昨日は風が強く、本当ならどこへも行かなくて家で自宅警備員していたかったのですが、、
夫の為に入金してきました
そのせいか、、花粉症がいつになく酷い
これから、超忙しい二週間になるので、どうにか体調をくずさないでいますように願っています
上位意識という言い方をしていますが、、
お金を儲ける指示をするだけでなく、そのお金を使用することも指示してきます。
最近では、「黒い車購入」指示です。
色も指定してきました。車種もです。
日本限定70台発売の新車で、海外から取り寄せだそうです。
私は車の免許も持っていない、いや、持てないアホなんですが、、、
夫に色々と私が融通が利くように、プレゼントみたいです。
私は物欲はないので、、
もう、欲しいものもなくなってきて、、
アクセサリーぐらい。服も試着が面倒くさい。
管理も大変。
散財するのは、遠出の交通費ぐらいです。
体験が残るだけで、それでも、体力がなくなってきているので、、
私からは決して何処かに行こうとお誘いはしない
「甲斐の黒駒」のお札を四天王寺の元三大師堂で見かけました。
聖徳太子が馬に乗って、富士山を駆け巡る絵です。
とねり?舎人みたいな人は鳥の足みたいな絵でかわいい
その黒駒お守りのように
我が家に黒い車は甲斐の黒駒としてやってくるのでしょう。
古代甲斐が良馬の産地であったことから成立したと考えられている伝承で、甲斐から中央へ貢上された駿馬を指す。ヤマトタケルの酒折宮伝承と並び、古代甲斐と中央のヤマト王権との関係を示す伝承としても注目されている。
東アジアにおいては中国で殷朝後期に馬が伝来し、朝鮮半島においても衛氏朝鮮の時代に馬が飼育されている。日本列島には古墳時代の4世紀から5世紀にかけて馬が伝来し、大型古墳を造成した首長層(甲斐国造)に受け入れられたと考えられているが、山梨県(甲斐国)では4世紀後半代の馬歯が出土しており、山梨を含む中部高地には西日本に先行する古い段階で馬が渡来したと見られている。
平安時代には、黒駒伝承に聖徳太子(厩戸皇子)と関係させる説話が加わる。太子は7世紀初頭の推古朝を主導した皇族で、後に太子信仰の成立に伴い数々の伝説が生じている。『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。
山梨県で黒駒伝承や聖徳太子開創伝説を持つ寺院、「黒駒」地名や黒駒由来の地名、太子像や太子像図などが数多く残されている。これらの伝承は主に富士山周辺や古代官道である甲斐路(御坂路)のルート上、あるいは浄土真宗において聖徳太子が崇拝されたため、真宗寺院において黒駒伝承が分布している。また、近世には下山(身延町下山)を本拠とする下山大工ら建築関係者が「太子講」を形成したため、これに関係した黒駒伝承も見られる。