信心銘 | BLACK VELVETS

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火水(ホシ)の舞踏と祝祭の音

シンギングボウル と霊性に
身体から働きかけるワークを
やっています

OSHOの講話 「信心銘」より

支配欲はチャクラで言うと第三チャクラになりますね。


「物事の深い意味が分からぬうちは、心の平安はいたずらに乱される」

理解すれば、そこに平安が現われる。

理解しなければ、そこには騒動と、緊張と、苦脳が現われる。

誰か苦しんでいる時一には、それは必ずその人が事態を、物事のより深い意味を理解していないということだ。

だが人は、自分の苦しみを他人のせいにして他人を責め続ける。

この世には、他人のために苦しんでいる者など一人もいない。

あなたが苦しんでいるのは、あなたの無理解の、あるいは誤解のせいだ。

例えば、私の所に来たある人、夫であり、五人の子供の父親はこう言う。

私はほとほとまいっています。

妻は私を支配しようとして、ロ応えをしますし、子供達は私の言うことなど聴きません。

母親の影響力があまり強くて、子供達は妻の言うことは聴いても、私の言うことなどを聴こうともしないのです。

私のことなど問題にもしません。とてもやりきれない気持ちです。何とかして下さい。あなたのお慈悲で妻をもう少し、物の分かるようにしてやって下さい。

私は言った。

「それは不可能だ。私の慈悲だろうと、誰の慈悲だろうと、第三者をもっと物分りよくすることなどできない。

まだあなたならそうできる可能性もあるがね。それに、相手に理解を求めた時、あなたは要点を逃している。

奥さんが支配的に見えるのはどうしてだろう。奥さんが支配的に見えるのは、あなたも、その支配をめぐって争っているからだ。

もし、あなたが支配争いをしていなかったら、奥さんが支配的に見えることはないはずだ。

それは、あなた方二人が、同じ目的地をめざしているためにある戦いだ。それに、子供達が母親に従って何がいけないのかね。

しかしあなたは、子供に自分の言うことを聴いてほしい。だから、そういう争いがあるのだ」

理解しようとしてごらん。

誰もが支配しようとしている。それこそが自我の本質だ。相手を支配するためにあらゆる努力をする。相手が夫であろうと、妻であろうと、子供であろうと、友達であろうと、何も違いはない。

支配するために、支配のための方法と手段を見付けるためにあらゆる努力をするのだ。

誰もが支配しようとしているのに、あなたも支配しようとすれば、そこには争いがおこることになる。争いは、他の者が支配しようとしているからあるのではない。

あなたが 自我の働き方を理解しようとしないためにあるのだ。

あなたがそこから降りなさい。他人を変えることはできない。それに、他人を変えようとしたら、無用に一生を浪費することになる。

それはその人達の問題だ。理解していなければ、苦しむのはその人たちだ。なぜあなたが苦しまなければならないのか。

あなたはただ、誰もが支配しようとしている事を理解すればいいだけだ。「私はここから降りる。もう支配するつもりはない」と。

あなたの闘いは消え、ある実に美しいことが起こる。

こちらが支配しようとしなければ、奥さんは馬鹿みたいに感じ始める。

やがて自分が馬鹿に見えて来る、何しろ戦うにも相手がいないのだから。戦えば、あなたは相手のエゴを強めている。これは悪循環だ。

こちらが相手にならなければ、向うは独りで戦っているような気がして来る。真空の中で、風を相手に、あるいは幽霊を相手に戦っているような感じになる、人を相手に戦っている気がしない。

そうすれば、あなたは、相手にも事態を見究め、理解するための機会を与えたことになる。そうなれば、奥さんはあなたのせいにはできない。奥さんは自分で自分の責任を取らざるを得ない。

誰にとっても問題は同じだ。人間の本性は大なり小なり同じように機能するからだ。

違いは程度の問題に過ぎない。理解しようとすれば、人は一人のドロップアウトになる。社会から降りるというのではない。ヒッピーになってコミューンを作るというのではない。そんなことが要点ではない。

心理的に、もうそういうエゴ·トリップには入らなくなるのだ。支配や攻撃や暴力や怒りには入らなくなる。もうその一部ではなくなる。

すると、ある距離、ある分離が生じる。今度は自分で事態を見られるようになる。そして人がいかに愚かであるかを笑えるようになる。自分が、いつもどんなに馬鹿げていたかを笑うことができるのだ。

臨済についてこんな話がある。

彼は朝起きると、いつも腹をかかえて大笑いした。その声はあまりにも大きく、全養林の五百人の僧侶に聞こえるほどだった。夜寝る時、彼はもう一度高らかに笑った。

何人もその理由を訊く者があったが、臨済はただ笑うだけで答えようとはしなかった。

臨済が入寂しようという時、誰かが尋ねた。

「ひとつだけお訊きしたいことがあります。これまで、毎日、朝起きた時と、夜と、なぜお笑いになったのでしょうか。一人もそのわけを知る者がおりませんし、私達が訊いた時にはいつもまた笑われるばかりでした。どうしても不思義で仕方がありません。肉体を去られる前に、どうか訳をお明かし下さい」

臨済はこう言った。

「わしが笑ったのはこの世があまりにも馬鹿げているからだ。 朝起きて笑ったのは、さて、またまわり中馬鹿者だけの世界に入って行くか、と思ったからだ。そして晩に笑ったのは、その一日が至極うまくいったからだ」

あなたは笑うことになる。もう苦しむことはない。まわり中、ことの全体があまりにも馬鹿げている。だがあなたにはそれが見えない、自分がその一部だからだ。あまりにもその中にのめりこんでいて、見ることが出来ない。この馬鹿馬鹿しさは、ある距離を、分離を獲得しないうちは、知ることはできない。

僧璨は言う。

物事の深い意味が分からぬうちは、心の平安はいたずらにかき乱される

人は何ひとつ得ていない、どこにも到達していない、ただ混乱しているだけだ。どこに到達したと言うのかね。不安と緊張と混乱によって、何を得たと言うのか。自分とは何か、どこへ向かっているのか。何ひとつ得てはいない 「いたずらに」。

たとえ何かを得ているようでも 混乱のために自分が何かを獲得しているように思うことがあるかも知れない。何ひとつ得てなどいない。逆に、あなたは失っている。至福に満ちたものになりうる貴重な瞬間を、あなたは失いつつあるのだ。その中で開花し得たかも知れない貴重な時間、エネルギー、生命を。そしてあなたは花開くことができないでいる。

だが、あなたはいつもこう考える。これこそ、無知なものの見方だがーあなたはいつも思う。

「全世界が間違っている。もし私にみんなを変えることができたなら、私は幸せになることができるのに。」と。

あなたが幸せになることなど決してない。あなたは幸せにはなり得ない。
それこそが不幸の根一源なのだ。一度理解したら、全世界を変えようとすることなど、あなたの役割りではない。あなたにできるのは、唯一自分自身を変えることだけだ。

OSHO 「信人銘」ならぬ「信心銘」