





事情があって身を隠すためや、
家の手伝いのために
通学を止められてしまう
子どもが一定数存在し、
今も続いています。
子どもは親から言われたら
従ってしまう図式があります。
それは親に限らず
祖父母や叔父、叔母の言いつけでも
同じことが起き、
例えば知的障がいのある成人も
家族から通所を止められたら
従ってしまうと思います。
しかしながらニュースでは
こう言われていました。
居所不明児童がゼロだ
と言われても
先程書いた現状のように
根深い事実である
と思いながら読みました。
虐待、ヤングケアラー、
引きこもり、いじめなど
様々な問題があり
子どもたちが
その中心部にいることが
たまらなく嫌になります。
虐待防止月間のように
標語を作るときには
誰しも
もっともらしい言葉を書きますが
どれくらいの人が
実行しているのでしょう。
平等や平和を唱えるのであれば
優しい世界を望むのならば
今、大人である人たちが
手本を見せなければ
子どもたちは見習わないですね。
取り組んで欲しいことがあるならば
相手に望む前に
自分が真っ先に取り組む
これは何処にいても
必要なことだと思っています。
誰しも強み、弱みがあり
誰かを助け、誰かに助けられ、
一人でやり遂げられることは
自分が思っている以上に
少ないものです。
不満を愚痴るのは簡単ですし、
他者に要望するのは楽ですが、
その、
簡単で楽な手段をとることで
頑張ったという経験を積めず、
自分の伸び代を感じられず、
自分を手助けしてくれる人を
知らぬ間に失う、
という結果が待っています。
それと引き換えに
得られるスキルは
楽してやり遂げた経験が増えた分
上手に逃げて誰かに頼む、
挑戦より安定をとるために
誰かの意見を聞き流す、
起承転結無視の断言をして
相手を従わせる、
などです。
その勘違いスキルを使えば
自分は頑張らずに済みますが
その分、誰かが頑張っていて
その誰かが賞賛や評価を得ます。
それは当然のことですが、
自分に賞賛や評価が無いことから
時には
賞賛される側に嫉妬したり
賞賛する側に不満を持つことが
あるかもしれません。
今、楽をとるのか
今、頑張るのか
それは個人の自由です。
でも。
誰もが
幼少期に手にしたであろう
『アリとキリギリス』の物語を
読み終えた後には
アリさんのようになろう
と思っていた人が
多いのではないでしょうか。
先輩からの期待は得られず
後輩からは頼られずで
日々同じことの繰り返しでは
面白味がなく、
やり甲斐は生まれません。
同じ24時間を過ごすなら
面白くて
やり甲斐が得られる日々に
したいです。
居所不明児童の話から
『アリとキリギリス』
の話になりましたけども
小集団の中に身を置くならば
全員がアリさん🐜で
『ありがとう』と『ごめんなさい』
が飛び交う場所に居たいと
私は思います。
あくまでも理想ですけどね。
一定数キリギリスは居ますし、
キリギリスにも
強み、弱みはあるので。




