雪ノ光
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あまりの恥ずかしさで私は顔を上げることが出来ない。
賢治は特に何も言わずにタクシーを拾い、無言のまま二人で乗った。
賢治が運転手に告げた地名は少し離れた街で、私は名前を知っているだけの場所だった。
『ごめんね・・・。』
『良く行く美味しい小料理屋があるんだよ。』
私の言葉なんか聞こえなかったかのように賢治はこれから行く店の説明をした。
気を遣ってくれているのかもしれない・・・。
『すごい期待出来そう、楽しみ。』と笑った。
言葉にしたら本当に楽しみになってきた。
付き合っていた頃、賢治の行きつけのお店に連れて行ってもらったことなんてあっただろうか・・・。
ふと夫のことが頭を過ぎる。
こんなことになる前はよく夫と美味しいお店巡りをした・・・。
もう戻れないかもしれないと思ったら、急に夫が恋しくなり切なくなった。
『笑ったり落ち込んだり忙しいな。』賢治が言う。
何となく心の中を見透かされたような気分になり恥ずかしくなった。
『着いたよ。先に降りて。』
『タクシー代・・・』と言いかけたが、

賢治に『そんなの必要ないに決まってるだろ。』と軽く交わされてしまった。
相変わらず賢治は紳士的だな・・・なんて感心していた。

賢治について入ったお店は隠れ家的な趣で、通された席も個室だった。
二人で語らうためにあるような部屋で、少し狭くて薄暗い。
誰にも邪魔されず、二人だけの時間がゆっくりと流れるような場所。
賢治のオススメだと言うカクテルが運ばれてくると、賢治はさりげなく聞いた。
『ここなら誰にも気を遣わないでいいから。何があったか話せる?』
賢治が私の核心を突かないように気を遣ってくれているのがわかる。
『葵があんなに泣くのを初めて見た。俺と別れるときだって泣いてなかった。』
切なそうな賢治の顔。どうしてそんな顔をするのかわからなくて、私はまだ黙ったままだった。
『きっとあの頃だって俺の知らないところで泣いていたんだろうって今日初めて気が付いた。
 そう思ったら情けなかった。あの頃の自分を悔やんだよ。』

『賢治くんがそんな思いをする必要はない・・・。今日は本当にごめん。
 急に泣きながら電話なんかしちゃって・・・。』
『だから謝るなって。俺は今日大事なことに気が付いたんだから。それに葵のチカラに少しでもなれるなら・・・あの頃葵にしてあげられなかったとの罪滅ぼしに、なんて虫が良すぎるね。』
そう言って優しく笑う賢治は、あの頃の賢治ではなかった。
『実は昨日の夜、夫と喧嘩をしたの。そこで・・・。』
言いかけて躊躇った。昨晩の夫の言葉を思い出してまた苦しくなる。
それに賢治が夫と同じ意見だったらどうしよう・・・。一気に不安が押し寄せる。
『どんなことでも俺は葵の味方だから。』
賢治が私の涙を拭いながら言った。涙が賢治の大きな筋張った手を濡らす。
『3年も子供が出来ないのは私のせいだから、夫が肩身の狭い思いをしてるって・・・。』
言葉に詰まると賢治が意味が分からないと言う口調で聞いた。
『そんなこと葵だけが責任を感じることではないだろう?』
『・・・夫は私と結婚する前に子供が出来たことがあるから、私に問題があるって。

その時産ませておけば良かったって・・・。』

まるで走馬灯のように昨晩のやり取りが頭の中をぐるぐると巡る。
夫の蔑むような目、吐き捨てるように言った言葉。
ドンッ!!
賢治がグラスを叩きつけるように置いた。
『・・・許せないな・・・。』
小さく呟いた言葉に激しい怒りを感じた。思わず私が萎縮してしまうほどに。




~続く~


泣きながらリビングで寝てしまったようだ。ズキズキと頭が痛む。
夫はどこかへ出掛けたようだ・・・今日は帰って来ないかもしれない。
この週末、一日中顔を合わせなければいけないのは正直嫌だと思った。
あれだけ侮辱され、このまま夫と同じ生活が送っていけるのだろうか・・・。
離婚・・・そんな言葉が頭を過ぎる。
今までは微塵も感じていなかった不安が一気に押し寄せ、また涙が頬をつたう。
『子供が出来ないことがそんなにいけないことなの・・・』
こんな時一人だとマイナス思考の波に飲まれてしまう。
この気持ちはどこへ行けば良いのだろう。
マリッジブルーになった時も、仕事で落ち込んだ時も支えてくれたのは夫だった。
私の絶え間ない愚痴にも、夫は付き合ってくれた。
ただ話すことで、私は落ち着くことが出来た。
しかし今回は夫に話しをすることは出来ない。
突如として現れた夫婦の問題に、二人で向き合う自信が私にはなかった。
一人でいることがこんなに心細いと思ったこと今まであっただろうか。
誰かに抱きしめられたい・・・何もかも全部包み込んで欲しい。
これが現実逃避だということは百も承知だ。
そうだ・・・賢治・・・。
昨日までは会うことも躊躇っていたのに、私の心は会いたい気持ちでいっぱいになっている。
水曜日まではあと何日かあるが、それまで待てないと思った。
一人きりで夫と気まずく過ごしていくことなんて出来ない。
私は携帯電話で賢治の番号を呼び出す・・・。
『お願い・・・出て・・・。』
最初に電話を掛けた時は、こんな気持ちではなかった。
電話に出て欲しい気持ちと、出ないで欲しい気持ちで手が震えた。
今は違う。賢治が電話に出なければ気が狂いそうだ。
『もしもし・・・。』
あの日と同じ眠そうな賢治の少し擦れた低い声。
『・・・賢治くん・・・』
そのまま何も言葉が出てこない。
『どうした?葵?何かあったのか?』

優しく、はっきりとした声で賢治が問いかけた。
それでも私は何も答えられないまま、嗚咽だけが賢治に伝わる。
そんな状態が何分か続いた後、賢治が少し同情の色を滲ませ
『会って話し聞こうか?』と言ってくれた。
私はすがる気持ちで『うん・・・。』と小さく答えた。
『今からでも大丈夫?』
『うん・・・。』
『じゃあポストのところに1時間後でいい?』
『うん・・・。』
『あんまり思い詰めるなよ。』
『うん・・・。賢治くん、ごめんね・・・。』
『大丈夫だよ、1時間後ちゃんと来いよ。』

賢治の優しさでまた涙が溢れそうになっていた。
でもいつまでも一人で泣いている訳にはいかない。
1時間後には賢治と会うんだから・・・。この泣き腫らした目をなんとかしないと。
私はあの頃の賢治の趣味を思い出しながら、着ていく服を決め、メイクをした。
真っ赤になった目は隠すことが出来なかったけれど、恥ずかしくない程度にはなった。
もう出掛けないと約束の時間には間に合わない・・・。
いつの間にかさっきまでのツライ気持ちは影を潜め、賢治と会うことへの緊張に支配されている。

準備に時間がかかってしまい、急いで家を出ようとしたその時・・・
ガチャ・・・
『・・・おい、お前どこ行くんだよ。』
タイミング悪く夫が帰って来てしまった。玄関で向かい合う。
『あなたには関係ないわ。今日は何時になるかわからないから。』
夫に有無を言わせず、押し退けるようにして家を出た。
『賢治・・・賢治・・・賢治・・・』
夫のことなど考えたくない。今は賢治のことだけ考えたい。
自分に呪文をかけるように賢治の名前を口の中で何度も呟いた。
小走りに待ち合わせ場所へ向かう。
ポストの前に賢治が佇んでいるのが見えた。
ほぼ同時に賢治も私に気が付き、手を振る。
その笑顔に何かが切れたかのように、私は走り出した。
そして人目もはばからず賢治に抱きついた。
賢治は驚いたと思うけれど、思い詰めた私の顔を見て何も言わずにそのまま抱き締めてくれた・・・。



~続く~


賢治と思わぬ約束をしてしまい、その約束の日が近付いて来る。
私の気持ちは毎日揺れ動いて落ち着かなかった。
断る理由を考える時もあれば、夫へ何て言って出掛けるか考える時もあった。
しかしそんな私の気持ちを決定的にする出来事が起こってしまった・・・。

夫が珍しく遅く帰宅した。そして更に珍しく酔っている。
同僚に引きずられるようにして夫は帰ってきた。
夫を送ってくれた同僚から事情を聞くと、
『勧められたお酒を断ることが出来ずに飲みすぎてしまった』らしい。
そして、その同僚が教えてくれたこと・・・
『どうも上司に何か夫婦のことを言われて、機嫌が悪いと思うから・・・』
夫婦のこと?機嫌が悪い?
私はその同僚の言っている意味がわからなかったが、丁重にお礼を言って見送った。
玄関で半分寝ている夫をリビングに連れていき、水を飲ませた。
『大丈夫?酔いつぶれるなんて珍しいわね。』
『・・・うるさいっ!!』
一瞬聞き取れなかった。それくらい突然で大きな声で怒鳴られた。
結婚してから一度もこんなに大きな声を出した夫を見たことがない。
考えてみれば、付き合ってからでさえなかった。
優しい夫の変貌に戸惑い、なんて声を掛けて良いかわからない・・・。
『お前が悪いんだよ!!』
再び夫が怒鳴る。私が意味もわからず、黙っていると
『お前は悪いと思ってないのかよ!?え??』
『何のことを言っているのかわからない。』
私はやっとの思いで夫に言葉を返した。
私が悪い?賢治のことが頭を過ぎる・・・。

夫は焦点が定まらない目で私を睨み付け
『お前に子供が出来ないから!!俺が肩身の狭い思いをするんだよ!!』
私は絶句した。
賢治のことではなかったという安心感もあったが、
子供が出来ないことを私一人の責任のように言われたことがとてもショックだった。
『そんなの私だけのせいじゃない。私だって悩んでるのに・・・』
涙が溢れる。搾り出すように私は夫に言った。
しかし夫は思いがけないこと口にした・・・。
『お前のせいじゃなければ、誰のせいなんだよ。』
どっちのせいかなんてわからないじゃない・・・。
そんなことを思ったのも束の間、
『俺は女を妊娠させたことあるから、俺のせいじゃない。』
一瞬で涙さえ止まった。絶句というより、全身が凍りつき窒息しそうだった。
夫は悪びれず、まるでそれが名誉なことかのように
『こんなんだったら、あの時子供産ませておけば良かった。』
と言い放った。
初めて夫に殺意を覚えた。頭の中では様々な思いが駆け巡る。
夫は言いたいことを言い満足したのか、一人でフラフラと寝室へ入っていった。
残された私。夫にだけでなく、世の中全てから取り残されたかのような孤独感。
誰にも拭われることのない涙をひたすら流し続けた・・・。



~続く~

賢治が電話に出た。なぜだか一気に後悔の念が襲う。
しかしここで電話を切る訳にもいかない・・・。
『あ、ごめん・・・寝てたよね・・・。』
『よく分かるね、俺の方こそごめん。』
電話をしてはみたものの、何を話すつもりだったのか頭の中が空っぽになる。
『俺が言ったのにおかしいけど、本当に電話くれるなんて思わなかった。』
私の戸惑いが伝わったのか、賢治から話しを振ってきた。
『もしかして迷惑だった?』
『いや、嬉しいよ。ただ驚いただけ・・・』
少しホッとする・・・
でも5年以上経っても私は賢治に対して低姿勢になってしまうのは何故だろう。

あの頃の私とは違う。世間話のノリで昨晩ふと思ったことを切り出した。
『また会って思い出話しでも出来たらいいな、と思って。』
『そうだね、いつがいいかな。俺は水曜日が休みなんだけど。』
私は驚きを隠しながら、
『私は平日の夜仕事終わってからなら空いてる・・・。』
『仕事してるんだね。じゃあ来週の水曜日は?何時に仕事終わる?』
『18時には終わるよ・・・』
『それなら来週の水曜日19時に駅前のポストの前で待ち合わせしよう。』
『うん、わかった。』
『そう言えば、旦那さんは大丈夫なの?』
そうだった・・・私自身すっかり夫のことを忘れていた・・・
『・・・うん、大丈夫。』
『そっか、それならいいけど。』
その後二言三言交わして電話を切った。
私の気持ちは戸惑いと興奮が湧き上がり、いつまでも落ち着かない。
こんなに話しが一気に進むとは思っていなかったので、
まるで今電話をしたことさえも現実ではないような感覚に陥る。
《勢いで約束してしまった・・・》
賢治が電話に出た瞬間の気持ちは何処へいってしまったのか・・・。
賢治と話しをしている内に夫への後ろめたさなどはなくなり、
それどころか賢治に聞かれるまで夫のことなど頭の片隅にさえ出ては来なかった。
《別に会って話しをするだけ・・・間違いなんて起こらない・・・》

そう自分に言い聞かせる。

会って食事をし、昔話しで盛り上がるくらいでヤキモチを妬く夫ではない。
しかし絶対に浮気は許さないだろう・・・。
まだ新婚だった頃、どこからが浮気になるかと話したことがあった。
その時に夫は
『どんなに心の浮気をしても、俺の所に戻ってきてくれるなら許せる。
 でも体の浮気をされたら、もうその人を抱く自信はない。』

その言葉は『自分以外と体の関係を持ったら離婚する。』と言っていた。
私も同感だった。心の中なんて誰にも覗くことなんて出来ない。
大人になったらそれは演技ではなく、社会に順応するために自然に身につく術。
それを身につけてしまったら、心の浮気をしても一人で片付けてしまうことも出来る。
ただ体の浮気は相手が伴う以上隠し通すことは難しく、
その事実がバレた時はドロドロの愛憎劇が繰り広げられるだろう。
そう考えると心の浮気よりも体の浮気の方が周りに及ぼす影響は大きい。
私はこの3年間心体ともに浮気はしていない。
もしかしたら夫は心の浮気くらいはしたかもしれない。
体の浮気はなかったことは定期的に夫婦生活を営んでいるのでわかる。
今の私の状態は浮気ではない・・・。
こんなに後ろめたい気持ちになっていることが浮気心なような気もして、

私の中で罪悪感との葛藤が始まっている。
《今は突然のことだったから気が動転しているだけ・・・》
自分に言い聞かせ、浮気と言う単語を忘れようと思った。
まだ賢治と会うには時間があり、私はゆっくりと考えることにした。

言い訳なことはわかっている・・・
でもあんなことがなければ、賢治と会うのは断ったかもしれないのに・・・




~続く~

賢治の告白。それは衝撃的だった。
ハタチそこそこだった私にはバツイチ子持ちと言うのは大きな障害。
でもその反面、周りの友人達とは違う恋愛と言う
意味のない魅力も感じた。
若さゆえ恋愛をゲーム感覚でしていた私には、後者の気持ちが勝ち
『そんなの関係ないよ。それとも今も元奥さんのこと好きなの?』
その言葉の裏には《今が楽しければいい》そんな想いが隠れていた。
『元妻のことを今でも好きなら離婚してない。ただ子供はカワイイし、
 今でも仕送りをしているから元妻と連絡を取ることもある・・・』
賢治の私への思いやりと疑いの気持ちが感じられた。
若い私には元妻と連絡を取ることさえ理解出来ないかもしれない・・・
そう思うのも仕方ない。
しかし一方私は《それを受け止めてこそ大人の恋愛が出来る女》
そんなくだらない計算的な想いで
『気にならないよ。当たり前のことだと思うもん。』と言った。
賢治にとっては賢治を追いかける一生懸命な女だったかもしれないが、
私は《賢治にとってのいい女》を演じ始めていた。
迫真の演技の甲斐あってか、
『葵は元妻とは違って若いのにしっかりしてるな。
 俺の彼女になるか?』

『え、ホントに?嬉しい。賢治くんの彼女になる!!』
そして私達は恋人になり、その夜酔いと勢いで結ばれた。

それから私は賢治の亭主関白さに従う貞淑な彼女を演じ、
賢治と順調に付き合っていた。
賢治の友人にも紹介され、賢治の顔を潰さないような完璧な振る舞いをする。
付き合い始めてからは一度も直接褒められることはなく、
デートをしても手は繋がず、3歩後ろを歩くような感じだった。
友人の間でも若いのに従順で気が利く彼女と言う評判になった。
私自身、そんな彼女を演じるのが快感になり、賢治の友人から聞く
『賢治が陰で葵ちゃんのこと褒めてたよ。』
と言う間接的な言葉で満足していた。
賢治の友人は私に色んな情報を与えてくれていた。
賢治の学生時代のこと、元妻のこと、私への気持ち・・・
亭主関白を自負する賢治との付き合いが続けられたのも
その友人のお陰だと思う。賢治の気持ちを知る唯一の術だったから。

仕事とビリヤードを恋愛よりも優先する賢治。
賢治や賢治の友人の前で良い女を演じる私・・・。
そんな私達に一つの分岐点が訪れた。
『実は仕事変えようと思ってる。』
突然、賢治が言った。ドライブをしている最中の車の中だった。
私はいつも通り聞き役に回り、賢治は話を続けた。
『知り合いに一緒に店をやらないかって言われてる。東京で。』
『東京!?』
東京まで行くには3時間以上かかる街に住んでいた私達。
しかしここで取り乱して今までの演技を棒に振るわけにはいかなかった。
私が複雑な想いでいることを賢治は気が付かない。
『そっか・・・でも夢に近付くんでしょ?良かったじゃん。』
『葵ならそう言ってくれると思った。ありがとう。』
賢治はホッとしたようだった。私の態度は間違っていなかった・・・。
『遠距離だね。ときどきは帰って来られるの?』
『まだわからないけど・・・』
いつ会えるかわからない。そんな恋愛を続ける意味があるのか・・・。
私の中で自問自答が始まる。しかも次に賢治が言った言葉、
『2週間後には行くから。』
早過ぎる・・・気持ちが追いつかない・・・
『見送りに行ってもいい?』
『やめろよ、かっこ悪い。お前絶対泣くだろ?』

私は気持ちに蟠りを残したまま、素直に諦めた。
賢治が出発する当日はいつもの友人達が見送りをし、
私だけが寂しくメールで見送りをした。
そして私達の遠距離恋愛が始まったが、長続きするはずがなかった。
お互いに向いている方向があまりにも違うことを遠距離になって
初めて実感することになった。
賢治が帰ってくるのは月に1回あるかないか。
場合によっては3ヶ月以上帰って来なかった。
私も仕事の関係などで頑張って行っても月に1回だけ・・・。
メールをしても返って来ない。電話も出ない。
賢治の友人に相談したら、
『浮気の心配はないよ、かなり忙しいみたい。』
私には連絡をほとんどして来ないのに、友人には連絡していた。
どんなに貞淑な彼女を演じていても距離があると不安になる。
結婚している訳でもないのに、待っているだけの女に意味があるとは
思えなくなっていた。
そんな気持ちを抱えたまま2ヶ月ぶりに賢治に会いに東京へ行った。
今までは東京に行っても賢治は忙しく、夜会ってホテルに行き
次の日の朝の電車で私は帰って来ていた。
今回はなぜか賢治は休みを取り、私をお台場の遊園地に連れて行った。
そして夜は歌舞伎町を歩き、賢治の社員寮のマンションから夜景を楽しんだ。
これが会うのは最後だと、お互いに感じていた。
翌朝、話を切り出したのは賢治だった。
『別れよう。最近仕事が忙しくて、葵のことを考える余裕がない。』
『うん、何となく私もそんな感じがしてた。』
この時だけは物分りのいい女を演じた訳ではなく、心から思ったことを伝えた。
私自身が距離に負けてしまった。
もう賢治のことを立てる女を続けることは難しくなっていた。
ただ結果的には最後まで賢治を立てる貞淑な彼女になっていたが・・・
『この1年半、葵のその忍耐には頭が下がる思いだった。』
賢治はずっと私を認めてくれていた。言葉に出さなかっただけで。
前日のデートもそんな私への最後のプレゼントだったのだと思った。
『私は賢治くんとの1年半、寂しいこともあったけど楽しかったよ。』

こうして私達の恋愛は終わった・・・。
賢治の友人達に報告をし、家にあった賢治の物を整理し、
その後はもう連絡を取ることもなかった。
賢治のことを耳にすることもなく、私はいくつかの恋愛をして、仕事も替え
何年かを過ごした後、今の夫と出会い結婚に至った。
嫌な別れをしなかった分、今賢治と再会したくはなかった・・・。
今の夫は優しい。その反面、賢治のような男らしさはない。
結婚3年の私には賢治の存在は甘い誘惑の他ならなかった。
《賢治に会いたい・・・。》
ただ刺激が欲しいだけだとわかっていた。
優しい夫、その優しさを裏切ってみたい気持ちに駆られる。
《思い出話しを語るくらいなら・・・》
自分の中の天使と悪魔が囁く。
こんな時勝つのは悪魔であることを7年前はまだ知らなかった。

夫が仕事に出掛け、私も出勤した。
仕事柄、仕事中に携帯電話でメールや電話をしていても
そんなに文句は言われることがない。
それでも誰かに聞かれたり見られたりすることを恐れ、
お昼休みにケータイとあの時の名刺を持って外に出た。
賢治が電話に出ないことを祈る気持ちと、
出るかもしれない・・・という期待の気持ちが入り混じり、手が震える。
プルルッ、プルルッ・・・
『もしもし・・・。』
寝起きということがわかる賢治の声・・・
『もしもし・・・葵です・・・。』




~続く~


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