は結局その時その時、この後何がどうなるかなど知る由もない。予想はあくまで予想、結果はあくまで結果でしかない。考るより直感、努力より運、連帯より孤独と、それらが人生というものを味わい深いものにしているのかもしれない。
「人生を味わえているか?」
(信繁の問いかけ)
そんなことを思いながら佇んでいる私に、「ほら行くよ」と妻の声。
「そうだね」と私。
信繁が心を決めたのも、「ほら行くよ」
そんな言葉だったのかもしれない。
案山子の独り言![]()
「寒暖の差が、味わいを増させ、人を感動させる」

