入廛垂手 | BLACK VELVETS

BLACK VELVETS

火水(ホシ)の舞踏と祝祭の音

シンギングボウル と霊性に
身体から働きかけるワークを
やっています

秋の夜長のワイン飲みながらの読書。



中国の禅マスター廓庵の十牛図についてのOSHOの講話。



空の境地で終わらずに酒瓶担いで世間に帰ってくるという話ですが不老不死という概念も凄く誤解されてるんじゃないかと思います。

もちろん個人的には長寿に越した事は無いと思いますが、補足しておくとチベットにある長寿法などは長生きする為のものでなくて行を完遂する為のものだと聞いております。

“自分の寿命を延ばす魔術など用いない
いまや私の目の前で樹々は息を吹き返す”

というのも寿命を延ばすなどという問題は何もないからだ

人は永遠に生きる

もう死などというものはない

だとすれば寿命を延ばして何になる?

ヨーギたちは寿命を延ばすこと長生きすることにものすごくこだわっている

ほとんど取り憑かれていると言ってもいい

その欲望は奥深くどの人の中にもある

もし誰かやって来て

「ヒマラヤで150歳のサドゥーに出くわしたぜ」

などと言おうものなら
たちまちあなたはそのことに興味しんしんになる

なぜかね?

彼が50歳だというのと150歳だというのと
あるいは, 300歳だというのとどこが違う?

その違いは何なのかね?

どうして興味を持つ?

あなたはまだ肉体に自己同化していて依然として死を恐れているのだ

ヒマラヤにいてつねづね自分は千歳だと言っていたあるヨーギの話を聞いたことがある

ひとりの西洋人がただ彼が千歳だというのを耳にしただけではるばる何千マイルを彼に会いにやって来た

「そんなのは不可能だ、でももしかしたら…東洋じゃいろんなことが起こる……」(笑)

彼はやって来た
その男をしげしげと見た
だがとても信じられなかった
その男はどう見ても60以上には見えない

数日の間彼は見守っていた
しかし彼が千歳だなどというのはとうてい信じ難かった

せいぜい60-それでも多過ぎるくらいだった
そこで彼は勇気をふるい起こすと一番弟子とおぼしきひとりの弟子に尋ねてみた

「どう思います?
彼は本当に千歳でしょうか?」

その弟子が言うには
「よくわかりません
私はまだ300年しか彼についていませんから」(爆笑)

そして,その弟子ときたら絶対に30は越えていなかった! (笑)

しかし……
人間の心というのは愚かなものだ
だがその魅力は意味深長だ

それはあなた方が死を恐れていることを表わしている
誰かがもし千歳だったりするとあなたは興味を抱く
それならばもしかすると彼はあなたにも手を貸してくれるかもしれない

あなたにも何かの秘法を何かの錬金術的処方を,何かの鍵を与えてくれることができてあなたも長生きできるかもしれない一

だが、禅は長寿などに興味を示さない
なぜならば、禅は一度あなたがあなた自身を理解したらそのときには、永遠の生があると言うのだから誰が長寿などに構う?

長寿というのは, 依然として死を恐れている肉体同化した人間のひとつの欲望にすぎない

“理解の人”は,死などないのを知っている!
死など起こりはしない
いままで一度として起こったためしはない

それが起こるのは, あなたが肉体に同化されていて自分自身を知らないからにすぎない

確かに,肉体には別れを告げさせられるだろう
もしあなたがあまりにも自己同化しすぎていたら
その離別は死のようにも見える

だが,もしあなたが肉体に同化していなくて
自分自身を〈観照する魂〉として
く意識〉として,〈覚醒〉として承知していれば
そのときには,死というようなものは何もない

“自分の寿命を延ばす魔術など用いない…
ところが,どうだろう
“いまや,私の目の前で樹々は息を吹き返す
枯れ果てた樹々さえも
私が通り過ぎるにつれて, 息を吹き返す

その実存の内奥無比なる核心に達した人間というのは彼の行くあらゆるところで
あらゆるものに自分の生命を浴びせかけるくらいものすごく生に満ち満ちている

仏陀が森に足を踏み入れると枯木は生き返り,樹々は季節はずれの花を咲かせたと言う

そういうのはただのお話かもしれない
が、意味深長だ
神話的で歴史的ではない
史実という観点からすると真実じゃない
だがより深い意味では真実だ
あなたが生きているとき
あなたの触れるものもことごとく生き返る

究極の旅 OSHO