紺美さんが選んだ
安楽死
日本では
認められていないけれど
スイスにいけば
条件さえかなえば
安楽死が受けられる
紺美さんのように
わたしがわたしであることを
保ちながら
尊厳をもって
安らかに終わりを
迎えることができる
紺美さんの死をとおして
それを知り得たことは
自分自身にさえ
もしかしたら
起こりうるかもしれない
未来を考えた時
心に一種の安心感を
与えてもらったような気がします
わたしはいま
難病でも末期癌患者でも
アルツハイマーでも
ないけれど
自分がもしこの先
難病や末期癌や
アルツハイマーなどに
なってしまったら
どうやって
死を迎えるのか
紺美さんのように
両親もなく
配偶者もなく
子供もいない
わたしにとっては
切実なことのように
思われるような気がします
紺美さんには
お姉さんが二人
いらっしゃいました
わたしには
兄がふたりいます
もし
わたしがそうなったら
兄達は懸命に
わたしを支えようと
してくれるでしょう
でも
万が一
わたしがそうなったら
わたしには
兄達を巻き込みたくない
兄達に迷惑をかけたくない
という強い思いがあります
そして
万が一
もしわたしが
そうなってしまった時
兄達がいなかったら
わたしは誰か
他人様のお世話になって
生きていかなければならない
それも
わたしがわたしであることを
失いながら...
きっと
耐えられない
それは
是が非でも避けたい
そうなるくらいなら
わたしは
自分で死を選びたい
でもそれが
悲惨な自殺という方法ではなく
穏やかな安楽死だったなら
わたしは
安らかな気持ちで
死ねると思う
安楽死という選択が
与えられるというのは
生き方の権利を
与えてもらえること
ではないでしょうか
どうやって死ぬかを
選べるということは
どうやって生きるかを
自分で選択できる権利
それは
死ぬ権利というより
生きる権利だと
わたしは捉えます
その生きる権利を
幅広く与えられるというのは
生きることへの
息苦しさを感じながら
生きている人にとっては
紺美さんの言葉を借りれば
お守りに
そしてそれは
希望にもなりうる
と思います
少なくとも
心の病を
もちながら生きている
わたしにとっては
いざとなったら
死ねばいい
と思えることは
いざとなったら
自分で死ねる
と思えることは
それが自死で
あったとしても
切ない希望なのです
でも
それが
自死ではなく
安楽死なら
なんて
穏やかで平和で
やすらかな希望だろうか
と思うのです