もうとっくにクリスマスは過ぎてしまったのに、こんな題名で書いている。毎年この時期はよろし
 
くないことがネット上で起こる。年末は一年のケガレがもっとも高まる時期であり、国家権力もムク
 
ムクと悪さをしたくなるようだ。載せたい写真はあるが年末年始がなくなるのでやめておく。
 
 私はクリスチャンではないが、なぜかキリストの精神のあり方や存在の意味に興味を持ち始めた。
 
それで最近出た、若松英輔と山本芳久による、「キリスト教講義」という本を買ってみた。キリスト
 
教で、「悪」というものをどうとらえているのか、良く読んでみたい。神道が考える、「悪」とはか
 
なり違っているはずだ。むろん、千葉命吉の「一切衝動皆満足論」における「悪」とはまるで違って
 
いる。
 
 パラパラとめくって、おっと思う箇所があった。「与える愛」と「求める愛」という部分だ。キリ
 
スト教の愛というと何か自分を犠牲にして与えることが大切であって、「求める愛」といのは何か不
 
純な夾雑物が混じっているように感じられるけれど、そんなことはなくて、不完全な人間には、まず
 
は「求める愛」が基本であって、「求める愛」を肯定的に捉えるべきだ、という記述を読んで、そう
 
だな、と思ったのだ。一方、神は自己充足した完全な存在であるから、そもそも、「求める愛」は必
 
要ないと。豊かさに満ち溢れているから、周囲にその豊かさを惜しみなく分かち与えられる存在と考
 
えてよい、と言う。
 
 
 そういうキリスト教の神は、建築的に言うと、自然から遮断された建物の中で人と神が向かい合え
 
るように設計されている。ステンドグラスから差し込む光、高い天井、パイプオルガンの響きなど
 
が、「至高性」や「天の高み」を象徴させる。
 
 それに対して、日本のカミはどうなのか?日本の神は森の鬱蒼とした茂みの中に、神社の境内の薄
 
暗い光の中にいるのだ。「新国立競技場」が存在する、代々木にある神宮外苑は、青山に存在する内
 
苑と一対になっていて、内苑には明治天皇を祀った明治神宮がある。明治神宮は鬱蒼とした人工的な
 
森である。そういう聖地に建てられる、「新国立競技場」に相応しいのは、「古墳」であると、田根
 
剛は考えた。神宮内苑外苑は、近代の産物であるけれど、田根の「考古学的リサーチ」によれば、源
 
は古墳にたどり着くという考えは、良く理解できる。ただ、古墳時代の複数の神々と明治神宮が直結
 
するかどうかは疑問は残るが・・・隈研吾によるA案、伊東豊雄によるB案、あまりに斬新なザハ・
 
ハディド案より、田根剛の古墳としての「新国立競技場」の方が、日本精神の表現形として優れてい
 
る、と私は思う。
 
  
 中沢新一は、まだ新国立競技場の設計者が決まっていなかった段階で、「新国立競技場問題を通し
 
て照らし出されているのは、実は明治神宮の作り方の奥にひそんでいる無意識の思考を理解できなく
 
なってしまった現代人の心のありようそのものである。新国立競技場問題が突きつけているのは、じ
 
つは私たちのこころの問題なのである」と述べているが、隈研吾の和風テイストの建築よりも、日本
 
人の無意識の構造を正直に反映しているのが、田根剛の新国立競技場の古墳型スタジアムだと思う。
 
ただ、日本の行政にそれをやる見識や勇気はないだろうし、これを作れる建設会社もないだろう。
 
 
 
 
 私は田根剛の古墳型の「新国立競技場」を見ていて、ふとなっちゃんの顔が頭に浮かんだのだ。つ
 
まり、私の中の「求める愛」の衝動が突然動き始めたのだ。くーちゃんに無視されれば当然起こって
 
くる感情だ。私は神様ではない。私の脳裏に浮かんだのは、2016年に放送された、歴史秘話ヒス
 
トリア、「コーフン!古墳のミステリー」という番組だった。録画が見つからないのだが、たぶん複
 
数の王が7体出ていたと思う。まだ、大和朝廷などができあがる以前の王権の話だった。田根が目指
 
すとしたら、こういう時代の考古学的なリサーチをして、その記憶を建築に反映させることだと思
 
う。そこまで行けたら本当に凄い。それは確かにまだ誰も見たことのない未来の建築になるだろう。
 
 
 
 
 下の写真の10kyoto という複合施設のデザインの抽象の性格は上の埴輪が持つ造形性と似てい
 
る、と思う。中沢新一と伊東豊雄が、「建築の大転換」という本の中で、建築の抽象について面白い
 
議論をしている。建築の抽象には大きく分けて二種類あって、一般に言われるような第一種の抽象
 
と、その奥に存在する、第二種の抽象があるというのだ。建築家で第二種の抽象を使用しているの
 
は、ル・コルビジェで、そういう抽象建築は見ていて楽しくなる何かがある、というのだ。私はこう
 
いう抽象感を砂澤ビッキの美術に感じる。こればかりは個人の感性によることろが大きいので、私の
 
言っていることが変だ、と思われる方がいても不思議はない。
 

 

 

 侘び・さび・数寄とは違った京都の奥底に眠っている深い記憶を掘り出そうと田根は試みているよ

 

うに思う。これは文献を使った歴史学が描く京都像とは違っている。どちらが正しいとかいいとかい

 

う問題ではなく、建築家が場所の記憶を建築で再現することがどういう意味を持つのか、私には論評

 

できないがそれはたぶん歴史家や考古学者の仕事ではない。宮沢賢治のような詩人が批評を書いたら

 

書けそうな気がする。

 

 

 

 アルチュール・ランボーが大好きな私にとって、田根剛が、アルチュール・ランボー美術館の設計

 

をしたというのが嬉しい。ランボーの「イリュミナシオン」には、「橋」とか「町々」とか「首都の

 

景観」などの、未来の建築、音楽で出来た建物を感じさせるような天才的な作品がある。田根にラン

 

ボーが好きかどうか聞いてみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 実は、「失意と興奮のクリスマスイブ」の「興奮」とは、この田根剛展のことではなく、この後に

 

観た、京都の劇団「地点」の「グッドバイ」という舞台のことだった。もう年内にはこの舞台につい

 

ては書けないかもしれない。一人だったものの、なかなか凄いクリスマスイブだったわけだ。

 

 

 

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