矛盾老人3 | BLACK VELVETS

BLACK VELVETS

火水(ホシ)の舞踏と祝祭の音

シンギングボウル と霊性に
身体から働きかけるワークを
やっています

しかし、それにしても覚醒者の言葉はアテにならない。

最近oshoブーム?でoshoの本ってどうなんですか?

と聞かれましたので

「毒まんじゅうだと思って食べて(読んで)下さい。」

と答えました。

もちろんこれはoshoの講和のみに当てはまる話ではないのですが。

oshoの講和はマハヴィーラのマインド旋回舞踏に似ています。

「西に行け」

「東に行け」

「西と東に行け」

「西でもなく東でもなく」

「西でもなく東でもない西に行け」

「西でもなく東でもない東に行け」

以下略

ある人は今、東に行く必要があるかもしれないし

西に行く必要があるかもしれない。

そのアドヴァイスは人にもよるし時間にもよります。

ですから言葉として記録されたものは少なくとも時間と聴衆とを

合わせて3次元的に捉える必要があります。

「西ヘ行け」と書かれた言葉に感動して

他の人に「西へいくのが正解だ!」と言っても

その他の人は今は東に行く必要があるかもしれないし

そもそも「西へ行け」と書かれた言葉に感動したのは

その人の偏向したパーソナリティかもしれないので

この人はこの感動体験からさらにおかしな方向に行く

可能性大かもしれない。

ですから覚醒者の言葉を自分で編集して自分教を作っても

自己矛盾するのは必定です。

また覚醒者によって覚醒のレベルが違いますし

説法の時期により対象としていた聴衆も違います。

イエスの教えはユダヤ人のためのものでしたが当の

ユダヤ人から迫害されました。

自分に本当の意味で合う教え、自分が本当にやらなければならないワークというのはまさに自分がやりたくないワークだったりします。

もしくは何の手ごたえも得られないワークだったり。

でoshoの話に戻りますと最近oshoのカビールの講和「愛の道」が翻訳されていて最近読んでいます。

インドのウパ二シャッドの伝統では
「永遠なるものの栄光を祝う」という立場なのですが

一生涯を機織りとして過ごしたカビールは
「私は形あるものの栄光を歌う」と言いました。

世間の中で父として仕事を続けながら覚醒したカビールならではの言葉ですね。

やはりoshoの講和は本当においしい毒まんじゅうだと思いますw。