気が付かなかったのですが、、
箕面勝尾寺って、妙音天ですね。
音の神様でした。みのおが、巳の王、巳の尾ですからね。
宇宙語で音韻の御話をした方と私はご縁があるという事のようです。
ふーーむご縁とは不思議です。
ここは、北陸の道氏の子孫がお祀りするところで、、元々蛇、巳族を崇める。
この巳族は、道教由来のようですね。妙理の白山菊理姫っぽいね。
なので、崑崙山が関係します。
先ほど、清瀧権現の書かれた文献を読みました。
あー、次回6月の予定は清瀧権現と空海を感じることのようです。
白と青みたいですね。
やっぱり、行かないといけないなぁ~
さて、本題の尺八池 神祇少副大中臣朝臣磯守
尺八池に呼ばれたような気がして、、かなり細かく調べました。
この神祇少副大中臣朝臣磯守と書かれた石碑があるようです。
この人物神祇少副大中臣朝臣磯守を検索しますと
水禽のコトバンクに名前が出てきます。
尺八池
北区大宮釈迦谷
氷室旧道の東側、釈迦谷山と薬師山の間にある灌漑用水池。周囲約四町余。池名は、並列する水樋が尺八の穴のようであるからとも、水音が尺八の音色に似るからとも伝える。
古くこの辺りは栗栖野といわれた。淳和天皇は栗栖野に遊猟し、「続日本後紀」天長一〇年(八三三)九月二五日条に「便幸綿子池、会神祇少副大中臣朝臣磯守、放所調養隼、払水禽、仙輿臨覧而楽之」とみえ、付近に綿子池のあったことが知られるが、その名は早くすたれた。
古くはこの辺りは栗栖野といわれた。『続日本後紀』によると淳和天皇(786~840)は,天長10(833)年9月25日この地にあった綿子池に遊猟し隼を放ったという。綿子池の名は早くすたれたが,貞観年間(859~77)はじめ,当時の栗栖野・紫竹一帯の水害は綿子池の氾濫によると考えられる。この石標は,平安時代に天皇が遊猟した綿子池を示すものであり,綿子池を補修したと伝える尺八池の畔に建つ。なお碑文に「(八六九)」と記すのは『続日本後紀』の成立年である。
途中にある御土居
外敵の来襲や水害から街の中心を守るために
豊臣秀吉が作った囲いで
今も数か所、その史跡が残ってる
尺八池の近くにある尺八池開運松龍辨財天。
尺八池(古名:綿子池・般若池)の守り神として
池の畔に大徳寺が祀ったものでしたが、
水害により山側に移されたそうです。
※般若が開運松龍弁財天になっているんだね。
国史に見られる。又、綿子は愛宕がなまったものとか。
谷口の扇状地で昔から大水害をもたらした。
往古の綿子池を補修したものが尺八池とか。
この池は水を調整する水樋が、尺八の穴のように並べて作られているので
尺八池と言われているが、また一説には水の落ち口の水音が
尺八の音に似ているからともいわれる。
江戸時代には正伝寺と大徳寺との共用水であったが、水争いにて
明和8年から大徳寺が所管することと成った。
今は、西加茂南方一帯の灌漑用水池である。
(新撰京都名所図会より)
洛中洛外 虫の眼 探訪様より 2014年9月
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