Shiiの『育児イロイロ☆ナナイロブログ』 -13ページ目
名取の旦那実家には、

義父、弟、妹が暮らしている。

近くの介護施設には、認知症の94歳の義祖母。


前に記述したように、

義母は、病気で6年前に亡くなっている。



私は、義母に会ったことがない。

旦那と出会った時には、亡くなってから2年が経っていた。



当時、付き合って半年程の私を

義父は、三回忌の法要に招いてくれた。


義母に会ったこともない、親族でもない私が、良いのだろうかと思いつつ参列させてもらったが、


お寺でお経が読まれる間、


ずっと、涙が止まらなかった。




旦那は、山形で私の母に会ったときに、


雰囲気が、自分の母親に似ていると言っていた。



世話やきだったり、

心配性だったり、

ちょっと抜けてたり、

そして、

子供達に愛情たっぷりで。



そんな事を聞いていたからかもしれない。


母とリンクして、

もし母を失ったら、という想いもあった。


そして、旦那を生んで育ててくれた、お義母さんに


一度でいいから、会いたかった。



悲しいだけじゃなく、悔しくもあったのかもしれない。





『母親』という存在。



私は今も健在な母に、

甘えて頼っている。


いなくなるとは、考えられない存在。


今もケンカもするし、心配性過ぎて面倒だと思ったりするけど、


すべて、私を思って心配してくれているからこそ。



そんな母が、大好きだ。



『母は偉大』


まさに、そう思う。


私の理想は、母のように愛に溢れた母親になることだ。



母に、溢れんばかりの愛情をもらったから、


私も娘に、たくさんの愛情を注いであげられる。





今回の地震で、


介護施設にいる、

山形の認知症の祖母も、
名取の認知症の義祖母も含め、


両家の家族すべてが、


無事で、本当に良かった。





地震以来、市外に出るのは初めてだ。


名取市に入った。


衝撃。


初めて、目の前で半壊している家や、道路の歪みを見た。



ワンセグや新聞で、津波被害は取り上げられていたが、

地震による建物の被害は、私達のマンション周辺では、特に見られなかった。


幸い、旦那実家周辺は、名取とはいえ津波被害は届かない所だった。


しかし、やはり仙台市内より震度が強かった事を物語っている。



少なからず、
危険な所に来てしまったような、危機感。




ただ、よくよく見ていると、


よほど古い建物にしか倒壊の被害はなく、

瓦屋根が割れていたり、塀が崩れたりしているものの、

家自体は無事なのが、ほとんどだった。



現代の日本の建築技術と、耐震技術の高さを

立証しているようだった。


しかし、


地震には耐えたが、

津波の威力と破壊力には、

太刀打ちできないんだな。


津波被害は、こういった倒壊なんかの比ではないのだ。


まだ、その現場を見る勇気は、到底ない。



旦那の家族も、近づいてはいないと言う。


ただ、家の近くの市民体育館が安置所になっていて、


その前を通っただけでも、なんとも言えない気持ちになったそうだ。






名取の実家に着くと、

築9年ほどの家には、全く損傷はなく、

家の中も、すでに綺麗に片付いていた。



避難所と、まだ片付かないマンションを行き来していたからか、


あっという間に、日常に戻ったような感覚だった。



石油ストーブに火を付ける。


ストーブのオレンジのやわらかい炎は、


やけにホッとさせた。



外は、少し薄暗くなってきた。


懐中電灯と、キャンプ用のライトを付ける。


一気に、サバイバル感が増した。




暗くなる前に、一階のリビングに布団を敷いた。



まだ、余震も多く電気が無いため、


みんなで一緒に眠る。



二枚分の布団の上で、


娘は、広々とハイハイをしている。




懐中電灯の明かりのキッチンで、


夕飯の支度を手伝う。


今晩のメニューは、

私が冷凍庫から持ってきた、

冷凍餃子と、

冷凍していた豚肉で野菜炒め。


そして、白い温かいご飯。



なんて、贅沢なんだ。




お湯を沸かして、


娘には、離乳食のレトルトを温めた。



ガスと水が使えるだけでも、違うな。





義妹が、鍋でご飯を炊き始めた。




サバイバル生活も、手慣れたものだ。







また、義父妹が来てくれた。


ガソリンは、あまりの行列に断念したようだった。



まだガソリンは幾分あるからと、

荷物を持ち、隣の二家族に


私「ひとまず今日は、旦那の実家に行くので、いない間スペース使って下さい。」

と伝えると、

隣の奥さん「ありがとうございます。私達も離れるときがあるので、何か置いておいた方がいいかもしれないです。」


と言われ、大きめのひざ掛けを置いていった。


隣の子供達が、


「***ちゃん、バイバイ」

「***ちゃん、また来る?」

と、声をかけてくれた。


私「また来るよ。バイバイ」




安心したような、不安なような複雑な気持ちで

避難所を後にした。



一度、マンションに寄り、

冷凍物やカップラ等を持って行く。

電気が通ってないけど、冷凍したお肉なんて、

まだカチカチだった。



念のため、落としていったブレーカーを上げてみる。

やっぱり、まだ電気は付かなかった。


また、ブレーカーを落としてマンションを出た。


私達の車は、すでにエンプティが付いている。


いつ動かせるか分からないまま、マンションに置いてきた。




名取の実家も、あまり電波が良くないらしく、

街中を通る少しの時間が、

携帯を使えるチャンスだった。




街中に入ると、電波が入った!



メールを問い合わせると、


なかなか、受信が完了しない。



メール、どんだけ来てるんだ!?


ようやく受信が完了すると、

メール受信のマークに、いつもは件数が出るのだが、


「+(プラス)」と表示されていた。


確実に10件はオーバーした。




開くと、

災害情報のメールも多かったが、


携帯が繋がらない約一日の間に、


電話が通じないために、

留守番 着信通知のメールと、

安否確認が十数件入っていた。


着信通知を見ると、

義弟、義妹、仙台の友達とその旦那くん、父、母。


メールは、

山形、仙台市内、関東の友達等。


心配して、何度か電話もメールをくれた人が何人かいた。


メールをくれているこの人達は、無事だったんだと安堵した。


と同時に、


宮城県でも海沿いや、岩手の友人からは無く、安否が心配になった。



私が、メール受信に時間がかかっている間に、

旦那が母に電話をしてくれて、名取に向かってる旨を伝え、私に代わった。


母の声に、また泣きそうになった。


母は、私達が名取に向かうと聞いて、

一気に、不安になったようだった。



私「名取のお家は、ガスと水は復旧して、津波の被害もないし大丈夫だよ。」


心配をかけまいとするが、

母「山形に来れないの!?」


私「ガソリン無いもん。」

母「あぁ、そうかぁ。こっちも無いのよ。」


大丈夫だから、また連絡するというとまもなく電話が切れた。


また、圏外に入った。