2月9日(月)晴れ。

いやはや昨日は、珍しく横浜に雪。午後から二軒ほど用事があったので、これ以上積もったなら、丘の上の我が家では外出は無理かと思っていたら、午後には天気が回復して一安心。しかし、寒くて参った。

 

長いお付き合いをさせて頂いている東方青年連盟の新年総会があり、松本佳展君と共に出席。終了後に草莽崛起の集いに向かうが、勉強会には間に合わず直会に参加。志村馨、林雄毅の両君らと合流。本日の講師である木村岳雄さんとは、彼が行動を起こした建国義勇軍事件で、獄中に座している時に手紙をやりとりしていて、当時、私が編集をしていた『大吼』に原稿を書いて頂いたことがあった。木村さんの戦線復帰のお祝い以来の再会であった。

 

雪を見ると、何か胸騒ぎがする。安政7(1860)年3月3日の「桜田門外の変」、昭和11(1936)年2月26日に起きた「2・26事件」。そして、恩師である野村秋介先生が「財界の営利至上主義を撃つ」として同志と共に決起した「経団連事件」の際も、一瞬雪が舞った。雪と桜は、様々な意味で日本人の魂を揺さぶる。

 

2・26事件の際、雪の舞う早朝に近衛歩兵三連隊の栗原安秀中尉は、兵を集合させ、こう檄を放つ「これより妖雪を払い、御聖断を仰ぎ、昭和維新を断行する」。風 蕭蕭(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し 壮士(そうし)一たび去りて復(ま)た還らず。

 

夜は、お世話になっている方と、久しぶりに紅灯の巷にて杯盤狼藉。ただし「お湯割り」を少々。

 

 

 

2月5日(木)晴れ。

天気が良いと、毎日一時間近く歩いている。かなり真面目に歩いている。お陰様で毎日天気が良い。自宅から、弘明寺駅前を通り、商店街を抜けて、志村馨君の勤め先で彼の顔を見て、京急井土ヶ谷がゴール。ここまで約一時間と少し。

 

何年前かは失念したが、今日の様な天気の良い日に、大岡川沿いを歩いていたら、ちょうど川沿いにある小学校の音楽の時間だったのだろう、開け放たれた窓から、子供たちの歌う『故郷の人々(スワニー河)』が聞こえてきた。懐かしさでしばし聞き入っていたが、突然、その歌を歌っていた子供の頃が脳裏に浮かんだ。私が、通っていた小学校は、横浜の下町の丘の上にあった。金持ちの子供が通う私立関東学園の前、東条英機さんなどの戦争指導者が荼毘に伏された、葬儀場が近く、学校の周りにはお寺が多かった。

 

学校が高台にあったために晴れた日の教室からは、富士山が良く見え、埋め立て前の根岸の海が夕日に輝いていたのを覚えている。小学校の4年から卒業まで、担任となった「軍隊上がり」を自慢していた田端という先生は、金持ちの家の子や勉強のできる子供ばかりえこひいきして、そのどちらでもない私は、何かというと理不尽に目の敵にされた。今では考えられないが、平手のビンタは当たり前、膝で足の脛を蹴るなどは日常茶飯事だった。思い出しても、これまでの私の人生の中で、三本の指に入る程の嫌な奴だった。まあ、それでも悪いことばかりではなく、同じクラスにいたオクガワケイコさんという、頭が良く美人で、歯が真っ白でとてもきれいな女の子に会えるのが楽しみで、仕方なく休まず通っていた。『故郷の人々』は、そんな苦くも淡い思い出のある小学生の頃を思い出させてくれたのである。

 

朝食は取らずに、昼は、盟友が私の体を気遣って届けてくれたウェルネスダイニングのお弁当に「都築農場」の新タマネギを「減塩味噌」で味噌汁に。夜は、鶏のモモ焼き、牡蠣のガーリック、オリーブオイル炒め。お供は、恵比寿350ミリ缶一本と、お湯割りを2杯。酔狂亭にて月下独酌。※写真は行ったことはないけれど、スワニー河。

 

2月3日(火)晴れ

 

腎臓の数値が良くないと医者に言われてから、一応、節制した生活を送っている。まず減飲、減塩はもとより、毎日一時間近く歩くことを心がけている。晩酌は、350ミリの缶ビール2本と焼酎のお湯割りを一杯。これを絶対国防圏として死守しようと心がけている。「威勢が悪いと」笑わば笑え、これも体調を整えて酒を美味しく飲むためのスタンバイなのだ。

 

衆議院選挙の真っ最中。下馬評では高市与党が圧倒的有利とか。急ごしらえの選挙対策の「中道」など、国民に浸透する訳がない。相手に、攻守の隙を与えずに、解散総選挙て出た高市総理の戦略が功を奏したと言うことか。国民に「10万円給付」を公約とした政党がある。思わず、お前の家や資産をまず売却してからやってみろ・・・。選挙になると、無責任に、「あれもします。これもします」。まあせいぜい頑張って下さいな。本日、ウォーキングを兼ねて、京急の弘明寺駅ちかくの図書館にて期日前投票を行ってきた。

 

彬子女王様の『飼い犬に腹を噛まれる』を読了した。女王様の本は、これで二冊目。以前に読んだのは、オックスフォード大学留学記の『赤と青のガウン』。この本もとても良かった。文章がとても上手で、知識の宝庫である。このような方が、ご皇族の一人でおられることを、日本人として誇りに思う。

 

夜は、薄味で「牛筋」の煮込み、カルビ焼を「ポン酢」で。恐る恐る缶ビール一本とお湯割り一杯。寝る前に布団乾燥機で30分ほど布団を温めてから寝るようにしている。これがとても気持ちが良い。歳と共に、寒さが身に染みるようになった。

1月31日(土)晴れ。

 

何だ、1月も今日でお終いか。早いなぁー。珍しく上の子供が何も用事がないと言うことで、女房と三人で伊勢佐木町の横、吉田町の鰻屋「八十八」に行った。遅くなったが、サイパンからの安着祝いを兼ねてである。良い天気なので、途中でバスを降りて40分ほど歩いた。実は、帰国してから病院で検査を受けた所、腎臓の数値が悪く「このままでは透析をせざるを得ません」と言われ、ガクッと反省し、減酒、減食、減塩と毎日のウォーキングを決意して実行している。三月後半の再検査までには、とりあえず良い結果を出したいと思っている。

 

君は「ハルノート」を知っていますか。「ハルノート」とは、1941年11月に日米交渉の最終段階で、アメリカ国務長官のコーデル・ハルが日本側に提案した外交文書。その内容は、中国とフランス領インドシナからの撤退や、アメリカが支援していた蒋介石率いる国民政府への支持、中国における治外法権と租界の放棄、日独伊三国同盟の実質的な破棄などを日本に迫るもので、事実上の国交断絶、宣戦布告に他なりません。

 

医者に、腎臓数値悪しと言われた時、頭に浮かんだのが、その「ハルノート」でした。よし、頑張っちゃうからね。と決意を新たにした次第。

 

サイパンでの思い出を楽しんでる。久しぶりに「アルバム」を買って、写真を貼っている。旅の楽しみは三回ある。と教えてくれた友人がいた。まず、旅に出る前に旅装を整え、行く国、場所のことを考えている時。次は、当然、現地での楽しみ。最後は、その旅の思い出をアルバムやパソコンに取り入れて、思い出している時。何時まで、家族揃っての旅など出来るかは分からないが、健康に留意して、元気なうちに又、旅に出たいと思っている。※サイパンのホテルにて。また奴と会った。

1月30日(金)晴れ。

 

盟友であるOKIさんのお世話で、22日から26日まで、実に16年ぶりに家族でサイパン島を旅しました。初めてこの島を訪れたのは、野村先生が自決なされる前年の平成4(1992)年8月、もう34年も前の事だ。本島から船で20分ほど行ったところにあるマニャハガ島に遊んだ。その島からの帰りの船で、船長が「この海底にゼロ戦が眠っています」と言うと、先生は、突然海に飛び込んだ。この時から、先生の歌の十八番(おはこ)が「さすらい」から「群青」に変わった。

 

其の旅から8年後の平成12(2000)年2月,所謂「バンザイクリフ」に忠魂碑を建立した、蒼風社の皆さんのお招きで「忠魂碑建立7年祭」に参加させて頂いた。私は、その2回のサイパン島行きで、感ずるものがあり、以後ほとんど毎年のように、同志はもとより家族と慰霊巡拝の訪問を続けた。最後に行ったのは2010年1月。二人の子供が大きくなるにつれ、部活や学校の行事等で、家族揃っての旅が難しくなったこともあり、サイパンから足が遠のいた。

 

盟友からの厚意とご招待が無ければ、今回の旅も実現しなかっただろう。子供たちも、久しぶりのサイパン行きをとても楽しみにしていた。ホテルは、当時定宿だったホテル・ハファダイ(現・グランヴィリオリゾートサイパン)である。飛行機の都合で、成田発が夕方の5時、サイパン着は10時近かった。(次回へ続く)

 

1月14日(水)晴れ。

昨年の1月1日に亡くなられた、岐阜の花房東洋先輩が設立した一般財団法人・昭和維新顕彰財団発行の「青年日本の歌・史料館目録」をご恵送頂いた。その史料館は岐阜の護国神社の境内に建てられている。史料館の中で白眉なのは、5・15事件の指導者であった三上卓先生が作詞なされた「青年日本の歌」別名「昭和維新の歌」の1番から10番までの三上先生直筆の書であろう。

 

史料館には、花房先輩が師事した三上先生の書や資料が中心であるが、その他に「維新派史料」として頭山満先生、井上日召先生、そして野村先生の書なども掲載されている。ご恵送された立派な『史料館目録』だが、残念なことが二つ。それは、私が寄贈した昭和二十八年に熊本の柴垣隆邸(大凡荘)において行なわれた「宮崎滔天・民蔵・孫文追悼集会」の際に集った方々の寄せ書きである。横が一メートル五十、縦が二メートルでふすま一枚程度の大幅である。写真に写っている方々の寄せ書きは六十七名。右翼・民族派の錚錚たる人たちや、政財界の方、保田與重郎や日本浪漫派の人、あるいは中国国民党の要人の方などである。その写真がないのは、編集した方が、その価値を理解できなかったのか、正に画竜点睛を欠く思いがする。

 

そしてもう一つは、やはり私が寄贈した野村先生直筆の代表句「俺に是非を説くな激しき雪が好き」の色紙と扇子。解説が二つとも「激しい雪」となっている事だ。私も編集者の端くれ、自戒の念を込めて、私も気を付けなければと思った次第である。

 

夜は、久しぶりに、伊勢佐木町の近く、吉田橋商店街の鶏肉の専門店「梅や」で買った「日南どり」を使って「鳥鍋」にした。〆は「水沢風うどん」。お供は、道の兄、阿部勉さんが愛した「栄川」の2級を熱燗でやった。

 

 

1月10日(土)晴れ。

 

最近運動不足なので、昨日に続き今日も1時間ほど歩いた。昼食は、スーパーの天丼。夜は、上の子供の「ふるさと納税」の返礼品の「蒸しホタテ」を使ってアヒージョにした。後は、小エビのフライ、暮れに買ったマグロの赤身を「漬け」にして食べた。お供は「魔王」。酔狂亭にて子供と対酌。

 

三月になると、75歳、早生まれだから76歳の人と同期である。そして後期高齢者となる。戦前の童謡に「船頭さん」と言うものがあって、一番の歌詞に「村の渡しの 船頭さんは 今年六十の お爺さん」。当時は、正月が来ると、一つ年を重ねる、「数え年」だったから、58,59歳の人でも「お爺さん」と呼ばれた。現在では、60歳になったばかりの人を「お爺さん」呼ばわりしたら怒られるに違いあるまい。私も、遠慮があるのかもしれないが、これまで、面と向かって「お爺さん」と呼ばれたことはない。

 

私が子供の頃、お爺さんと言えば、ほとんど明治生まれの人だった。昨年の調査では、現在明治生まれでご健在の方は4人しかいないそうである。私の母は、大正8年の生まれであるから生きていれば106歳。会ったことはないが、祖父は、明治生まれで、曽祖父は、元治か慶応生まれ、早い話が江戸時代の人である。こう考えると、江戸や明治はそう遠い昔の話ではない。

 

とにかく、家族に迷惑を掛けずに歳を取りたいものだ。※3歳の頃、親戚のお姉さんと。72年も前だ。

 

 

1月7日(水)曇り。

 

昼食は、中華街のチマキを蒸して二個、新ワカメのスープ(ウェイパー味)。夜は、すき肉焼き、向田邦子風の「新ワカメの炒め物」、ワカメとレタスのサラダ。お供は「魔王」をお湯割りで。大人しく酔狂亭にて独酌。

 

随分前の事だが、韓国に行った時に南出門市場をぶらぶらしていたら、日本の「おでん」に似た美味しそうな煮物があったので、お店の人に「これは何?」と日本語で聞いたら、「おでん」と言う答えが返って来た。少し長めの串に刺さっている「おでん」の具は殆どが魚のすり身だったが、食べてみたら、とても美味しかった。

 

ガイドさんに効いたら、「おでん」の他に、韓国に定着している日本食は「海苔巻き」に「トンカツ」だそうだ。韓国でトンカツは食べたことはないが、海苔巻き、キムパプは好きでよく食べていた。韓国に行くと必ず訪れるのは江南(カンナム)のカルビ専門店のサムウォンガーデンである。

 

韓国へは、子供が小学生の頃に一緒に行ったことがある。ちょうど、史跡の南大門が焼けて再建中の時だ。インドアーの遊園地ロッテワールドに連れて行った。その他釜山も好きな町で、港町の風情が良い。この時期は、寒くてとても駄目だが、暖かくなったら久しぶりに、韓定食でも食べに行って見たいと思っている。もちろん南大門市場で「おでん」を肴にマッコリでもやりながら。※平成20(2008)年7月、ソウルの食堂にて。このお店は殆どの客が日本人だった。

1月5日(月)晴れ。

その昔のテレビのCMに「お節もいいけど、カレーもね」と言うものがあった。「お節」など、もう何年も誂えたことはないが、正月料理に少々飽きたので、昼食は暮れにお世話になっている方から頂いたレトルトの「赤牛カレー」に社友の方から頂いた、青森は「十三湖」の「シジミ」で味噌汁。夜は、すき焼き肉での「焼肉」、ポテトサラダ、レトルトのカルビスープ。お供は「魔王」をお湯割りで。酔狂亭にて独酌。

 

毎年、正月は、ニューイヤー駅伝と箱根駅伝三昧なのだが、我が家のビデオデッキが古くて、長時間の録画ができない。暮れに、家電の量販店に行ったのだが、思ったより高かったので、我慢することにした。ニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝)は、GMOインターネットグループが、4時間44分0秒の大会新記録で初優勝した。箱根は、青山学院が、圧倒的な強さで3連覇。

 

GMOの選手もほとんどが青山学院のOB、箱根も青山学院が優勝で、考えて見ると、青山学院の独り相撲の様な感じがする。そういった選手を育て上げた、原監督の手腕が凄い。新聞によれば、今年高校陸上長距離界のエースの三人が早稲田に入学するという。鬼が笑うかもしれないが、来年の箱根駅伝が楽しみである。

 

夜は、レザーディスクで『月光仮面』を見る。流れる主題歌を一緒に歌っている私を家族が冷ややかな目で見ていた。

 

 

 

1月2日(金)晴れ。

暮れから、家に帰って来ていた下の子供が仕事の都合で帰ると言うので、家族揃って、自宅近くのファミレスにて、ランチ。若い頃は、この日には決まって皇居参賀に行っていた。皇居や靖国神社で同志諸兄とお会いするのが楽しみでもあったが、この4,5年は参加していない。理由は、体調と言えば聞こえが良いが、利尿剤を服用しているせいで、トイレが近いせいでもある。皇居の参賀は後輩の松本佳展君にお願いした。

 

物置に、も20年ほど置いたままにしているレザーディスクとデッキがある。売ろうかとも思ったが、大したお金にもなりそうもないので、そのままにしていてたものだ。それを女房に頼んでセッティングしてもらった。自慢ではないが、女房は機械関係にとても詳しいし、器用である。反対に私は、蛍光灯の交換もできないくらいの、機械オンチ。テレビやビデオ、パソコンの設定など全て女房にお願いして、やって貰っている。ごちゃごちゃになっているAVコードを整理して、40分ほどでデッキの接続が完成。まず、『ゴッド・ファザー」の愛蔵版をテスト上映してみた。チリバツ、いやバッチリである。

 

若い人のために、「レザーディスク」とは、直径30 ㎝の光ディスクに両面で最大2時間の映像信号を記録できるビデオディスク規格である。ディスクはLPレコード並みに大きい反面、同時期に普及していたVHSより高画質である。「ゴッドファーザー」の愛蔵版はディスクが7枚で「特別完全版」と「PAR3』をセットにしたものだ。このディスクは『不良ノート』で有名で平成20(2008)年に亡くなられた百瀬博教さんから頂いたものだから、もう20年も前の物だ。酒を飲みつつ2枚、4巻まで見て、さすがに眠くなって終了。