言葉は魔法なんだと思います。

 

いい言葉をたくさん知っていると、

いい言葉がどんどん自分の内部に染み込めば、人はずっと生きやすくなる

 

そう思っている節がある。

 

私は言葉がとても好きです。

単語で言えば、聞いたことがありそうで思い出せない、あるいは聞いたこともないけれどどうにも気になる、そんな単語や表現に出会うとウキウキする。

 

「つっぽり」とか、「しゃちほこばる」とか、「メタモルフォーゼ」とか…

生涯で知らなくても全く問題ない言葉たちが逆に、文章や思考に遊びと余韻と少しの余裕をもたらしてくれる気がしているし、

 

詩や小説、随筆、漫画やアニメなどで知った、

心を惹きつけて離さない言葉に、心臓をキュッと掴まられる感覚は何度経験してもドキドキする。

 

私は脳のスペックが90年代のPCのように低速処理な人間なので、読んだり見つけた言葉をすぐ忘れてしまうのですが、けれどPCと違うのは、表面上忘れたようでいてもその実、言葉が伏流水みたいに奥底に染み込んで、時間をかけて、けれどある時急に、ひょっこりと表層の自分の前に現れるーそういう自然的な、生き物的な経験を味わえているような気がします。

 

いい言葉は自分の中に溜まって、内側から自分を少しずつ変えてくれる

 

逆に言えば、どこかで浴びた心無い一言も残念ながら自分の中に溜まってしまうようにも思うんです。

 

それは他人から言われた言葉もあるだろうし、

自分で自分に投げかけた言葉もあると思います。

 

被害妄想や幻聴が再発を繰り返すたびにひどくなる原因の一つに、聞こえた言葉や妄想により置かれた最悪の状況が、事実であろうがなかろうが本人の心をひどく痛めつけてしまったせいじゃなかろうか、と個人的には思うんです。

 

苦しめる言葉

傷つける言葉も、認識すれば内側に溜まっていって、ふとした時に自分を傷つけてくる

 

幻聴や被害妄想という点により注意を向ければ、一度言われたと思ったら、あるいはされたと思ったらーそしてその時、一瞬でも傷つけば。

その言葉や状況が事実であろうがなかろうが、その後にあれは被害妄想だったと処理することができたとしても、

負の言葉と事柄は心の底にゆっくりと染み込むし、心はしっかりと傷つくと思うんです。

 

だから私個人としては、被害妄想的な考えや幻聴がもはや浮かばなくなるくらいまで、自分を癒してあげたいし、仮に浮かんだとしても、一瞬で笑い飛ばしてしまうくらいとんでもなく明るく余裕のある人間になりたい。

悪い言葉は一瞬で人を傷つけはするものの、言われたあるいはされた本人が、その傷つけられた行為にこだわり続ければ続けた時間分、本人の心を傷つけ続けると思いますから。せめて一瞬のちに笑い飛ばして、面白い着地点を見つけられる人間になりたい。

 

逆にいい言葉はシャワーのように浴びて、あるいは目にして、自分の心にためていきたい。

 

視界が狭くなった時、暗くなった時、挫折して立ち直れない時、

生涯で浴びた「いい言葉」は傷ついた自分を無意識にでも助けてくれる

 

何か迷った時、困った時、けれど自分1人で何か選択しなければならない時、

助けになるのは、過去誰かが言ってくれた、あるいは誰かが本で伝えてくれた含蓄に富む「暖かく、前向きで、まっすぐな言葉や考え」かもしれない

 

私のスマホのフォルダには「いい言葉」というフォルダがあって、気に入った言葉のスクリーンショットや写真がいくつも入っています。

 

悪い言葉は人を苦しめる一方で、

いい言葉は人を癒して元気づける。

 

私は言葉使いとしてまだまだひよっこですが、いつかいい言葉を自在に使いこなせるようになりたいんです。

それは言葉は本当に魔法だってことを、よく知っているからなんだと思います。

 

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。

前回の記事を含め、見てくださってる方、いいね残してくださった方、ありがとうございます。

体調芳しくなく、そうでなくとも自身の雑事の中であまり多くの方の記事を追えないですが、ありがたかったです。



続きです。


振り返ればあの孤独を感じた時でさえ、自分は決して1人でなかったのだと気がつく。

 

失敗を通じて、そしてそばの人の支えを通じて、

そうした幸せな人が当たり前に知っている「視点」を、

ようやく身をもって知ることができたここ数年。

 

私はまた何かに挑戦して、また似たようなことで失敗するかもしれません。

けれどもその失敗から、また何か学ぶことができたのなら、

 

この方法では上手くいかないことを学んだんだ

 

と、目に見えない部分で成長できる。

 

どんな挑戦も無意味でなく

どんな挫折にも価値がある

ーたとえ時間がかかろうとも、その失敗を真っ直ぐな目線で振り返る事ができたのなら

 

そう思えば、ここ数年で私は失敗続きだったけれど、

その内側でいろんなギフトを受け取り続けてきたんだと思っているんです。

 

このギフトの中には、私が病気を発症することなく順調に生き続けたら、受け取れなかったものもあると思っています。

 

 

ひどく落ち込むたび、私は年不相応に、ぽろぽろと泣いたりする。

 

けれども、一番最初に紹介した斎藤茂太さんはこんなことを書いています。

「なんでもカッカカカカと笑い飛ばしてしまうクセを身につけてしまえばどうだろう。」と。

 

以下抜粋です。


「恋人がいない。

それはよかった。

デート代がかからなくてすむ、と笑う。

 

恋人ができた。

それはよかった。

幸せはもうすぐだ、と笑う。

 

恋人にふられた。

それはよかった。

もっといい人にめぐり会うチャンスだ、と笑う•••。」

 

失敗を学びにして、そこからたくさんのものを受け取って。

落ち込みすぎず、闊達にユーモア満載の発想で人生を楽しんでいきていけたなら。

 

体験を伴った学びとともに自分の見る目をもっと磨いて、

くっきりと目尻の端に笑いじわを刻んでから死にたいものだ。

 

たくさんの失敗から、そんなことが考えられるようになったことが、

本当に、私にとっての長生きの果報なんだと思ったりしてるんです。

 

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。

病後、上手く生活が回っていた時分に、上手く回っているのは自分のおかげなのだ、と思って、ステップアップの転職をし、私は厳しい環境で働く中で、再び挫折しました。

 

決して、ステップアップに挑戦しようとする気持ちが間違っていたとは言いません。

 

私に足りていないことはたくさんあったのだと思います。

ただ、一番問題だったのは視野が狭くなっていたこと、他人の支えあって自分が成り立っていた事を理解していなかったことだと思っていてーそれに気づけたのは、その失敗から時間が経ち、その後もさらに視野の狭さからくる苦しみを何度も経験してーその度にそばの人にあたり、けれど支えられてからでした。

 

上手く言えないのですが、被害妄想で苦しむ時、あの荒波に飲まれる時ー被害妄想だと自覚のない被害妄想意識を感じている時も、私は自分のことがとても孤独に感じるんです。

 

自分の理解者はこの世で1人もいなく

みんな私を嫌っているに違いない

 

家族も、友人も、あの人も…私のことなどどうでもいいのだ

 

私はどうしようもない人間なんだ

だから皆が攻撃してくる

 

と思う。

 

でも、実際そうだったかというと、そんなことはない。いや、嫌っている人は多い環境もあったのでしょうが、心配してくれている人はどの環境においても必ず1人はいたんです。

 

失敗の苦しさが喉元をすぎるたび、

被害妄想の波を抜けるたび、

振り返ればあの孤独だった瞬間、自分は決して1人でなかったのだと気がつく。

 

 

続きます