3月29日(日)晴れ。

世の中は、三日見ぬ間の桜かな・・・。本当に、ぽやーっとしていたら一気に春、横浜の桜も八部咲きとなった。随分とブログを更新するのを怠ってしまった。去る3月21日は私の誕生日。この歳になって誕生日がおめでたいとは思わないが、それでも多くの友人、一門、社友からお祝い、お祝いのメッセージを頂き感謝しています。

 

昨年から、めっきりと酒が弱くなって、良いことなのか分からないが酒量が減った。だからと言って体調が良いわけでもなく、まあ考えたら歳のせいかもしれない。酔ってもいないのに、なぜか千鳥足。あーんして。昔ラブラブ、今介護。シルバー川柳である。

 

私の誕生日の日に、家族から3泊4日の台湾旅行をプレゼントされた。きっかけは産経新聞の広告「3泊4日台湾の旅」。私は、過去に3回台湾に行っているが、子供たちは初めてである。お世話になっている盟友のご厚意で、盟友の友人である台湾在住の方を紹介して頂き、一日、台北の名所観光の案内をして頂いた。

 

歩く時は、前後に子供がついて「お父さん、階段だよ気をつけて」、「手すりにつかまって」など、完全に年寄り扱いである。古い歌で恐縮だが、島倉千代子さんのヒット曲『東京だよ、おっかさん』の文句ではないが、「久しぶりに、手をつなぎ、親子で歩ける嬉しさに」が浮かんだ。正月は、やはり盟友のOKIさんのお世話で、16年ぶりに家族でサイパンへ。盟友や一門の後輩に感謝する日々である。いつまで元気に家族と一緒に旅が出来るか分からないが、次はまだ、行ったことがないベトナムかシンガポールの旅をと思っている。

※『千と千尋の神隠し』の戻るになったという九份の夜景。

 

3月10日(火)曇り。

今日は、戦前では陸軍記念日で休日であった。明治三十八年の三月十日、日露戦争の奉天会戦にて日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領。そして奉天城に入城した。

 

まるで冬に逆戻りした様な寒い一日だった。4時半に市ヶ谷駅にて、鈴木誠厳氏と待ち合わせて、道の大先輩である政治評論家の山本峯章先生の事務所を訪問。山本先生とは、私が若い頃からお世話になっているが、個人的にお会いするのは多分、初めてのことだと思う。途中から阿形充規先生、若島和美先生らも合流。

 

山本先生の事務所の近くの「しゃぶしゃぶ屋」さんにて食事を兼ねて「山本先生の話を聞く会」を開催。と言っても、全てが山本先生の段取りであるから恐縮する。現在は、政治評論家としてご活躍している山本先生だが、若い頃は民族派の活動家として有名であった。その昔の「新島ミサイル基地闘争」や「山口二矢烈士の浅沼稲次郎刺殺事件」の目撃談、また若き日の野村先生との出会いなど、貴重なお話を聞かせて頂き、とても勉強になった。

 

解散後は、久しぶりに関内の狭斜の巷へでもと思ったが、余りにも寒いので直帰した。※左側奥が山本先生。

3月5日(木)晴れ。

機関誌『燃えよ祖国』の最新号(306号)が完成し、後は、印刷所から届くのを待つばかり。自分へのご褒美として、東神奈川の「菊屋」にて一人鰻重。その後事務所へ。軍資金が乏しくなってきたので、以前から盟友にお願いしていた『大川周明全集』を買って貰うために自宅に持ち帰る。自分で言うのも変だが、事務所には「良い本」が沢山ある。順次整理して行くつもり。

 

歳のせい、と言えば何でも許されるような気がする。この時期、雨でも降ってとてつもなく寒い日など、何もせずに自宅にいて一日が終わる時がある。何をしていたのか・・・。朝起きて食事をして、タピポ茶を飲んで、ユーチューブやコンポで好きな歌手の音楽を聴き、昼になればまた飯を食い、タピポ茶を飲み、本を読んでウトウトして、暗くなれば、「黒霧島」を相手に独酌する。寝ようとして布団に入ると、今日の一日を思い、その堕落に慄然とすることがある。残り少ない人生の大切な一日を無駄にしたことの後悔に一瞬苛まされるが、雨や寒さのせいにして忘れることにしている。李白の詩に「春日、酔いより起きて志を言う」と言うものがある。その一節。

 

世に処(お)ること 大夢の若し

胡爲(なんすれ)ぞ 其の生を労する

所以(ゆえ)に終日醉い

頽然(たいぜん)として 前楹(ぜんえい)に臥す ※前楹は「入口の柱」の意

 

 訳、この世に生きることは、大きな夢を見ているようなの。

どうして、あくせくと、我が生を苦しめてよいものか。

だからこそ、一日ぢゅう酔っぱらい、

くずれるように、広間の南の柱あたりに倒れ臥す。

 (『李白詩選』松浦友久編訳・岩波文庫)

 

李白先生と「一杯、一杯また一杯」とやりたかったなぁ―。※本で雑然とした私の事務所。

3月3日(火)雨。

 

朝から雨。寒い一日だった。久しぶりに、事務所の近くのインドカレーやさんの「ガナパティ」へ。「バターチキンカレー」に「ナン」。食後に事務所にて。「経団連事件」関係のスクラップや資料を少しまとめた。また、先生が自決なされてからの評論や自決事件関係のスクラップを自宅に持ち帰る。

 

私が所蔵する、「河野邸焼き打ち事件」「経団連事件」、「自決事件」関係の資料やスクラップを、スキャナーで取り込んでデーター化しなければ・・・と思っているうちに、歳と共にそんな気力がなくなってしまった。紙の資料などは、私が亡くなったならば散逸してしまうかもしれないので、のんびりとはしていられない。

 

事務所にいる時に、時計を見ると、ふと、そうか49年前の今日、先生らは「経団連会館」に立てこもっていたんだな。と思い出す。そのことをニュースを知った時、「なぜ自分が家に居なければいけないのか」と、悩んだ。その頃に読んだ本が城山三郎の『一歩の距離』だった。その「一歩の距離」を縮めるのに10年の時を要した。

 

平成9(1997)年に「経団連事件」の20周年を記念して「特集号」を出した。これも早くデータ化しなければと思っている

3月1日(日)晴れ。

 

昨日、機関誌の編集をしながらJAZZのオムニバスのCDを聴いていたら、「イスラエルがイランを攻撃」としいうニュースが飛び込んできた。何気なくCDの曲を見たら、流れていたのがマイルス・デイヴィスの「イスラエル」という曲だった。ホンマでっせ。

 

盟友が沖縄から送ってくれたのが、私の好きな「島ラッキョウ」。汚れを落とし、薄皮をむいてから、軽く塩をして、昆布と一緒に漬けた。夜、まだ浅いかなとは思ったが、柔らかい葉の所を食べてみたが、これが中々美味しい。ふふふと頬が緩む。

 

確か、今日は、サリー姐さんの誕生日だ、彼女と私は同じ歳で、私も3月生まれ。お互いに、横浜、それも本牧が最もヨコハマらしい時代に青春を過ごしてきた。仲間は、随分と鬼籍に入ってしまっが、もう少し元気でいて下さい。5月の恒例の「サリーズバーのパーティー」を楽しみにしています。

 

意を決して北方謙三さんの『チンギス紀』(17巻)を読破しようと思って、買った。読書も山登りと一緒、と書いてある本を若い頃に読んだことがある。長編を読破することは、頂上を目指して登る努力に似ていて、その達成感もまた同じ・・・。真面目に読むか。

 

夜は、牛筋煮、島ラッキョウの塩漬け、「湘南餃子」。350ミリの缶ビール二本と、「黒霧島」のお湯割りを二杯。すっかり酒が弱くなた。

 

 

2月26日(木)曇り。

 

二・二六事件の日だ。黙々と一日を課す。-我が秘むる大悲の剣いま凍るー。とは昭和四十七年の今日の野村先生の『獄中日記』である。そして野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』の中には、「二・二六の今年は獄のほそ霙」がある。

 

二・二六事件と言えば、降りしきる雪の中での蹶起…というイメージがあり、私もそう思っていた。しかし、二月二十一日の産経新聞の「色のある昭和」という記事の中に、青年将校らが決起した昭和十一年二月二十六日早朝には、雪が降ってはいなかった。とあり、「雪の中の蹶起」は、私の思い込みに過ぎなかったことを知った。気象庁によれば、この年の二月の東京は雪が多く、事件の三日前には観測史上三位の三十六㎝の積雪を記録。路上には大雪が残っていたが、次の降雪は蹶起直後の二十六日昼前で、映画などで見慣れた雪の降るなかでのシーンは演出だったそうである。ちょっとがっかりした。

 

夕方まで、機関誌『燃えよ祖国』の306号の編集。野村先生の「飽食の中の二・二六」をアンコール掲載した。その原稿の初出は、平成元年(1989)発行の『映画芸術』である。また中村武彦先生が平成五年(1993)に開催された「野分祭」での講演録、「三島・森田両烈士と野村秋介の自決が問うもの』を犬塚博英先輩のご許可を得て掲載。こういった原稿を掲載させて頂くことは、編集者としても、野村先生の門下生としても、光栄なことである。来週中には、印刷所から届く予定でいる。

 

夜は、お世話になっている方と、食事会。食後にサリーズバーに転戦して、早目に解散。

 

 

 

2月25日(水)雨。

久しぶりの雨の日。その昔流行ったクリーデンスクリアウォターリバイバル(CCR)の歌が『雨をみたかい』。好きな歌だった。その歌がヒットしたのは1971(昭和46)年のことで私は20歳だった。まあ、そんなことはどうでもいいか。

 

今月は早々から、葬儀が続いた。親しくしていたご近所の方、後輩、そして野村先生の友人だった方・・・。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。花は年ごとに変わることなく咲くが、人の境遇は年ごとに変化していく。自然が変わらないのに対して、人の世ははかなく移りやすいことのたとえ。そんなことを実感する今日この頃である。

 

21日の土曜日は、来客曰く「日本一遅い新年会」を開催。当日の中華街は春節のお祭りの真っ最中。春節とは、中国の旧正月のことで、中国では新年を盛大に祝う祝日となっている。今年の春節は2月17日(火)で、連休期間は2月15日(日)〜2月23日(月)の9日間。当然ながら中華街は、凄い人で溢れていた。正に、爆竹一声春節を祝う。ご多忙の折、かつ遠路をお越しいただき、心から厚く御礼を申し上げます。

 

 

 

 

 

2月18日(水)晴れ。

 

午前中に、自宅近くのかかりつけの病院で、検診と投薬。一応節制した生活をしているので、血圧を測ったならば、。久しぶりの120台。ふふふやる時はやるもんね、とひとりごちて病院を後にする。何となく、パンが食べたくなって、ファーストキッチンにてハンバーガーにコオヒイ。北方謙三の「十字路が見えるー北斗に誓えば』を少し読む。

 

夜は、鰻のかば焼きにした。と言ってもスーパーの中国産である。水道水で、鰻についているタレを洗い流して、キッチンペーパーで水気をとったら、フライパンに割りばしを敷いて、酒を入れ鰻を3分ほど蒸す。そして、新たに鰻のタレをかけて食べる。こうやると、まあまあ美味しく食べることが出来る。お供は、ドライピールのロング缶一本と、お湯割り二杯で打ち止め。鰻が好きだが、さすがに、そう度々とはいかない。鰻好きで有名だったのは、歌人の斎藤茂吉。

 

随分前の『週刊文春』の平松洋子さんのコラム「この味」には、その茂吉の「鰻好き」のエピソードがある。「ゆふぐれし机の前にひとり居りて鰻を食ふは楽しかりけり」と詠んだ昭和三年には、実に六十八回も鰻を食べている。何と五日に一回の割合で食べているのだ。自宅他、銀座の「竹葉亭」、青山「佐阿徳」、浅草「前川」など都内のあちこちの店に行く。この三店の内、青山の「佐阿徳」は閉店してしまったが、「竹葉亭」と「前川」は営業している。戦時中も鰻の缶詰を幾つもストックしていたと言う。「もろびとのふかきこころにわが食みし鰻のかずをおもふことあり」と詠んだ。斉藤茂吉記念館の運営に尽力した、林谷廣氏の著書『文献 茂吉と鰻』という本もある。※「八十八」の鰻。「月丁」6534円(税込み)

 

「前川」には、盟友のお世話で一度行ったことがある。鰻よ、庶民の値段に戻れ‼

 

2月15日(日)晴れ。

毎日、真面目に腎臓の健康のために盟友から紹介された「ウェルネスダイニング」というメーカーの冷食の「お弁当」を食べている。味噌汁は、社友から送って頂いた青森は「十三湖」の「シジミの味噌汁」。

 

昨日は、野村先生のお誕生日で、お元気ならば今年で九十一歳となられる。午前中にお墓参り。すでに大悲会の志村馨君や憂国道志会の鈴木君らがお墓をきれいにしていてくれた。毎月、ご苦労様である。野村先生の奥様、ご子息、野村思想研の藤巻親子など合流。私の両親のお墓に詣でてから帰宅。海老名のSAで、好きな籠清のさつま揚げを買って帰宅。

 

今日は、中学の先輩で五十歳という若さで亡くなられた山崎邦雄さんのお墓参り。様々な形で縁のあった仲間たちが、もう二十年以上もお墓参りを続けている。皆、山崎さんと知り合った時期や仕事は違うが、十代から親しくしている人たちばかりである。

 

私の人生のターニングポイントは三度あった。まず中学の時に山崎さんに誘われて陸上競技を始めた時。それまでの私は、運動神経がニブく、体育など好きではなかった。それが陸上競技を始めることによって学校で一番の長距離選手になったのだから、「努力は報われる」と言うことを実感したのは、山崎さんとの出会いにあった。

 

次は、昭和45(1970)年11月25日に起きた、いわゆる「三島事件」である。この事件によって、初めて国家、政治、天皇というものを考えるきっかけとなった。その三島・森田両烈士の義挙がなかったならば民族派として今の私は無かったと断言できる。

 

最後は、野村先生との出会いと別れ・・・。正に、人の一生は邂逅の一語に尽きる。という事を実感している。

 

2月11日(水)曇りのち雨。紀元節。

 

昨夜は、町内会の仲良しさんだった桂工業の会長氏が逝去なされ、夫婦でお通夜に出席。最後にお会いしたのは何時だったか。今の時代77歳はまだ若い・・・。合掌。

 

今日は建国記念日、紀元節。起床後、玄関に日の丸を掲げ、遠く橿原神宮を遥拝し、神武天皇肇国の昔を偲ぶ。紀元節、おめでとうございます。若い頃は、大磯の大日本殉皇会の小早川貞夫先生が主催する紀元節奉祝神奈川県大会に参加していた。初めて参加した昭和48(1973)年の奉祝行進の写真がある。皆さん当然のようにお若いが、写真に写っているほとんどの方が幽明境を異にしている。

 

午前中に、春節間近な中華街へ。馴染みの安記へ。天気が悪かったこともあり、昼近かったのに並ばずには入れた。いつもの「モツ皿」「レバ皿」「焼売」「インゲンとイカのニンニク炒め」で、ビールを一本。仕上げは「モツ粥」。食後は、やはり馴染みの「菜香」に寄り、幼馴染みの店長に挨拶してから「中華ちまき」と中華カステラの「マーライコ」をお土産に。

 

帰宅後は、盟友のOKIさんから依頼されいた原稿書き、夕方に脱稿。締め切りに間に合って良かった。夜は、きくらげ入りの野菜スープ、蒸し鶏、豚肉とナスのオイスターソース炒め。お供は、350ミリの缶ビール2本と「黒霧島」のお湯割りを一杯。