1月1日(木)晴れ。
 

8時に起床。顔を洗い口を漱ぎ、玄関に日の丸を掲げて、皇居を遥拝。

明けましておめでとうございます。今上陛下の御代、令和8年が佳い年でありますように。

9時に、大悲会の志村、小森両君に迎えに来て貰い、一路、伊勢原へ。昨年は、途中海老名のSAで、大熊、松本両君と待ち合わせをしている時に、岐阜の花房東洋先輩の訃報に接した。花房先輩が逝って、早や一年か・・・。富士山を墓標と仰ぎ、手を合わせた。

 

伊勢原の、浄発願寺にて大熊、松本の両君と合流。野村先生のお墓と、その横にある「道友・同志のお墓」にも手を合わせる。終了後に、私の両親のお墓へ。家族の無病息災をお願いした。

 

この2,3年恒例となっている平塚の盟友のお店にて新年会。昼間の酒が効いて、ヘロヘロになって帰宅。夕方になって、家中のカレンダーを新しいものに交換した。作家の吉屋信子さんの 手のつかぬ 月日ゆたかや 初暦 の句がいつも浮かぶ。今年も、ゆたかな月日を迎えられますように。本年も旧に倍しまして、ご指導とご鞭撻の程をお願い致します。

 

 

12月31日(水)晴れ。

昨夜は、家族揃ってのささやかな忘年の食事会を、馴染みのイタ飯屋さの「オアジ」にて。かなり飲んだのにも関わらず、酒が抜けていて、早く起きられた。パパッと雨戸を開けると良い天気である。良い天気であると言うことだけで、何か華やいだ気持ちになる。

 

愚妻と下の子供を連れて中華街へお年始の手土産を買うついでにランチ。馴染みのお店は、年末で軒並み休みなので、当てずっぽうで、初めてのお店に入ったが、それなりに美味しかった。中華街は、凄い人で溢れていた。何年か前のコロナの頃を考えると、雲泥の差である。暮れも正月も、ほとんどのお店がシャッターを閉めて、まるでゴーストタウンの様だった。手土産を買ってから、自宅近くのスーパーで最後の買い物。二時過ぎに自宅に戻り、夕飯の仕込み。

 

山村家に女中奉公に出るお峰の大晦日近辺を描き、お峰と作者自身を重ね合わせて明治期の貧しい女性の悲哀を浮かび上がらせている。実際、富裕階級の娘らが集まっていた「萩の舎」(師匠の中島歌子の私塾)で2円の金がなくなった時に、一葉に嫌疑がかかったことがあったという。・・・。樋口一葉の小説「大つごもり」である。

 

お陰様で、今年も恙なく終わろうとしている。これから、少し早めに風呂に入って、家族で紅白でも見ながら年越し。新年も佳い年でありますように。

 

12月30日(火)晴れ。

その昔の韓国映画のコピーに「弾は込めた、腹は据わった」と言うものがあった。(多分)、年の瀬、家族が揃う。映画のコピー風に、「マグロもカニも買った。エビは貰った、ビールも届いた」・・・。金がなくとも、家族が皆健康で笑顔で食卓を囲む事が出来て嬉しい。

玄関に松飾り、正月飾りを据え、正月のお花、小さな鏡餅を置き、後は新年を迎えるだけ。

 

一年はあっという間に過ぎる。今年も、一月から親しい人たちが、幽明を境にした。また、昨日の新聞には、今年亡くなられた有名人の方々が取り上げられていた。私にとっては何と言っても6月の長嶋茂雄さんの死が、とてもショックだった。昭和の戦後生まれの私にとっては、「昭和」と言ってすぐに頭に浮かぶのは、石原裕次郎、美空ひばり、長嶋茂雄の三人である。裕ちゃんの映画は殆ど観たなぁー。歌は「赤いハンカチ」が一番好きである。

 

映画化された「赤いハンカチ」の最初のシーンは、山下公園の街路樹の脇に立つ裕ちゃんが、ホテル・ニューグランドを見上げる場面から始まったのではなかったか。そして、今はなくなってしまった野毛山遊園地の映像が出る。その近くを通ると、子供の頃に母に連れて行って貰った、遊園地のことを思い出す。映画が公開されたのは、昭和39(1964)年で、私は中学の2年生だった。

 

あれから61年・・・。今年も暮れようとしている。皆さん。佳いお年をお迎え下さい。新年も又、ご指導とご鞭撻のほどを宜しくお願い致します。新年が、皇国はもとより皆様にとりまして佳い年でありますことを心からご祈念申し上げます。

 

12月29日(月)晴れ。

昨日とは打って変わって、今日は良い天気である。午前中に、予約しておいた床屋さんに行く。年末は、どうも床屋さんに行ってさっぱりしないと落ち着かない。最も、伸びて切る程の髪の量もないけれど。

 

天気が良く、シャンプーや顔そりをして貰っている時、良い天気なので、暖かい日差しが、床屋さんのウインドーから射し込んでくる。こんな些細な事でも、恙なく迎える年末の穏やかな日に感謝する。

 

夕方、東京に住んでいる下の子供が帰ってくる。久しぶりでの家族が揃う。大晦日は、家族で「紅白」を見ながら年越しをする。若い頃は、そんな年越しを『陳腐」だと思っていたが、今では、一つの「行事」として楽しんでいる。と言っても、新聞に発表された「紅白」の出演者の半分ほどの名前を知らないし、どんな歌を歌っているのかも分からない。出場者のすべての顔と名前、歌が分かったのは、いつの頃までだろうか。

 

横浜は、大晦日、年が明けた瞬間に、横浜港に停泊している船が一斉に汽笛を鳴らす。私たちは、除夜の鐘よりも港の汽笛なのだ。風向きによっては、港から離れている我が家にも汽笛の音が聞こえる。一人住まいの時は、その汽笛が、寂しく聞こえたものだが、家族で聞く時は、「ああ新しい年が始まる」と華やかな気持ちになる。北海道にいた時に、この時期になると、中国の詩人、高適の『除夜作』という漢詩が心に沁みた。

 

旅館寒燈獨不眠  旅館の寒灯に 独り眠れず

客心何事轉凄然  客心 何事ぞ 転(うた)凄然
故鄕今夜思千里  故郷 今夜 千里に思う
霜鬢明朝又一年  霜鬢(そうびん)明朝 又一年

 

霜鬢(白髪頭)明朝、また一年か・・・。

 

 

 

 

 

12月26日(金)晴れ。

この時期の手紙の常套句ではないが、「今年も愈々(いよいよ)残り少なくなりました」。勤め人でもないのに、この時期は、浪人の身とは言え何かと気ぜわしい。事務所の片づけや、様々な「お礼状」を書いたり、一日があっという間の為五郎。ではなく終わってしまう。

 

お礼状に使用する、B5版の「大礼紙」を買いに「そごう」へ。ついでに、好きな「ワンタン麺」のお店の「広州市場」にて昼食。私は、麺なしの「ワンタンスープ」に「餃子」。食後に、そごうの地下で夕食の肴の買い物。その後帰宅して、PCで仕事。

 

新聞で知ったのだがJR関内駅前の商業ビル「セルテ」が、今月の30日で閉館するらしい。そのビルが出来た頃は「センタービル」と言っていた。「58年の歴史に幕、再開発」するとか。ビルが出来た当時のことは良く覚えている。確か私は高校の一年生で、学校が終わると、横浜公園の前にあった「ボア」という喫茶店でアルバイトをしていた。お店の、先輩方に連れられて、ビルの最上階にあった「カウベル」というレストランで食事をしたことがある。カウベルは、其の後ディスコに変わったが、私が行った時には、まだ普通のレストランだった。

 

4月というのに、珍しく「雪」の予報が出ていたが、まさかと思って、はしゃいでいたら、予報が当たって大雪となり、仕方がなく、関内から自宅まで歩いて帰った。

「セルテ」から書店がなくなってから、足が遠のいたが、58年も経ったのか・・・。ビルが建つ前には、ガラス屋さんがあった事を覚えている。関内駅周辺も再開発で、好きな蕎麦屋の「利休庵」」も、野村先生の馴染みだった、天ぷら屋の「天七」も休業するとのこと。街の形が変わって行くのも、ある意味では寂しいものだ。

 

夜は、寒いので「おでん」、そごうで買った「鶏肉のみそ漬け」。お供は「黒霧島」をお湯割り、梅干し入りでやった。

12月21日(日)晴れ。

暖かい日だった。上の子供が、山下町の産業貿易センターにある「パスポートセンター」にパスポートを取りに行くと言うので、お付き合い。子供の新しいパスポートを見ると、かつて私が取得したものとは格段の差がある。随分と精巧になったものだ。

 

そのまま中華街に行き「安記」で、お粥の昼食。本通りは人でごった返していた。食後に、某中華料理屋に行き来年二月の新年会の予約を済ませてから、夕食の買い物をして帰宅。

 

昭和39年、その年の秋の東京オリンピックを半年後に控えた4月、政府関係や業務、留学などに限られていた日本人の海外渡航が「年一回、外貨持ち出し500ドルまで」の制限付きで自由化された。資料によれば、自由化一週間後にハワイ7泊9日のツアーが実施された。料金は36万4千円。大卒の国家公務員の初任給が1万9千円の時代、現代の物価に換算すると、約400万円にもなるとのこと。1ドルが360円の時代、500ドルではろくにお土産も買えなかった。それを考えると、良い時代になったものだ。

 

自宅で『嵐を呼ぶ女-アカデミー賞を獲った日本人女性映画プロデューサー、愛と闘いの記録』(吉崎道代著・キネマ旬報社刊)を読了した。その本のことを知ったのは、3年前の12月7日の産経新聞の書評での事。本の扉に、その時の書評の記事が貼ってある。この本のように、書評や本屋で選んで、「その内に読もう」と思って買ってある本が、常に5冊ほどキープしてある。読む本が無くなった時のために「積ん読」のだ。『嵐を呼ぶ女』はとても勉強になった。何気なく見ていた映画が、企画やシナリオの段階で買い付けたり、映画の制作のために資金集めもする。そういった映画のプロデュサーが、映画への思いを込めて日本に来た映画を、見ていることを初めて知った。著者の吉崎さんが、プロデュースした映画を随分と見ていた。今年あまた読んだ本の中でもベストの本かもしれない。良い本との出会いは、良い人や良い酒の出会いのように、人生の潤いとなる。

 

夜は、子供一緒に、「551」の肉まんと焼売、中華街の北京飯店の小籠包、松原商店街の魚幸のマグロ。お供は「魔王」。録画しておいた高校駅伝を見ながら独酌。

 

12月16日(火)晴れ。

師走だからという訳ではないが。、何となく忙しい日々を送っている。12日の金曜日は、お世話にになっている方たちへ暮れの挨拶回り。午後は、この時期に楽しみにしている「うなぎ」の名店「八十八」にてご苦労さん会。地元に「うなぎ屋」はあまたあるのだろうが、私は、「八十八」が一番好きである。しかし、ポケットマネーで度々という訳には行かない。盟友にお世話になって、やはり好きな高知の栗焼酎「ダバダ火振り」(この焼酎があるのは珍しい)を皆で一本空けた。

 

13日の土曜日は、私が役員の末席を汚している民族革新会議の納会に松本佳展君と参加。今年亡くなられた鈴木康孝さんを偲んで献杯。また還暦を迎えた水谷さんのお祝い。若い頃からお世話になっている山口申先生が、殊の外お元気で嬉しかった。二時間ほどで、民革の会歌「梅と兵隊」を皆で歌って解散。

 

14日の日曜日は、朝から、お歳暮などのお礼状書きと、印刷所から上がって来た機関誌『燃えよ祖国』の最新号(304号)の発送の準備。機関(紙)を出している団体は多いが、(誌)すなわち冊子の機関誌を定期的に出している団体は少ない。私の所に届くのは大東塾の『不二』くらいか。304号か・・・。良くやっていると、自分を褒めたい(笑)

 

15日の月曜日は、お世話になっている方と、自宅近所の寿司屋「浜一」で時局を肴に一献会。

 

そういえば、自宅近くの蕎麦屋で「かつ丼」を食べたが、かつ丼にも「並み」と「上」があるのだが、どう違うのだろうか。豚肉の種類、部位が違うとは考えにくいので、「厚さ」だろうか。今度行ったら聞いてみたいと思っている。

 

馴染みの肉屋で「和牛」の「牛筋」が安かったので1キロ買って、2度ほど「煮こぼし」してから「圧力鍋」で30分煮て、大根、人参、こんにゃくを入れて、「業務スーパー」で買った「スープ」で煮てみた。寒い日の夜は、こういうものに限る。美味しかった。最近は、350ミリの缶ビールを2本飲んでから、「黒霧島」をお湯割りにして飲んでいる。寒いせいもあるのか「ソーダー割り」が飲めなくなった。今夜も、いざ我が友よ、まず一献。※「八十八」の鰻。

 

 

12月9日(火)晴れ。

 

午前中は事務所へ。『開高健集』をもう一度読みたくなって探したが見当たらない。しばらく探したが、面倒になってあきらめた。少し本を整理しなければ。午前中ぎりぎりで整形外科で肩と首の治療。終了後に、京急の井土ヶ谷駅ちかくの「ココイチ」で、クリームコロッケカレー、ご飯は150グラム。

 

2時から、事務所に行く途中にある神奈川ドライビングスクールで免許更新のための「認知機能検査」を受講。私を含めたジジイ10人ほどと一緒。絵を見ての記憶力検査や、数字の記憶、最後は「今日は、何年何月何日ですか」だって。そんなことも分からないくらいボケちゃいねぇよ、と思っても口には出さず、ひたすらお付き合い。「認知症ではありません」とお墨付きを頂き、終わりかと思ったら、来年4月に「認定高齢者講習」を二時間受けなければならない。受講料が8千円だって。高齢者に優しくない料金だなぁー。

 

夜は、古いお付き合いをしている、水原、山崎、ハマチャンの三人と「やまと」での一献会。思い出話に花が咲き、飲んだビールが5万本。(この歌知っているかなぁー)その後、「愛福楼」に転戦。紹興酒を2本開けてから解散。いい夜だった。※「やまと」名物の「丸揚げ」。

 

 

12月3日(水)曇り。

 

以前にも書いたが、この一年くらい食の好みがガラッと変わってしまった。そういう時は、体が危険信号を発していると、何かの本で読んだことがある。加えて、食欲もない。まあよく考えれば、70も半ばになって食欲旺盛と言う人も少ないのだろうが、朝起きても、ほとんど朝食を食べる気がせずに、昼頃に、どこかに食べに行く。最近は、昼飯はほとんど外食である。夜も、酒でごまかしての食事と言うのが続いている。歳のせいなのか、体調が悪いのか良く分からないが、とりあえずは、好きなことをやりながら、何とか生きている。

 

今年も、随分と訃報が続いた。今日(5日)も、中学、高校の同級生から連絡があり、若い頃から知っている、4歳ぐらい年下の女性が亡くなり、サリー姐さんたちと一緒に通夜に行ってきたとのこと。又、犬塚先輩からのラインでは、民族派の同志であり拉致問題に長いこと携わっていた方が亡くなったと。その方は、私と同じ歳である。更に、私が役員の末端を汚している、民族革新会議の同人で、興亜青年同志会 会長の鈴木康隆氏が亡くなられた。そして、やはり古いお付き合いのあった森田文憲さんも・・・。

 

森田さんと初めてお会いしたのは、確か昭和49年頃に、学純同の大場俊賢先生の呼びかけで、核拡散防止条約の反対運動での共闘会議が結成された時と記憶している。その共闘会議では、鈴木邦男、阿部勉、犬塚博英といった一水会関係の諸先輩や、当時、新日協に所属していた笠原正敏さん、京都は洛風会の魚谷哲央さん、学純同からは、長谷川光良、前田伏樹らの諸兄に、「立ち上がる青年、神道人の会」という団体を主宰していた森田文憲さんといった方々と共闘した。森田さんとは、それほど濃いお付き合いをしてきたわけではないが、大事な運動の場では、いつもご一緒させて頂いた。伊勢神宮の式年遷宮の「お白石持ち行事」でお会いしたことが懐かしい。又、野村先生の盟友であったサム・エンタープライズの盛田正敏さんも亡くなられた。

 

夜は、寒いので、鶏肉のつみれ鍋を囲んだ。〆はラーメンを入れて食べた。お供は、頂き物の「魔王」。酔狂亭にて独酌。

 

 

 

 

12月2日(火)晴れ。

 

初めてパスポートを取ったのは、平成2(1990)年の事だった。そのパスポートを持って行った初めての海外は香港で、飛行機の便は違ったが、旧リージェント・ホテルで野村先生と合流した。

 

そのパスポートで、随分と海外へ行った。一番多かったのはサイパンと韓国だが、頁が出入国のハンコで一杯になり、次にパスポートを作ったのが令和元(2019)年。以降コロナで、一度も海外には行っていない。加えて、子供が社会人となり、中々家族揃って休みが取れなくなったと言うことも、海外に行かくなったことの一つである。

 

最後に行ったのは、平成27(2015)年の台湾で、久しぶりに女房と二人で旅をした。旅の思い出として写真はもちろんだが、言った国の小銭(コイン)を無造作に集めている。と言うよりも、小銭なので両替するのが面倒なので、そのまま残っていると言った方が良いのかもしれない。ヨーロッパは、ほとんどユーロとなってしまったので、イタリアのリラやフランスのフランのコインなどは、もう使えないだろう。他には、韓国、中国、台湾、フイリピン、タイ、香港ドル、米ドル、スペイン、モロッコなどのコインが、かなりある。暇な時にコイン・ブックを買って整理したいと思っている。

 

子供が、2,3歳の頃のパスポートを見ると、名前を書く所に「父代筆」とあって懐かしい。その代筆のパスポートを持って、子供たちが初めて海外に行ったのは、サイパンだった。

 

夜は、ミスジ肉、スライス・マッシュルーム、キンメダイのみそ漬け。お供は「黒霧島」。当方特撮映画DVDコレクションの『地球防衛軍』を見ながら独酌。小学生の頃に見た映画だ。ワクワクした。※2004年、二度目のサイパンにて。