一見して、他人から評価されるべき自分自身の成果などなかった20代半ばから数年。

 

けれど、自分の中には、とても大切な成果がありました。

それは、端的に言えば「気づけたこと」。

 

自分がどれだけ視野が狭かったか

 

どれだけ高慢で

どれだけ他人のありがたみに気づけていなかったか

他人を批判することの無意味さ

 

立ち止まって失敗を振り返る時間の大切さ

失敗しない素晴らしさと、失敗しても立ち上がる事ができる素晴らしさ

 

他人なしでは生きていけない弱い自分と、

その弱い自分をびっくりするほどたくさんの人が支えてくれていたこと

 

書き出してみれば、本によく言われている通りの言葉が並びます。

いわゆるごく当たり前のことたち。

 

けれど、大きな収穫だったのは、痛切な後悔を伴いながら、その言葉の大切さを身をもって学べたことです。

 

自分の視野の狭さ、一点を取っても、

他人から漠然と指摘されただけでは、その状態がどれだけ自分を苦しめているか、長い間気づけなかった。

だって、ほとんどの場合は、みえてない部分があることは、見えるようにならないと気づかないですから。

 

ーじっくりと分析するか、じっくりと解説されるか、手本を見せられるかーあるいは痛い思いをしなければ、気付けないことなのかもしれません。場合によっては、それでもなお、気付けないこともあるかもしれません。

 

自分の高慢さと、他人へのありがたみへの認識のなさ、視野の狭さが、露呈した自分の失敗例として、一つだけ過去の後悔を書きたいと思います。

 

 

何年か前、

私は病気になってすぐ後も、元の生活に戻れると信じて疑っていませんでした。

実際に、割と早い段階で一般雇用のいい職場に就職することができました。

 

でも私はその職場で順調に仕事ができていることを、ただ自分のおかげだと考えていました。

 

私は能力があるから仕事ができている

私は努力したから上手くやれている

 

私は治ったのだ、もっとやれる

 

今思えばそんなことはありません。

あの職場で仕事ができていたのは、周りの同僚が素晴らしかったからであり、仕事量が少なかったからであり、たまたま家庭にもストレスがなかったから。だから、被害妄想が起きなかっただけーあるいは起きていても微細な程度で済んでいたんです。

 

けれど、どうでもいいような不満と、資格を使ってもっと働きたい、と考えた私は、

その恵まれた職場から転職して一年足らずでダメになってしまいました。

 

 

続きます

『七転八倒の20代と数年、今日まで生きてこれて良かった。

 いや、私、頑張って、失敗してー本当によかった。』

 

なんて思うことがある、と書きました。

 

「失敗してよかった」と書きましたが、

発症後幾年で失敗し続けた結果、私個人の「目に見える」パロメーターの変化としては、年々下がる一方でした。

 

年収が全てとは全く思いませんが、去年一年で稼いだ額はいかほどだったか。

 

増える転職歴

落ちる年収

 

ハリボテの学歴と資格を持つ私は、発症後、みてくれも美しくない「過去の栄光」を知っている友人や職場の関係者から、

『なんでこんなにぷらぷらと働いているんだ、この人は。呑気でいいもんだなぁ』

なんて思われたりすることが多々ありました。病気のことを話していないので、相手は決して悪くないのですがーこれからも、一般枠で就職する限り悪気なく言われ続ける言葉だろうとも思っています。

 

病気のことを知らない他人から見れば(あるいは知っていても)私の経歴的な評価は、

 

自由人、堪え性がない、無計画ー見る人が見れば、問題ある人間性

 

加えてその他人が知ることのない裏側で、私は何度も被害妄想に苦しみ、友人や家族、職場の人たちをないがしろにすることもありました。

 

ライフイベント的に結婚、妊娠等とても良いことはありました。

ただ、私はずいぶん、主に社会生活において転び続けたんです。一見して、他人から評価されるべき自分自身の成果はない。

 

けれど、自分の中には、ゴツゴツとして無骨で、だけれど手放すことのできない原石を得たような、とても大切な失敗による果報がありました。

こればかりは、決してハリボテじゃないーかもしれません。

 

 

続きます

体調が一進一退の様相を呈す中、動ける時間、割と色々なことに手を出したりしています。

 

メンタル改善のための方策を練ったり、やってみたいことの目標を練ったり…

被害妄想がひどかった時に考えた諸々のことも書き留めておきたい気がするのですが、時間の使い方が下手なのか、文字にするのが進んでいません。

 

乱調のように、ぽんぽんと、書いていきたいと思います。

 

 

もう10年以上前に亡くなられた方ですが、精神科医の斎藤茂太さんが書かれた文章がとても好きでした。

昔の事になりますが、NHKの番組でも「モタさんの言葉」として放送されていて、その番組が流れるたび、手を止めて見入ってしまったり。

 

彼の言葉を紹介した本の中で、

 

「これもまた、長生きの果報であろう。」

 

と書かれた一文があったのですが、なんとなくその言葉の持つ滋味をゆっくり感じたい心持ちになりました。

 

 

私は30歳を過ぎた頃よりか、次第に自分や同級生の「歳」を感じることが増えてきました。

 

30余年生きてきて、長生きがどうとか、歳がどうとかー語り始めたら笑われてしまうかもしれませんが、どこかのネット記事で「DNAのほにゃららから推定される人間の自然寿命は38歳」なんてことが書かれていてーそれを盾にしたら、私だって少しくらい歳をとった気分に浸ってもいいんじゃないかしら。

 

体も、気持ちも、視点も、少しずつ歳をとっている。

 

街中を歩いて、

20代前半なんでしょうか、学生のようなキラキラとした人たちが道をゆくのを見かけると、

 

「この子達は、これから仕事をして、恋をしてー初給料で買い物なんかするんだろうなぁ。

これから、楽しい20代ー夢があっていいなぁ。」

 

なんて思ったりする。

一方で私はというと、

 

太りやすくなったり。

白髪が出てきたり。

焼肉で胃もたれしたり。

疲れやすくなり、無理も効かなくなりましたーこれは、病気のせいかもしれませんが。

 

そして20代で病気を抱えた人生の中、たくさんの失敗をして、30代のいま、

側から見ればほとんど何も積み上げてこなかったように見えるかもしれません。

 

そういうネガティブな変化の一方で、

 

『七転八倒の20代と数年、今日まで生きてこれて良かった。

 いや、私、頑張って生きて、失敗してー本当によかったよ。』

 

なんて思うこともある。



 続きます