主人にしばしば、自身の点数を確認する私。

その行為は、「自分自身の存在への不安や肯定感のなさ」が原因なのではないかと、思えるんです。

 

 

ちょっと聞きかじったことを書いてみれば、自己肯定感には二つの種類があるような気がします。

「自身の能力への肯定感」と「自身の存在そのものへの肯定感」です。

 

自分の能力の肯定感。

これは、努力と自信を身につければ手に入ることでしょう。

 

自分の存在そのものへの肯定感。

これは、もしかしたら幼少期、無条件に愛されることによって手に入るものかもしれません。

 

けれども自分も親になるという年になって思うことは、常に相手をー例えば子供を、無条件に愛し続ける、ということの難しさです。

 

 

私は幼少期、家庭の中でどうにも条件付きの、不安定な愛情を学んでしまった部分があるー気がしています。

 

程度の差はあれ、不安定な愛情を受け取りながら育った人は私のほかにもたくさんいると思います。数十年前、こういう家庭教育はある意味一般的だったのかもしれません。

 

それゆえか、世間的に見てとても優秀で出世し、順風満帆な人の中にすら、この「自分の存在への肯定感の傷」を抱えているーように見えることが私にはあるんです。

 

私を育てた母にすら、私は彼女自身が抱える自身の存在への肯定感への傷を感じます。

この傷は、親の抱える不安定さ介して、世代を超えて受け継がれてしまう事があるように感じます。

 

自分や相手の存在に対して、100%の受容と肯定をもって、愛し、愛される。

 

これは本当に難しく、そのように接することのできない自分や相手、あるいは親を責めることはできないかもしれない。

 

 

それでも人はーもしかしたら、「生き物は」なのかもしれませんがーきっと存在しているだけで満点なのだと思います。

 

赤ちゃんの時、私はそこで笑っているだけで満点だったかもしれません。

 

脈々と受け継がれてきた命とか。

今日まで維持されてきた体内の生存システム。

 

そういうものを鑑みても、そこに存在しているだけで、十分奇跡的で、かけがえない。

 

もちろん、人の行為には良しあしがあり、責められるべき行いもあるでしょうが、

存在そのものは責められるべきものじゃない。

 

相手からの評価が下がろうとも、

誰かから絶賛されようとも、

 

私の存在価値は変わらないーどんなときでも私は常に、満点なんだから。

 

そんな事を、

寄せたり引いたりするように思ったりして。



続きます

私は私自身を、とても不安定な生き物に感じているところがあります。

 

たとえば少し前の「長生きの果報」という記事でいくらか前向きな記事を書きました。でも、同じ時期に書いていた下書き記事を読み返すと、鉛色の悲壮感が漂う記事もありました。

 

妊娠中のメンタルの不安定さもあるのでしょう。

 

けれども、そうでなくても、私はどことなく不安定なんです。

 

統合失調症ゆえの症状でしょうか。

それもあるのでしょうが、私は、もっと根底の部分で自分に問題があるような気がするんですー私は、自分自身の存在への肯定感が足りていないような気がする。

 

 

笑われるかもしれませんが、私はしばしば主人にこう聞くときがあります。

 

「ねぇ、私は何点かな?」

 

元はひどく前が見えなくなった時、泣きそうになりながらこう話すことがあったんです。

 

「私はなんにもできないし、なにをしても失敗するんだ…0点しか取れないバカヤローなんだよ。」

 

それに対して、彼はこう返してくれました。

 

「0点なんかじゃないよ、ごはん(私)は満点だよ。」

 

 

私が仕事に行けなくなった時も、

家事が出来なくなった時も、

夜寝る前や、数秒前まで楽しく笑っていたのにふいに不安になった瞬間も、

 

私が聞くと、彼はいつでも「満点だよ。」と返してきます。

何度聞いても、いつもと変わらない調子で、「満点だよ。」と返す。

 

それを聞くと、私はとてもほっとするんです。


自分の頭では「自分は決して満点ではない。」と分かっていたとしても、胸のつかえがふっととれる。

そして、彼は言葉だけでなく、その気持ちを行動や態度によって体現し続けてくれています。

 

 

私は「私は何点?」と聞くとき、彼に何を確認しているのでしょうか。

 

それは「私自身の存在の点数」を確認している気がするんです。

 

私が自分自身の存在に対して、

肯定的にとらえられていない部分があるから

「自分自身の存在への肯定感」

これが土台の部分で傷ついてしまっているから、


自分の価値に対して常に不安が付きまとい何度も何度も自分の点数を確認している。



続く

ここ最近学んだ言葉で「知らんけど」という言葉があります。

関西圏外で育った私は、この言葉がたまらなく好きになりました。

 

 

わりとブログに書きたいことはたくさんあるのですが、言葉で表現するのが難しく、書いては消してみたり、結局記事にならないことも多いです。

 

週に1つくらい記事にできたらいいなぁ

 

なんて誰に頼まれたわけでもないのに思うのですが、ペースが追いつきません。

 

最近の近況としては、つわりはいまだ治まらず、むしろぶり返した気もしており、出産前までこの調子かと諦め半分で過ごしています。

被害妄想に関してはー被害念慮というみたいですねーまだ限局的に起きることがあります。

 

仕事をやめたとき随分落ち込みましたが、今はこの手にした自由な時間を可能な範囲で楽しむことができています。


 

被害妄想がひどくなったこと、時間が出来たことで、もう一度病気や自分自身について振り返るいい機会になりました。

 

振り返る中で本を読み、わずかに勉強もし、漠然と感じていたふわふわとした思いが、徐々に言語として固まり始めている雰囲気を感じながら、一方で、

 

「自分の中の何かを、自分自身も完全には理解していないんだろうな。」

 

という、もどかしさも感じます。

 

 

こうやって文に残すとき、頭で理解し、心で深く共感し、行動によって体の方まで落とし込んでから書き出すと、随分自分の言葉にしやすくなる気がするのですがーなかなかそこまでいきません。

 

 

この先、私は自分でもよく分からない気分のまま、確信もないままに記事を書くこともあるかもしれません。

なので、今後、引き続きこのブログを読んでくださる方がいるのなら、適宜私の文に付け加えてほしい言葉があります。

 

それは、

 

「―――知らんけど。」

 

例をあげるなら、

 

「…以上述べてきたように、日本の経済危機を回避するためには先にあげた三つの改善策を取り入れる必要があると考察するー――知らんけど。」

 

という調子です。

要は、話半分で読んでほしい。

 

良くわからないままに書いている言葉の列のあいまいさや、

余白の残った文章を、遊び半分で読んでいってもらえたら。

 

そんなことを思います。

 

 

 最後まで読んでくださってありがとうございます。