さて、白井晃演出のサルトルの「出口なし」について書かかければいけない。それは、「マン・イスト・マ

 

ン」のエンターテインメント性のかけらもない、シビアな舞台だった。今、正直言って、緊張している。私は

 

サルトルのいい理解者ではなく、彼の主著である、「存在と無」を読んでいない。「存在と無」に言及する

 

ことなく、この舞台を深く分析してみたいと思いつつも、どこかでためらいがある。サルトルの仕事は哲学

 

と文学の両方にまたがっていて、しかも膨大で難解である。彼の著作もろくに読まないであれこれいうの

 

も気が引けるが、急に「存在と無」を読むわけにもいかないので、出来る範囲で書いていく。

 

 私が最初にサルトルの著作に出会ったのは、大学二年生の時だったと思う。私の大学の文学部仏文

 

科はサルトルの実存主義の牙城のような場所で、サルトル研究を専門とする教授が二人いた。一人は

 

サルトルの文学を代表する、「嘔吐」 LA NAUSÈEを訳していた有名な方だ。私はサルトルの文学に魅

 

力を感じなかった。カミュの方がずっと好きだった。特にカミュのアルジェリアを舞台にしたいくつかのエッ

 

セイ、「結婚」、「夏」、「チパサの春」などの詩的な瑞々しい叙情が大好きだった。

 

 

「春になるとチパサには神々が住み、そして神々は陽光やアプサントの香りの中で踊っている。海は銀の

 

鎧を着、空はどぎついほど青く、廃墟は花でおおわれ、光は積み重なった石の中でもえたぎる・・・・」

 

この出だしを読んだだけで、地中海の光に包まれたように感じる。

 

 

一方、サルトルの「嘔吐」のいくつかの記述はこうだ。

 

「なにかが私の中に起こった。もはや疑う余地はない」

 

「一挙にして幕が裂け、私は理解した。私は見た」

 

「存在はふいにヴェールを剥がれた。・・・・・根も、公演の柵も、ベンチも、芝生の貧弱な芝草も、すべて

 

が消え失せた。事物の多様性、その個性は単なる仮象、単なる漆に過ぎなかった。その漆が溶けた。そ

 

して怪物染みた、柔らかくて無秩序な塊が・・・・恐ろしい卑猥な無秩序だけが残った」

 

「私は叫んだ、何て汚いんだ、何て汚いんだ、そして私は、このべとべとした汚物をふり払うためにからだ

 

を揺すった。しかし、汚物はしっかりとくっついて離れなかった。幾トンという存在が無限にそこにあった。

 

私はこの膨大な倦怠の底で息の詰まる思いだった」

 

 

 カミュとは対照的に異常なほど粘着質で難解、不気味な「存在」の在り様である。この「存在」から「無」

 

が分泌されるのだ。この世界は気味悪い汚物からできている。サルトルは、個々の事物から美しさとか

 

硬いとか丸いなどの属性をどんどん剥ぎ取っていって、そのすべてが裸形の姿になったとき、それが「存

 

在」の純粋な姿だと考えるのだ。私など薄気味悪くて耐えられない。

 

 

 

 

  私が大学に入って二番目に好きになった女の子は倫理学科の子だった。彼女は友達とベロニカ・ペル

 

シカという名前のバンドを組んでいて、渋谷のライブハウスなどでよく歌っていた。芸名は骨子だった。彼

 

女は骨が好きなのだ。何故、骨が好きなのかよくわからないが、ファッションセンスは抜群で、とてもユ

 

ニークなセンスをした素敵な女の子だった。彼女はこともあろうに大学院に進んでサルトルの研究を始め

 

たのだ!私が嫌いなサルトルを・・・・・

 

 彼女は演劇もやっていた。ただ、サルトルの「蠅」や「汚れた手」、「アルトナの幽閉者」や「出口なし」な

 

どの重たい哲学的な内容の演劇をするような劇団ではなかった。彼女は後に哲学研究者と結婚した。私

 

の友人は彼女の器用な打算的な生き方を軽蔑して怒っていた。彼女のサルトル研究は大したものでは

 

なく、研究者の奥様に納まる以外になかった。結局のところ、彼女のバンド活動も演劇も学生時代のお

 

遊びで中年過ぎまで続くような永続的なものではなかった。

 

 

 さて、白井晃演出の「出口なし」について書かねばならない。俳優は三人、バレエダンサーの首藤康之

 

がガルサン、同じくバレエダンサーの中村恩恵がエステル、俳優の秋山菜津子がイネスである。場所も

 

わからない密室に閉じ込められた、見ず知らずの三人の男女の果てしない会話が強烈な身体性をもっ

 

て表現される、ストイックな舞台だった。

 

 明らかにサルトルの実存主義が基盤になっている戯曲で、登場人物は、他者のまなざしによってしか

 

存在の基盤を見出せない、ある意味不安で悲惨とも言える存在である。それは、見る、見られるの関係

 

の中でしか成立しない、空虚な鏡の地獄である。言葉とバレエダンサーと俳優の身体性が交わる場所に

 

生まれる「無の地獄」とは何か?「地獄とは他者のことである」ということをこの舞台に即して考えるとどう

 

なるのか?次回の記事でもう少し深く考えてみたい。

 

 

 

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