いつしかみぞれ混じりの雪は激しい吹雪になって、窓の外にはいくつもの渦ができているよ

 

うだった。帰宅途中の高校生たちが橋げたの上で霞んで滲んだ。咲子はあの高校に通っていた

 

時、付き合っていたユージと雪の中を手をつないではしゃいだことを思い出した。ユージは毎日

 

新聞の記者になって今は大阪で働いている。

 

 無限の地平線の方からやって来るように、膨れ上がった津波を押し分けて進んできたように、

 

あいつは図書館の入り口に現れた。コートにへばりついた雪をさっと払うと、燃え上がるような

 

視線をこっちにむけたのがカウンターまで伝わってきた。「今日、殴り殺されるかもしれな

 

い」。意味もなく、咲子はそう思った。

 

 

 あいつがこっちに向かって歩き始めると、ラウンジのレモン色の席に座って新聞を読んでいた

 

男が、声をかけたのが聞こえてきた。「凄い雪になってきたんじゃねえの。雪が付いてっぺ

 

よ!」。山村は大声で笑いながら、おいでおいでをしていた。山村はこの図書館の職員のあいだ

 

で、あるじと呼ばれていいる。

 

 山村が何で生計を立てているのかは誰も知らなかった。ただ何回かヤクザに殺されそうになっ

 

たこと、理由はわからないが何か月か塀の中で暮らしたことがあるという噂が流れていた。咲子

 

は山村が嫌いではなかった。人懐こい笑顔で、温かい声で優しい言葉をかけてくれるからだ。山

 

村はなぜか必ずレモン色の席に座った。そしてあいつを水色の席に座らせるのだった。あいつは

 

山村の人柄が好きなようだった。ラウンジで何時間も話しているのを見かけたことがある。あい

 

つが山村と仲良くしているのを見ると咲子は何となく不安な気分に襲われた。何か不吉な暴力的

 

な出来事が起こるような気がしたからだ。

 

 

 

 

「今日は顔色がいいんじゃねえの。いいハマグリにありついたのけ」

 

「ああ、おいちいハマグリを食べてきたよ。栄養満点のスーパーハマグリだ」

 

「嘘言ってんじぇねえよ、ただのシジミなめたんだっぺ」

 

 あいつと山村の会話の半分は他愛もない猥談だった。猥談をしながらいつの間にか、孔子やキ

 

リストの話になっているのが遠くで聞いていて不思議で、カウンターに立っていると思わず耳を

 

そばだてた。いつだったか、二人は仏陀とキリストと孔子の三人では誰が一番優れているか、と

 

いうことについて話していた。結局、愛と平和を口にしながら戦争に加担してしかも勝利するキ

 

リスト教は何なのだろう?という結論になったようだった。                 

 

 山村は般若心経くらいはちゃんと暗記していて、ギャーテーギャテーハーラーギャーテーハラ

 

ソーギャーテーボージーソワカーハンニャーションギョウの真言の部分を何度も唱えると、遠離

 

一切顛倒夢想ってすごいと思わないかと何度もあいつに聞き返すのだった。そして、ハマグリマ

 

ンコは有なのか無なのかといういつもの議論になるのだった。

 

 山村は今まで様々な職業をしてきたらしい。セールスマン、ペンキ屋、バスの運転手、ピンク

 

サロン経営、ラーメン屋、彼が一番自信を持っているのはペンキ屋だった。ペンキをむらなく美

 

しく塗ることには無の境地にならないと難しいらしい。女のペンキ屋がほとんどいないのは、女

 

はあまりに欲が深く、無の境地になるのが難しいということが一番の理由だという。女のペンキ

 

には業のむらがでてしまうと彼は言うのだ。ペンキを塗りながら色即是空の心境に至ることは可

 

能であり、そうなった時、ペンキ屋はどんな僧よりも仏に近いというのが、山村の持論だった。

 

事実、彼の表情には晩秋の透明な野原のような明るさがあった。あいつがなかなか実らない恋に

 

ついてあれこれ相談していたのは山村だったが、二度も離婚した山村は、「結婚生活が地獄にな

 

るのならやめたほうがいい」が口癖だった。

 

 二言目には、ハマグリだのオマンコだのを連発する癖に、最後は、「愛でしょうよ、大事なの

 

は愛ですよ!ラブがなくっちゃ・・・・」と真顔になって、「俺は女を尊敬してるんだ」と噛ん

 

で含めるように話した。山村の親友は、宮田という65歳くらいの一見浮浪者風の男だった。山

 

村と宮田が話すとすぐにでも革命が起こりそうな話になった。山村は外国人に対し非常に平等な

 

所があって、中国人でも韓国人でもムスリムでも、特に女は、何人であろうと、ラブがあればす

 

べてが解決してしまう、ちょっと見ると単純明快な男だった。自分で義理人情に厚いと自称する

 

ように人情の機微をよく理解する男だった。

 

 

 

 

 私の心は血の中を泳ぐ、なぜなら、もろもろの罪の落とし子が、私を聖なる目に、怪物と映る

 

ようにしたからだ・・・・・罪は私にとって、ゲヘナ(地獄)の刑吏に他ならないのだから。憎

 

むべき悪徳の夜よ!お前、

 

ただお前だけが私をこうした罪に陥れたのだ。 (バッハ カンタータ199番 「私の心は血

 

の中を泳ぐ」)

 

 

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