自分しか頼れないとき、

自分しか感じ取れない地獄から助け出してくれる蜘蛛の糸は、

自分の中の客観性だと思う。

 

 

本やネット記事を読んでいて、

 

「統合失調症は孤独な病気だ。」

 

と書かれているのを2度ほど見かけたことがあります。

 

よく分っているじゃない。

 

なんてちょっと感心して思ったり。

 

私は被害妄想にのまれるとき、2つの孤独を感じます。

 

自分の周囲が敵ばかり、という妄想による孤独と、自分が認識している状況を誰とも共有できない、という孤独です。

 

 

他の人がみな同じだとは思いませんが、私の被害妄想はいつもありそうなことから始まります。

もっというと、私が深層心理で「ありそうだ」とうっすら恐怖していることが被害妄想になって現れてくる。

 

だから、幻聴を伴った被害妄想が生じる時、自分が病気なのだとわかっていても、今自分が感じていることが現実だと思ってしまう。

 

職場で大勢から悪口を言われた

出かけた先で複数の店員や職員から悪口を言われた

 

そう感じたとき、私は一つ目の孤独を感じます。

 

ひどく傷ついて家族に自分がされたと思ったことを話すと、

 

「そんなこと職員さんが言うわけがない。」

「自分もそばにいたがそんな声は聞こえなかった。」

 

と言われます。

ここで、自分の認識した世界が共有できないという二つ目の孤独を感じます。

 

被害妄想の内容を肯定しろとは言いません。そんなことをすれば相手の妄想を強化させてしまう。

 

けれど、自分が認識した世界が共有できないと感じたとき、私は私一人だけが感じるゆるやかな地獄に一人だけ取り残されたような気持ちになります。

 

 

誰もそばにいないとき、被害妄想を感じたら。その被害妄想の内容を否定し、救い出してくれるのは、自分の客観性ー気づく力だと思っています。

 

自分の主観ー傷ついて、悲しさ、苦しさ、怒り、恐怖でいっぱいになった自分の心や頭から離れて、自分の状況を冷静に見つめる力が必要になってくる。

 

隣室の住人から悪口を言われている、と感じたら、

隣室から日常会話はほぼ聞こえず、自分の悪口ばかり鮮明に聞こえてくる、そんなことはありえない、と気づく。

 

携帯がハッキングされている、と感じたら、

自分のデータの中に他人がハッキングするに値するデータはない、と気づく。

あるいは、ウィルスバスターをいれてみる。

 

気づいて、否定する。

それでも、不安なら、安心できるように過剰にならない程度に対応する。

 

書けば当たり前の事のように感じるかもしれませんが、自分が聞こえている、認識している世界を疑って否定するのはとても難しい。

 

だけれど、気づかないといけないと思うんです。

 


続く


 

何でもかんでも記念すべき時間な今、

相手は忘れてしまっても

自分は覚えている

 

そんな事を思うと一瞬一瞬が自分にとっての

宝物のような気がしてきます

 

 

どうしてみんな忘れたがるのかな

俺は忘れるより、思い出したいよ

 

漫画「ぼのぼの」でスナドリネコさんはこう言ったのですが、私はその気持ちがちょっとわかります。

 

初めて海を見た時

初めて星を見た時

初めて山に登った時

 

その驚きを鮮明に思い出せたら、どんな気持ちになるのでしょう。

 

 

今我が子は0歳で、見るもの、触れるもの、初めての事ばかり。

 

先日初めて梅の花を見たけれど、すぐに見た事なんて忘れてしまうでしょう。

 

でも、一緒に行った私は覚えてる。

その時の公園の様子も、空気の湿り気と寒さも、途中で大泣きした事も。

 

初めての海も

初めての星も

初めての山も

 

その瞬間そばにいるだろう私は、きっと覚えていられる。

 

子供の初めての瞬間に立ちあいながら、

私は私の初めての瞬間を追体験しているように感じるんです。

 

初めての大人風呂

初めてのベビーカー

初めてお祝いでもらったもの

初めての爪切り

 

私自身では到底覚えていない事にもう一度出会う瞬間が、とても愛しく感じられ、


その瞬間に出会えた事に、じっくりとした充足感を感じてくる、

そんな時間が私に時々訪れたりしています。



最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

 

続きです。

 

私は「怒る」という行為は、

 

傷ついた心を守るために生じた怒りという感情を、

自身の内側で処理しきれず、相手に感情を投げつけてなんとか処理しようとする行為のように感じています。

 

病気のせい

ストレスのせい

ホルモンのせい

環境のせい

 

と、怒りを助長させる、ある意味仕方のない要因もあるだろうし、

 

その仕方なさが自分ではどうする事もできないものだと感じれば、

行き場のない感情を吐き出したくなるのは当然の事かもしれません。

 

ただ、

昔どこかで読んだ表現を借りさせてもらえば、

 

怒りを投げつける行為は

相手を自分の感情のゴミ箱にしているのとおんなじだ

 

とも思える。

 

いくら自分で感情を処理しきれないからと言って、

 

相手を気持ちのゴミ箱にするという行為を続けていると、

相手はいつか自分から離れていってしまう。

 

たとえ病気によるものだと理解があったとしても、

あまりに度が過ぎれば家族ですらそばから離れてしまう。

 

しかもそうなるまで相手に投げつけていた感情は

自分の本当に伝えたい事ではなかったりするーと感じることが、

私にはあるんです。

 

でもそんな結末は、悲しすぎる。

 

 

先にも言ったように私は怒りやすく、家族を感情のゴミ箱にしてしまう時がたくさんあります。

 

けれど、その怖さをも感じていて、

 

落ち着くための呼吸法を試してみたり

気持ちに気づくための瞑想を試してみたり

 

小さな試みを繰り返しています。

 

何かあった時怒るのは当然の反応ですが、

できれば怒ったとき、その気持ちの根源となる自分の本当の思いに気づけるようになりたい、なんて思うんです。

 

根源となる悲しいという感情に気づけたら、

その時は感情を相手に投げつける事なく、

預かってもらうように穏やかに手渡しできる気がするんです。

 

 

家族にも

他人にも

自分にも

怒らない

 

怒りを投げつける行為を続けて相手をー失いたくない相手を失わない

自分の本音に気づいて穏やかに伝えていく

 

今は出来ずとも、

そういう事ができる大人に私はなりたいし、

そういう事をする努力の良さを多くの人に知ってもらいたいように思います。

 

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。