欲しがらずとも与えられた人は
ほしい、と言わなくてももらえるので
言う機会がほとんどありません。
ほしいと思う前に
どんどん、与えられるので
いつしか、ほしいという気持ちを感じることが
本当に少なくなってきます。
求めずともやってくるもので
自動的に揃っているから
それで暮らしていくことができてしまって
「既に手元にあるから、欲しがるのはよくないかな」
と、
ほしいものが、「余計なもの」に思えてくる。
ほしいのに、「いらないもの」になる。
欲が不要なものに思える。
ほしいのに、「ほしい」と言えない。
「ほしい」と思った自分が、霞みます。
その、すばらしいはずのものが
鈍い光しか放たなくなるんです。
それが普通になると、
「ほしい」と言うのは、とても怖いこと になります。
リスクを背負って
手元にあるものをいらないとはねつけて
スペースをあけて
わざわざ、我を通すことと同じなので
すごく難しいんです。
そんな我を通すほどの自信を
私は持ち合わせていなかったので
もっと言及すれば、
「ほしい」気持ち
「好きだ」と思う自分の気持ちに
自信を持つことができなくて
「ほしい」とまで、言えないんです。
言えないと、なかったことになってしまうこともたくさんあるのに
不用意に発言できないんです。
それが本当に「ほしい」か?
を、自分で時間をかけてすごく確認しないと自分の気持ちなのにわからないのも、とても不幸なことです。
気の毒だと思いません?
自分の気持ちなのに。
これらはとても「不幸」なことです。
本当は限りなく自由なはずなのに
重くてしんどい鎖に緊縛されるのと同じです。
しかも揃ってるから、
周りからは幸せそうに見えてしまうのです。
ほしくて揃ってるわけじゃないのに。笑
自動的に揃ったあらゆるものは
ありがたいものばかりだけれど
それはあまりにも多すぎて
自分には重すぎたのだ、と認めてあげると
本当に自分への「許可」が出ます。
荷物を減らして良い
不自由に感じるほどのスペースを空けていい
飢えていい
ほしいものがあっていい
「ほしい」と、言っていい、と。
読んでくださってありがとうございます

あでゅー




